さて前回の記事で私は明治維新の頃の世界、とりわけ欧州はどんな状態だったのかをもっと知る必要があるとして、ペリー来航時の1853年に勃発したクリミア戦争を題材に取り、それまで宿敵同士であった英仏がこの戦争で初めて共闘し、それ以降も対立することなく強調しながら海外に植民地を作っていったという内容を紹介しました。実際にこの時期の英仏はほとんど衝突せずに植民地獲得へ万進しており、唯一対日政策で英国は薩長、フランスは幕府を応援するなど立場が別れましたが、これを除くと基本仲良くやっています。
それだけにこの時代は「英仏二強時代」といえるような期間だったと言えるのですが、そうした秩序体勢が大きく変わるきっかけとなったのは今日紹介する普仏戦争です。
・普仏戦争(Wikipedia)
普仏戦争は1870年に起こった、フランスとプロイセンが衝突した戦争の事です。戊辰戦争が勃発し明治元年となったのは1868年であることを踏まえると、ちょうど明治政府が成立した時期の欧州で起こっていた事件と言えます。
この戦争のきっかけを簡単に説明すると、スペインで王家の継承者がいなくなって次の継承者の候補にプロイセン王家の血縁者が挙がったことからでした。当時、フランスはプロイセンを警戒しており、スペインにプロイセン系統の王が立って戦争時に東西から挟撃されることを恐れてこの候補に対して継承させないよう国際社会に強く訴えていました。こうしたフランスの抗議を受けてプロイセンも候補者を取り下げたのですが、念には念にとフランスは当時のプロイセン国王を保養地まで追いかけて使者を出し、継承者を出さないよう要求しました。
こうしたフランスの行動に対しプロイセン国王は首都にいる宰相へフランスから使者が来たという電報を送ったところ、かねてからフランスとの戦争を企図していた宰相はこれはチャンスだと考え、送られてきた電報の内容を脚色し、フランス側は不躾に且つ居丈高にプロイセンへ要求したかのような文面に変えて世間へ公開してしまいました。この事件を保養地の名前を取って、エムス電報事件といいます。
脚色された電報内容を知ったプロイセン国民は外国に対しても居丈高に要求するフランスに対し文字通りに憤り、またプロイセンより南でオーストラリアからすれば北部に当たる、バイエルンなど普段はプロイセンと距離を置きながら独立していた王国もプロイセンに同調して反仏感情を高めました。そして相手のフランスもこうしたプロイセン国民がいきりたっているのを見て、「一度痛い目を見させるべきだ」とばかりにフランス国民もいきり立つという、まさにプロイセン宰相が思い描いていた通りにことが動いて行きました。
こうした中で当時のフランス皇帝ナポレオン三世は、本人としてはプロイセンとの戦争は避けたいと考えていたもののちょうど支持率も落ち込み国内からの批判も高まっていた最中であり、周囲の声もあって戦争を決意してプロイセンに宣戦布告を行い、普仏戦争は幕を開けます。ただ宣戦布告をしておきながらもフランス側は何の戦争準備も行っていなかったことから兵士の動員までに時間がかかるという、初動においてミスを犯すこととなりました。ただそれ以上に誤算だったのは、相手のプロイセンには外交と戦争の両方において天才が、即ち宰相のオットー・フォン・ビスマルクと、参謀総長のヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケの二人が揃い踏んでいたことだったでしょう。
ビスマルクはかねてからフランスとの欧州大陸の覇権を争う戦争を企図しており、あらかじめ英国、ロシア、オーストリアとは戦争に干渉しない様に了解を取り付けていた上、フランス側からの宣戦布告があればバイエルンなどドイツ南部の王国はプロイセン側で参戦するという盟約を結んでいました。
こうした万全の外交姿勢が敷かれていた上、参謀のモルトケは開戦に備え兵員を素早く戦地へ送る鉄道網、そしてその運用法や運送ダイヤをあらかじめ準備しており、開戦するやあっという間に国境付近へ編成を終えた大兵力の軍団を送ることに成功します。これにより初動で立ち遅れたフランスはプロイセン領土へ攻め入る間もなく、宣戦布告したにもかかわらず国境付近で防御陣形を敷く羽目となりました。
その戦争の経過については省略しますが、出す策全てが裏目に出るフランスに対し悉く出し抜いたプロイセンが各地で圧勝し、最終的にはセダンの要塞に籠ったナポレオン三世と約10万もの兵士が投降し、プロイセンが完全勝利して幕を閉じます。なおこの投降後、ナポレオン三世は首都のパリに戻ることはできずそのまま外国へ亡命することとなります。
この戦争に勝利したプロイセンはそのまま占領したベルサイユ宮殿で国王の戴冠式を行い、正式にドイツ帝国を称するようになります。またこの戦争にプロイセン側で参戦したドイツ南部の諸王国もプロイセンへの併合に合意し、こうしてオーストリア、ハンガリーを除く神聖ローマ帝国の領土はすべてドイツ帝国に組み込まれ、現在の大まかな国境というか国家構成が組み上がることとなるわけです。もっとも、プロイセンが発祥した元々の領土は現在はポーランド、ロシアに組み込まれたため現在のドイツの領土ではありませんが。
普仏戦争の結果、それまで海軍の英国に並ぶ陸軍のフランスの権威は落ち、代わりに欧州大陸最強陸軍の座はドイツのものとなりました。それと同時に英仏二強の時代から英仏独、それにロシアが加わる形で列強が形作られ、その下でかつての権威を失ったオーストリア、トルコ、そして独立の上に統一されたイタリア王国が続くという形で新たな欧州秩序が作られます。
そして外交においても、クリミア戦争以降は主導権を握っていたフランスでしたがその座ははっきりとドイツ、というより宰相のビスマルクの手に移り、これ以降の欧州大陸は実質的にビスマルクが外交秩序を差配していたような時代となります。そういう意味でも、ドイツが欧州大陸を管理していた(ビスマルク体制)と言ってもよいのではないかと私は思います。
この時、1872年。ちょうど日本でも明治政府が成立してようやくまとまりを見せていた頃ですが、まさにこの時に欧州ではドイツ帝国が成立し、急速な成長を遂げていたわけです。だからこそ欧州遣欧使節団として派遣された岩倉具視や大久保利通らがドイツやビスマルクに惚れ込んだのも無理はなく、その後日本は陸軍の軍制や法体系などでドイツを模範として国家建設を行っていくこととなります。
こうした秩序体勢はその後ビスマルクが政界を引退するまで続き、この間に欧州は列強同士の大規模な戦争は起こらず小康状態が続きます。そんな秩序体勢が大きく動くのは、敢えて言うならやはり1905年の日露戦争とそれに伴う日英同盟で、この戦争による勝利により日本がアジア発の列強として仲間入りする歴史ではないか私は考えます。