2017年2月19日日曜日

明治維新期の欧州~クリミア戦争

 日本は今頃寒気が来て真冬並みの寒さでしょうが、こちら上海は今日初夏のような天気でむしろ熱く、気温の激しい変化に体がついて行けず頭が痛かったです。もっとも、昨夜大学の先輩らを含むゲーム大会が深夜一時まで続いたのも原因でしょうが。

 話は本題ですが、明治維新といえば日本で承久の乱に並ぶ大革命の一つでその内容については小説やドラマにも数多く題材に取られることもあって詳細に知られていますが、同時期の日本の外、海外の状況については恐らく大半の方が知っておらず、多少知識がある人でもせいぜい米国で南北戦争が起こっていたというくらいしか知らないのではないかと思います。
 はっきり言えばこうした状況は日本国内の内容しか取り扱わず周辺事情に気を配らない歴史教育に問題があると思え、細かいところまではいいとしても大雑把にその時の世界はどんな状態だったのかをある程度教える必要があるのではないかと思います。特に列強諸外国との関係を持ち始めた明治維新期においては重要で、当時の列強状況、どこが強くてどことどこが組んでいたのかなど、大まかでも把握しておく必要があると思うので、今日はクリミア戦争を主軸にとって当時の欧州事情を解説します。

クリミア戦争(Wikipedia)

 日本の明治維新、というより近現代の始まりは「嫌な誤算(1853年)」という語呂合わせでお馴染みのペリーの黒船来航から始まるということで衆目一致しており、私も同じ価値観を共有しています。なお1800年代の年号は「いやん○○」で私は大抵覚えており、「いやんムーミン(1863年)薩英戦争」という単語を今も胸に刻んでおります。
 話は戻りますが、日本が本格的に清やオランダ以外の列強各国との接触を始め変化が迫られた1853年に勃発したのがクリミア戦争です。クリミア戦争とはなにか大まかに説明すると、領土拡張を目指し南下政策を取っていたロシアがトルコに対する侵略を行ったのに対し、その動きに歯止めをかけようとトルコ側についた英国とフランスが戦った戦争です。

 戦争の勃発理由はバルカン半島の小国家同士の小競り合いに始まっており、その紛争の処理を巡って当初はトルコ領土の分割や宗主権の確認で終わるだろうと思われていた外交交渉が英国、フランス、ロシア、オーストリアのそれぞれの国内事情からこじれにこじれた上に外交担当者の不始末もあり、なし崩し的にロシアとトルコが開戦してしまったというのが実態です。そうした背景から列強各国は当初、この戦争は短期間で終わるだろうと思っていたのですが、英国はなんとしても地中海にロシアを入れまいと強硬な姿勢を取った上、当該地域における利害関係が比較的薄かったフランスも民主選挙の上に皇帝に即位したばかりのナポレオン三世が自らの影響力拡張を図って英国と共にトルコ側へ参戦したこともあり、初代ナポレオンによるナポレオン戦争以来の欧州大戦へと発展していくこととなりました。

 戦争の中身としては産業革命を経ていたこともあって物資投入がこれまでと比べ破格の量となり、火薬量の増大もあって戦死傷者がそれ以前の戦争と比べ段違いに増えていきました。一方、戦術は未だに突撃戦法が主流でありなおかつ治療体制などに置いては旧態依然ということもあって戦地ではコレラを始めとした伝染病も蔓延し、フローレンス・ナイチンゲールが「これだから軍人どもは後ろのことを何も考えない」などと文句言いながら治療活動を展開してたそうです。
 勝敗については正直な所、双方で拙い戦術や連合軍同士の足並みが揃ってなかったこともあってグダグダが続いていましたが、ロシア軍の方で致命的な戦術ミスが相次いだ上、戦時中に皇帝ニコライ一世が逝去するという不幸もあり、1856年にロシアの敗戦でクリミア戦争は終結しました。

 ロシアとしてはこの敗北によって南下政策が一旦停止させられたものの完全に諦めていたわけではなく、一旦は東方政策に転換して満州、朝鮮地域への進出を図りましたがそこは明治維新を経た日本によって日露戦争で歯止めをかけられると、再び南下政策に戻って一次大戦に繋がっていきます。

 ただこうしたロシアの戦略転換以上に欧州世界への影響が大きかった点としては、この戦争で英仏が手を取り合って戦ったことです。両国はジャンヌ・ダルクが活躍した英仏百年戦争の頃から欧州の覇権を争い続けた国同士(一度だけスペインも加わるが)であり、先のナポレオン戦争では文字通りガチンコの戦いを経て英国がフランスを下したことによって欧州チャンピオンの座に輝きましたが、それでも両国は「終生のライバル」とクリミア戦争以前は思われていたそうです。
 そんな両国がこのクリミア戦争で協力し合い、さらに英国自身が欧州大陸に対する興味を失い始め、海外での植民地獲得に集中し始めるなどより海洋国家としての性格を強めたことによって、なし崩し的に欧州大陸の中の影響力ではフランスが一番などという風な見方が一気に広まりました。

 一方、クリミア戦争で準当事者でありながら何の主導力も発揮できなかったオーストリアに至っては、保護国であったイタリアでは独立運動が高まり、影響力を持っていた現在のドイツ南部の地域においてはプロイセンが徐々に圧迫していた状況もあり、かつてはハプスブルグ家でブイブイ言わせていた威光が明確に凋落し、誇張ではなくその後も欧州一等国から二等国へと陥落する羽目となります。
 そうしたオーストリアの凋落もを尻目にフランス、というよりナポレオン三世の威光はどんどんと高まり、彼自身の英雄思想から諸外国への介入も増えていったことからそれからしばらくの欧州外交はナポレオン三世のフランスを中心に動いて行きます。

 故に明治維新直前の幕末期、欧州世界は英国、フランスの二巨頭が珍しく共調し、二ヶ国とも海外の植民地獲得(フランスも熱心だった)に従事していた期間であったと言えます。欧州外交はやはりフランスを中心に行われ、この間にフランスはイタリア独立戦争に介入したり仲裁したりしており、アジア地域ではベトナムを植民地化したり、英国と一緒に清から租界地分捕ったりしていて、案外この頃のフランスは見た目にもノリに乗っていたんじゃないかという気がします。
 しかしそんな絶好調のフランスに対し、欧州大陸チャンピオンの座を狙い密かに準備を続ける国家が存在していたわけで、続きはまた次回に。どうでもいいですが、そこん家の家紋はどう見ても馬鹿そうな犬にしか見えません。

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