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2007年12月28日金曜日

大学闘争時代を読む~その三~

 続いて三回目。今回はその集団に対する価値観です。
 もう多少面倒くさいので、結論から言います。やはりこれだけ時間も経つと、日本人も価値観って変わっちゃうんだよね、ってのが結論です。

 一番最初の投稿にてすでに書きましたが、昔の人は日本を背負って立つような意識を持つ井上康生が好きらしいです。同様に、当時の学生運動の各会派を見ていると非常にグループ意識というか、集団意識が強かったような気がします。私はというと何でそこまで内ゲバやらかすまで集団に固執するのかが、当時の学生運動をやってた連中の思考で最もわからないところです。

 現代日本に生きる、精神年齢こそすでに年寄りくさいですが一応若者の私はというと、その所属している会派の主張が自らの主張と合わないというのならば、とっととその集団から離脱して、気の合う連中とまた別の会派を作ればいいのではないかと考えたりします。ところがこの時代はというと、自分が会派の主張と合わないと内ゲバやったり、会派の中でも権力争いやら主導権争いして主張を変えようとするなど、更には別の会派とも激しく殴りあったりリンチしあったりと、何故だか徹底的に思想の統一を図ろうとしています。これが全く私にはわかりません。
 恐らく、これはもっている価値観の違いだと思います。現代でもキリスト教徒イスラム教は互いに理解しあえない(日本やインドは多神教だからまだ双方を少しずつ理解できるらしい)と言いますし、根本から価値観が当時の活動家と私が異なるために理解できないのだと思います。

 では、一体どのような価値観が異なっているのかというのが、それが今回槍玉に挙げた集団に対する意識の違いかと思うのです。昔と今とで比べると、それははっきり言ってもいいくらいに個人の比重が高まってきています。これは別口でまとめていますが、いわゆる「失われた十年」の間にフェミニズムなどの欧米の価値概念の輸入に伴い、個人意識、個性というものが日本人において非常に高まりました。また社会的インフラ、分業が発達したため、地域の共同体に属さなくとも生きられるようになったのも大きな原因です。何気に今、村落社会を扱った「ひぐらしの鳴く頃」を読んでます、あまり関係ないけど。
 それはともかく、このように行動単位も集団から個人へと切り替わり、意見の発信の仕方も大きく変化しているように思えます。たとえば、それこそ昔ならばそれなりの学術団体やらマスコミに入らなければ大きく情報を発信できなかったものが、現在ではこのようにインターネットを介すことによって一人でも配布できる情報量は操作できます。敢えて想像するならば、やはり以前は集団を介してしか情報の発信が行えなかったために、情報を発信するために集団内であれこれ抗争があったり、またそれが集団意識の強化にもつながっていたのではないかと思います。

 このような集団から個人への意識の変化の根拠として、大学のサークルなんかも挙がってきます。聞くところによると全国の大学のサークルはどこも弱っているらしく、集団としてのまとまりがなくなってきているようです。一つに大学側が出席を厳しくしだしたなどもありますが、やはりその背景には先ほどの個人化の影響があるのかとにらんでいます。しかしそれでも昔の価値観を保存しているところももちろんあり、それが最初に言った私の嫌な上司だったのかと思います、本当に嫌な奴だった。

 ただ彼の価値観を考えると、上が白というなら黒も白というような、集団においてリーダーシップの非常に強い価値観だったと思います。確かに嫌々ながらみんなそれでまとまっていたところもありますが、現在の共産党、社民党の現況を見ていると、長期的にはそれだと集団は成り立たないと思います。以前にある人から聞きましたが、民主主義も欠点は多いものの、独裁主義など他のやり方に比べて一番マシなやり方だといいます。実際、独裁主義にはない自浄作用も存在するので私もそう思いますが、未だ日本の運動部や体育会にはこのような古い体制が残っているといいます。個人化によって広がるリスクもありますが、まずは旧来の残滓を完全に取り除くのが、私の時代の役目かなと思っています。

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