先日に中国の歴史参考書を購入したと書きましたがその参考書中で近代のページを見るにつけ、中国近代史においてこれまで着目していなかったある点に目がいくようになりこのところそのあたりをやけに詳しく調べています。具体的に何を気にするようになったかというと、本記事の表題に当たる清朝末期における立憲君主制支持派と共和制支持派の争いです。
現在において立憲君主制国家の代表格と来れば今度ウィリアム王子が結婚することで早くも盛り上がっている大英帝国ことイギリスで、基本的にこの立憲君主制という政体は憲法をベースに議会が実際の政治を切り盛りするものの最高権力者として世襲制の王を戴くという形で、実質の権力はイギリスと比べると小さく、なおかつ議論も少なからずあるものの天皇制を持つ日本も広義では間違いなくこの立憲君主制国家に含まれます。
それに対して共和制というのはこれの反対で、いうなれば国王や皇帝といった世襲の権力統治者や象徴が存在せず議会や内閣、大統領が最高権力者となる国のことを指しており、現在でしたらやっぱりアメリカやフランスが代表格です。
そこで本題に戻りますが、現在の中国は中国共産党の一党独裁による国で君主制か共和制かといえば一応は共和制ではあります。あくまで一応だけど。
ではそれ以前の中国はどうだったのかというとほかの国同様に君主制こと、王朝が政体をなしておりました。そんな中国における最後の王朝は少数民族である満州族が設立した清朝ですが、その末期において、具体的には1900年前後の日清、日露戦争の時代に中国では今後の政体を立件君主制とするか共和制とするかで知識人内で激しい対立があったようです。
清朝は日清戦争以降、それ以前のアヘン戦争は言わずもがな日本にも敗戦したことでようやく西洋技術を取り入れなければ最早どうにもならないという認識が各界に根付いたようです。日本も幕末は薩英戦争など当初は攘夷思想が強かったもののそれ以後は率先して西洋技術を取り入れてきたことを考えると今更かという気がしますがその辺は中華思想ということで、とにもかくにもそういったプライドをかなぐり捨ててようやく光緒帝の頃に変法運動といい、政体の革新などを図ったようです。
その頃に光緒帝の元で活躍し、この変法運動を大いに推進したのは康有為と、その弟子の梁啓超なのですが、どちらも恐らくは漢民族だとは思いますが満州族の清朝を盛り立てて中国の独立を保とうとしています。彼らが目指したのはそれまでの権力を皇帝一人に集中させる専制性ではなくそれこそ明治期の日本のような立憲君主制を目指していたようですが、彼らのこういった革新行動はかの有名な西太后ら清朝保守派のクーデターによって阻止され、光緒帝は幽閉され、康有為と梁啓超はそれぞれ日本に亡命することになります。
そうした立憲君主制を目指す勢力がいた一方、西洋技術の取入れなどといった点は共通していながらもこの際清朝を打倒し、新たに政体を共和制にして一から構築しなおすべきだと主張する勢力もこの時期に現れております。このような共和制を目指す勢力の代表格は孫文や後に中国共産党初代総書記となる陳独秀らですが、これらの共和制支持派は主に海外に拠点を持って中国国内に革命を呼びかけるなどして清朝打倒を目指していたようです。
結論から言うと西太后の死後にまだ幼い宣統帝溥儀ことラストエンペラーが即位したこともあり、当時軍権を握っていた袁世凱があっさりと孫文らに裏切って清朝は崩壊して共和制支持派の面々が権力を握ることとなりました。もちろんその後、梁啓超など立憲君主制支持派だった面々も議会に参加するなどして活動を行っておりますが、なんとなくこの争いを日本の薩長を始めとした統幕派、会津藩を中心とした佐幕派の争いのように見てしまいます。
明治維新期の日本も大きくこの二派に分かれて内戦を起こしましたが、戊辰戦争以後は幾度か内戦が起こったものの、清朝崩壊後の中国ほど激しい混乱にはならず徐々に統一国家への道を歩んでいきます。逆に中国は清朝崩壊以後は各地で軍閥が台頭し、目立った勢力を挙げるだけでも袁世凱の後釜を争って勝ち残った張作霖、中国共産党を引っ張った毛沢東、財閥のコネクションから上海で軍権を得た蒋介石などなど、文字通り群雄割拠の時代が訪れて統一ともなると蒋介石による北伐完了までまたなければなりません。
何故中国がこれほどまでに混乱を続けたのかとなると一次大戦など当時の世界情勢も影響しますが、むしろ逆に日本の方が異常な速度でまとまったと見るべきかもしれません。日本は明治維新から約30年後に国会を開設し、未だ薩長閥が勢力を握った上での制限選挙ではあったものの、憲法を制定した上で形なりには民主制の開放を達成しています。然るに中国は共産党が実験を握って70年程度経ちますが、未だに全国で一般市民選挙というものは実施されておらず、この点では日本が大いに優れていたと考えてもいいでしょう。
あと敢えて中国に対して苦言を呈すならば、清朝崩壊後にどうしてここまで混乱したのかといえばその一つの原因はほかならぬ孫文に大きな原因があるような気がします。孫文についてはWikipediaのページを見てもらえばわかる通りに何かと時代時代で手段を選ばずに交渉を行っては後の火種を自ら作っており、もうちょっと革命後の方針について確固たるビジョンを持って取り組んでたら全然歴史が違ったのではないかと思わざるを得ません。そういう意味では日本も、案外幕府をあくまで打倒しようとした薩長の考え方が正しかったのかもしれません。
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