「あと1元ありませんか?」
中国でレジにて会計を済ます際、必ずと言っていいほどこのように聞かれます。
たとえば購入金額が合計16元のところで20元札を渡すと上記のように1元があるかどうかを聞かれ、言われた通りに1元を追加して合計21元を渡すと5元札でおつりが返ってきます。
何もこのようなことは中国に限らず日本でも951円の会計の際に1051円を渡すような形で日常茶飯事のように行われておりますが、中国の場合だとこれがより顕著というか店員の側が客に強く要求してくるところがあり、この前なんか私の前で会計を済ましているおばさんが小銭はないと答えたにもかかわらず、「あんたのかばんからさっきからチャリチャリ音するから、本当は持ってるんでしょ」と店員が追求してきたことがありました。おばさんもおばさんで、「ばれたか(∀`*ゞ)テヘッ」といってかばんから小銭出すし。
このような会計時の額合わせというか簡単な暗算は日本や中国ではごく当たり前に行われていますが、実際のところこういう行為が行われている国はそれほど多くはない気がします。というのも私がかつてイギリスに訪れた際に売店で買い物時にいつものように金額を合わせて余計に小銭を足して支払ったところ、「こんなにいらないよ」といって小銭分だけ返されました。このようなことはほかの店も同様で、店員の反応を見ている限りですと、イギリスではこのように額を合わせるという習慣がないだけなのかもしれませんが、どうも瞬時の暗算が出来ないのではないかという気がします。同様のことはアメリカでもあり、このような経験から日本人というのはほかの国の人と比べて暗算をぱっとできるのかと妙な感心をした覚えがあります。
そう考えるなら日本同様に金額を瞬時に暗算しておつりを自然にまとめる中国人も相当な計算力を持っていることになります。実際に私の目から見てもこのような計算を初めとした中国人の教育水準は決して低くなく、国際レベルでは比較的高いレベルにあるのではないかという気がします。ただこれはあくまで中国の都市部の話で、地方となるとまだ学校も整っていない地域も数多くあるということから国単位ではまだ未知数ではありますが。
その一方、現在の日本は国全体で義務教育が徹底されててこうした生活上の暗算はもとよりかつて海外遊説中に小泉元首相が、「日本人はホームレスですら新聞が読める」と述べたように漢字が混ざる複雑な文字系統にもかかわらず識字率も世界屈指の高さを誇っております。教育崩壊が叫ばれて久しいものの、他国と比較するなら日本は未だ高い教育水準にあると言っていいと私は思います。
聞くところによるとアメリカやフランスでは移民が多くいることからそれぞれ英語、フランス語を理解できない労働者が数多くおり、工場などではそうした労働者に対してマルチ言語で作業手順所を作ったりなどあれこれ対策が必要だそうです。それに比べると日本は移民が少ないというのもありますが誰もが皆日本語を理解でき、なおかつそこそこの計算力を持っているのですから他国と比較するなら人件費を抜きにすると日本の労働者は優秀と言えるでしょう。経営側がそれに甘えている気もしないでもありませんが。
こういう風なことを考えるにつけ、国を支えていく上で教育というものは本当に重要なんだという気がします。今でこそ当たり前と考えてしまいますがたとえば日本人の30%程度が文字が読めない文盲だったとすると、自治体の処理から雇用現場の対策など様々な点で現在よりも手間と苦労が必要となります。またこうした基礎教育はもとより、医療や工業技術といった専門的な知識についても各分野で今よりも人材が少なくなってしまえば途端に経済が回らなくなるのも目に見えてます。もっとも医療現場は今人手不足で問題となってますが。
私は以前の陽月秘話にて、経済を拡大させるのに何が一番必要かといったら人口以上に教育が最も必要だと主張しました。この考え方は今でも変わりがなく、むしろこうして海外に出る度に基礎教育の重要性などについて気づかされます。この点で私が非常に英断だったと思うのは明治維新期のメンバーたちの決断です。
明治維新後の日本はお世辞にも財政状況は良いというわけでなく、国の予算のほとんどは大商人からの借金によるものでした(その代わり払い下げなど見返りがあったが)。それにもかかわらず非常に早い時期から学制を整備して全国各地に尋常小学校を作る一方、当時の最高権力者であった岩倉具視の給与以上の金額で外国人教師を招聘して高等教育も整備するなど、教育を非常に重視していたことがわかります。現代で考えてもこの時の明治政府の教育施策が後の日本の急成長に大きな貢献をしていることははっきりしており、このときに徹底させた基礎教育があったからこそ二次大戦後も急速な復興を果たすことも出来たかと思われます。
これは京都の人から聞いた話ですが、昔から京都は戦乱が多かったために京都人は燃えて島可能性のある家や家財といった財産にはあまりお金をかけずに形のない教育にお金をかける傾向があるそうです。現実に京都は市内にかつての教育施設から発展した数多くの大学があり、また私立中高などを見ていると教育熱が比較的高いと感じられます。生憎公立校は学区制のために人気がないですが。
国敗れて山河ありとは言いますが、教育さえしっかり施しておけば国は滅んでもすぐに建て直すことは可能なのかもしれません。逆を言えば教育が駄目になればどれだけよいインフラがあったとしても後々国は滅んでしまうかもしれません。
自分は個人として主義主張が強すぎるために教師にはなるべきでないとかなり早い時期に考えて実際になろうともしませんでしたが、なにかしら教育に貢献できるような活動は今後しなきゃならないなぁとは思ってます。具体的に何するかまでは未定ですが、このブログから何か発展することが出来ればそれに越したことはないのですが。
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