昨日の記事に関連する内容として前々から主張したかった内容として、日本社会における敬語の使われ方があります。かなり昔、それこそこのブログを始めた当初にも批判していますが、私は現代における日本人の敬語の使い方には明らかに問題があるように思え、可能ならばこの際廃止した方がいいのではないかと考えております。そこで今日はどうしてそう思うのか、何が問題なのかをこのところ好調な表現力を駆使して主張していきます。
まず最初に行っておきますが、私自身は敬語という日本語の表現技法を高く評価しております。日本語を学ぶ外国人からしたら覚えたり使ったりするのに面倒くさいことこの上ないだろうなとは思いますが、この敬語があるだけで時代劇も成立するし小説とかでも上下の関係を説明なしで読者に理解できます。にもかかわらず何故廃止するべきだというのかですが、単純にコミュニケーションを阻害する要因にしかなっていないと思うからです。
元々、敬語というのは話し相手の気分をよくするために出来たと言っても過言ではありません。しかし社会上で敬語の使用が一般化するにつれて、敬語を使われないと気分が悪くなる、失礼な言い方だと思うようになっていき、逆説的ですが敬語があるからこそ悪意のない発言が悪意あるように受け取られて責められるような事態が多くなってきているように思えます。
簡単な例を挙げると駅構内でつまずいて転んだ際、後ろから駅員が心配して「どうしたの?」って声をかけたら、この駅員はまず世間から批判されるでしょう。尋ね方としては「どうなされました?」というのが常識とされてこれ以外の聞き方したらなれなれしいだの客をなめているだのと言われちゃいますが、「どうしたの?」も「どうなされました?」も意味としては同じ内容で、どっちも相手を気遣う意思を表しています。それでも前者を使えば怒られちゃうわけですが、これって馬鹿馬鹿しくやないかと自分は思っちゃいます。
上記の駅での声掛けの例は極端な例ですが、こうじゃなくても実社会では敬っているつもりで言った言葉が相手からしたらちゃんとした言い方になっていないととられて、まるで揚げ足取りのように責められる材料となることも少なくありません。大昔にもこのブログで言いましたが、目上の人間に「ご苦労様」と言ったらアウトで「お疲れ様」と言うのがセーフというのは日本語の用法からしたら明らかにおかしいし、同じ意味の言葉なんだから細かいこと気にしてないで普通に受け取れよと言いたいわけです。
あくまで私個人の印象ですが、現代日本の敬語は相手の気分を良くさせてコミュニケーションを円滑にさせる回数よりも、誤用が氾濫している上にお互いぎこちなく気にし合って人間関係をギスギスさせる回数の方が多い気がします。これは本来の敬語の誕生理由とは真逆であるし、なおかつ存在もしない概念が実態を持つ人間の関係を阻害するなんて言語道断でしかなく、それであれば廃止した方が世のためみんなのためじゃないかと考えるわけです。もっともそれ以上に、敬語が使われないとすぐ不機嫌になるような心の狭い人間を淘汰したいというのもありますが。
かくいう私は敬語というか言葉遣いに対しては寛容であるよう心がけており、後輩にも自分に対して敬語を使う必要はないしフランクに話しやすい言葉で話しかけるようにかなりくどく言い続けてきました。呼び方もさん付けではなくなるべく君付けにするよう指示してましたが、さすがに「呼び捨てでもいい」とまでは言わない辺りまだまだ甘かったのかもしれません。
もっとも後輩に敬語を意識させないのは敬語の概念に疑問を持っていたこと以上に、敬語を意識するあまり頭の回転を鈍くさせるのがもったいなかったというのが本音です。言葉を普段使わない言い方で話すようにするとどうしてもそっちの方にメモリを食われるというか会話のペースや幅が狭くなるように思え、議論する際はマナーとかを気にするよりも存分に実力を発揮してもらいたかったというのが本音で、そういう奮起を促すためにも「俺を殺すつもりでかかってこい」などと中二病みたいなセリフも言ったことがあります。
最後に蛇足ですが、自分が議論する際に意識的に発揮できる実力は80%くらいが限度です。ではどうすれば100%まで発揮できるのかですが、これには議論する相手も同等の実力を持っており、なおかつお互いに議論が白熱することで実力以上の実力が引き出されるような感覚を覚えるので、この時が自分の100%だと考えています。今の所、この100%限界値を発揮させてくれる友人は一人くらいで、後は80%まで遠慮なく出せるのが数人、普段は50%以下で頭を回しながら会話している感覚がします。車のエンジンじゃないけど、たまには限界近くまで回転数を上げたいなと思うこのごろです。
10 件のコメント:
そうですね。外国語の知識がある者からすれば、敬語の無い(皆無ではありませんが敬語というより丁寧語)言葉で話す方が断然に話しやすいです。一部例外はありますが、職位や年齢に関係なく相手をYouと呼び、Hi guysと声をかける事の出来る英語の手軽さが好きです。日本語だと気を使うので疲れます。
まだ自分たち日本人は母語だからマシだけど、日本語を学ぶ外国人からしたらすごい大変な作業だと思うんだよね。そうした外国人の負担を下げようとまでは言う気はないけど、ここまで過剰に意識して使い合うのは弊害も多いし、異常としか思えなかったため今回記事にしたためました。
ぶっちゃけ自分も、中国語の方が気楽に話せて最近楽だと感じること増えたしね。
本日より日本語敬語を排除致します。関西語を保留致します。
関西弁のいいところは敬語が少ない所なんだよね。あと語数が少なくて会話がめっちゃスムーズ。日本人の頭の回転よくするためなら関西弁か中国語を奨励した方がいいかも。
尊敬語と謙譲語は、日本ではと年功序列(儒教?)と身分制(立憲君主制)に基づいていると思う。そしてそれに無意識なとこが問題を大きくしてるんじゃないかな?
まあビジネスと議論する時と友達作るときにゃ、敬語はゴミ。ローラかわゆす。
TZ
TZ様、コメントありがとうございます。
ローラを見ていると確かに敬語って必要ないかもと思ったりしますが、彼女の場合はかわいいから許されるわけであって、自分みたいなむさい奴があんな口調で話してたらはっ倒されてしまうでしょう。とはいえ、ああいうフランクな話し方している人がもっとテレビに移ればと陰ながら応援してます。ある意味、勝俣もそういう系列かもなぁ。
敬語廃止論を探していて辿り着きました
同意です
敬語廃止論を説くと、敬語は敬意を表すための云々言う人がいます
しかし、これはとっくに破綻しています
まず、日本語では基本的に友人には敬語は使いません
ということ友人のことは一切尊敬できないということになってしまいます
あり得ないでしょう
例えば友人がノーベル賞をとったら否が応でも尊敬の念は沸きます
しかし日本語ではその人がどんなにすごいことをしたとしても友人には敬語は使いません
つまり敬語は相手を敬うためのツールではなく、無理矢理上下関係を作り出し、上にヘコヘコ下をボコボコするためのツールでしかなくなっています
企業では社内公用語の英語化が進んでいますが当然だと思います
CEO達は敬語の欠陥性に気付いているが、廃止するのは文化的に厳しいのでそういうふうにしているのだと思います
コメントありがとうございます。
この記事でもくどくど述べていますが、本来敬語はコミュニケーションを円滑化させるためのツールなのに、むしろ阻害しているという現状は今でも疑問を感じます。
友人関係では敬語を使わないとの指摘ですがいいところをついていると思います。敬語ではないフランクな言葉を使うことは世界的にも親愛表現として共通しており、むしろ敬語を使うことで距離感が作られてしまう現状があります。完全になくせとは言いませんが、本当に風通しのいい会社空間を作るなら、余計な敬語は排除すべきでしょう。
関西弁は言語学的にもやさしく聴こえるのでよいですね。マスコミではレッテルを貼られますが…自分は好きですよ。
コメントありがとうございます。
関西弁、特に京都弁は昔から客商売のために磨かれ、どの角度からも角が立たないように仕上がっています。もっとも、角が立たないように皮肉いう方向でも発展してしまったのですが……。
標準語だと、特に地方の人からすると距離感を置いた話し方と受け取られやすいところがあり、その点だと関西弁は距離を狭めた印象を持たせられるので、コミュニケーション上では自分も標準語以上に高い素質があると思います。もっとも距離が近くなる故、脅し言葉も標準語より怖くなりがちかもしれませんが……。
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