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2014年8月28日木曜日

「弾圧」を自己正当化理由にする人々

 前回の「弾圧事例が協調される現代の歴史」という記事で私は、現代の日本史教育において明治以降の分野ではややもすると異常なぐらいに政府による弾圧事件が強調化されて教えられており、一部においては実際の歴史事実を誤認させるくらいなまでに過剰であると私は主張しました。その上でどうしてこれほどまでに「弾圧」事例が強調されてきたのか、背景にいるのはやっぱり日教組じゃないかと推定し、また何故日教組は弾圧事例を持ち上げたのかというと、日教組を含む社会主義陣営の連中は政府に弾圧されたという事実でしか自分たちの主義主張を正当化することが出来なかったからではないかという仮説をぶち上げました。今日はこの仮説内容の説明と共にその根拠を提唱することにします。書く前からなんだけど非常に気が重い、ってか普通に社会学の卒業論文とかにも使える内容だぞこれ。

 まずなんでこんな仮説を私が思いついたのかというと、久々に大逆事件の内容をネットで読み返していて、改めて何故事件の詳細よりも幸徳秋水が処刑された点ばかり強調されるのだろうと違和感を覚えたところから始まります。この時点で日教組や社会主義思想の連中はやたらと弾圧されたという事実を持ち上げるなと思えてきて、もう少し深く考えてみると弾圧されたという事実でもって自分たちの主義主張が正しいなどと言ってた連中も多かったのでは、っというかそれ以外で何故自分たちが正しいのか全く説明していないぞ……という具合に思い当たり、最後にフェスティンガーさんを思い出して結論にたどり着きました。

 最初に断言しますが、中にはまともな人もいたとは思うものの、戦後以降における日本の社会主義者の大半は何故自分たちの行動や主義主張が正しいのか、その理由をきちんとわかりやすく説明できた人間は全くいなかったと言ってもいいです。建前には貧富の差のない平等な社会の実現を掲げていますが、前に私が書いたように共産主義と社会主義の違いも曖昧だったように見えるし、政権奪取後にどうすればそのような社会が実現するのかという手段に関する構想については全く以ってノーコメントという体たらく。挙句に、革命のために警官をゲリラ戦で殺す事が必要だとか真面目に言ってて、警官殺して革命起こるならドンだけ楽なんだよと聞いてて呆れる限りです。

 話は戻りますがこうした支離滅裂な論法を繰り返していた社会主義団体やら思想者が何故革命を起こさなければならないのか、何故政府を打倒する必要があるのか、この辺りの説明として、「政府が自分たちを弾圧したからだ」という内容ばかりを繰り返しており、弾圧事例というか身内に逮捕者が出る度に妙な盛り上がりを見せていました。いくつか例を挙げると安保闘争の樺美智子とか、赤軍派の逮捕者が出た事件などですが、こうした死者や逮捕者は文字通り神格化され、「あの犠牲を無駄にするな!」なんてその後の活動理由にかこつけられます。私見ですが、活動してれば犠牲者が出るのは当たり前だというのになんか不毛なようにも見えます。

 このようにややもすれば被害者意識の強い思想というか考え方を社会主義陣営の人間はどうして持っていったのか、私なりに分析すると最初に挙げたフェスティンガーという社会心理学者が唱えた「認知的不協和」という現象が起きたのではと考えています。この認知的不協和とは何かですが本気で説明したら本一冊書けるので簡単な具体例を挙げると、イソップ童話の「酸っぱいブドウ」です。このお話は木の上に実ったブドウを狐が食べようとするものの手が届かず、最終的に狐は「あのブドウは酸っぱくて食べられないに違いない」と自己完結してブドウをあきらめます。

 認知的不協和とはこのように、願望(=ブドウ食べたい)に対して現実が実現しない、一致しない(=手が届かない)場合、自分でコントロールが出来る願望というか意識の方を、「ブドウ食べたい⇒ブドウは酸っぱくて食べられないに違いない」という具合に変化させることで納得させ自己完結させる心理的な動きを指しています。これは日常生活で探しても数多く散見される心理で、スポーツが上手くいかなかったら「きっと自分は初めからこの運動に向いていないんだ」と思ったり、宝くじが外れたら「大金を得たら人間駄目になる」と思いこんだりする心理も当てはまるでしょう。
 この認知的不協和が何故社会主義陣営の弾圧に対する意識に関係するのかというと、彼らの活動理由が徐々に変遷していくようにみられるからです。恐らく大半の活動家は建前通りに「平等な社会」とやらをなんとなくいいなとか思って目指したかと思います。しかしそれがどうすれば実現するのか、何をやってけばいいのかは完全に置いてきぼりでとりあえず運動を開始します。

 しかし社会主義というのは基本、政府を転覆させることがまず第一歩(大半の活動家は恐らくここすら理解してなかった気がする)ですから、運動でデモやったり大学封鎖したりすれば警察から妨害を受けるのも当たり前です。しかし活動家たちからすれば、自分たちは平等な社会を目指して活動している、世の中にいいことをやっているつもりなのに警察は不当に邪魔してくると考え、自分たちの信条(=願望)に対し警察の妨害(=現実)は納得がいきません。
 ここで、もしかしたら自分たちの活動の仕方、思想信条に問題があるかもと、ある意味で冷静に考えた人間は読売新聞の渡辺恒夫氏みたいに運動から離脱したことでしょう。しかしそうは思わなかった人間、自分たちが正しいこと前提で物を考えた人間は、警察が何故妨害するのかという理由を、「警察というのは絶対悪で、正しいことをする自分たちを妨害しようとする存在」だなんて考えたのかもしれません。こうした考えは更に発展していき、「警官&政府という絶対悪に助けられるのは悪。逆に弾圧されるということは自分たちが正しい証拠だ」と思い込んでったのではないかと私は推察します。

 非常に複雑な考え方なので簡単にまとめますけど、社会主義の活動家たちは最初は単純に平等な社会になればいいなんて考えで最初は動いてたと思います。しかし運動の過程で政府による警官から妨害を受けたことに納得いかず、「警官は悪、自分たちは正義!」なんて思い込み始め、終いには「悪い警官から妨害を受けるのは自分たちの活動が正しい証拠だ」とも考え始め、自分たちを正当化するための理由を平等な社会という理想ではなく、警官と戦う、もしくは警官から弾圧を受けるという方向に変化していったのでは、という風に私は考えているわけです。

 こう思う根拠はというと、全共闘の連中の話を聞いているとどうすれば平等な社会が実現できるのかという目的に対する手段についての議論がほとんど見られず、逆に自分たちがどれだけ搾取され虐げられているか、政府や警官とどう戦うか、どう反抗するかという話しばかり聞こえ、まるで初めから政府に楯突くこと、場合によっては被害を受けること自体が目的であるかのように見えるためです。そんな連中からすれば警察に逮捕されたり、殴られたりすることは一つの名誉で、「だからこそ自分は正しい」なんて根拠となるため、弾圧事例(自業自得を含め)が歴史教育でも大きく取り上げるようになっていったのではと思います。。

 非常にわかりにくいかと思いますが以上までが自分の仮説です。ただこの仮説は社会主義陣営に顕著である一方、案外日本全体にも蔓延している思想じゃないかと実は考えています。というのもある意味同じ穴のムジナかもしれませんが、一部の部落団体においてさも自分が差別を受けているかのように自作自演して変に差別撤廃を主張する事件が多発しているからです。この手の事件は量がめちゃくちゃ多いので比較的新しいのを一つリンク貼っておきます

立花町連続差別ハガキ事件(Wikipedia)

 こうした自作自演はなぜ起こるのかというと、日本全体に「弾圧されるのだから正しい」、「被害者は正義」なんて考えがなんかちょこっと背景にあるから起こるのでは、なんていう気がします。モンスターペアレントやクレーマーもそうですが、ほんの些細な損害事例やハンデでも、それさえあれば後は何したっていいような免罪符のような効果を持つと勘違いする人間がいるのも、「被害を受けるからこそ正しい」という、ある意味歴史教育の賜物みたいな影響もあるんじゃないかなと、さすがに検証はしませんがそんな風に疑ってます。

 以前からの友人に自分の意見を話すとよく、「それは極論だ」と注意されてきましたが、最近は後輩からも、「花園さん、それは極論ですよ」と注意されるようになってきて徐々に自省するようになってきました。なので今回のこの「弾圧」にテーマを取った一連の記事も多少妄想入っているかなとも思え、現時点で「絶対にこうだ!」なんて主張する気はさらさらなく、あくまで「こういう考えもあるよ」という仮説という形で紹介しております。
 しかし一歩だけ前に出ると、弾圧されること自体がもはや彼らの目的だったんじゃないかと考えた時、意味のない不毛な議論を過激派たちが繰り返していたという点や大逆事件の扱われ方の理由について、自分の中で一気に点と線がつながったような納得感が得られました。同時に、自業自得ともいえる弾圧事例に関してはもっと世論で「ざまーみろ」なんていった方が案外いいのではと思った次第です。

 下記ながらパズドラし始めたのもありますが、この記事は書いてて本当に疲れました。恐らく今年の記事で一番疲れた記事だろうな(ーー;)

2 件のコメント:

若生わこ さんのコメント...

>>日本全体に「弾圧されるのだから正しい」、「被害者は正義」なんて考えがなんかちょこっと背景にあるから起こるのでは

私はあまりその様には思いませんが…。
岡目八目とまではいきませんが、やはり自分に関係がないと思われる出来事に関しては人々は往々にして冷静な目でみることができている気がします(だから正しいというワケでもないですが)。しかし逆に言えば自分に関係があると感じたことに関しては大いに感情的になってしまうからこそ「弾圧されるのだから正しい」、「被害者は正義」なんて考えが発生するし、それを声高に主張する人間がいるから全体としてそのように見えてしまう…というのが真相ではないかなと考えます。

学生運動が下火になってしまったところあたりを見ても人間というのは熱狂している内は気付かずとも、そこから一歩離れたときには冷静な判断ができると思います。例えとしては不適当かもわかりませんが、趣味にお金や時間をつぎ込み、まわりから見れば変人だし、当の本人も飽きてから大いに後悔なんてのはよくあることですし。

ちょっと前置きが長くなりましたが簡潔にまとめれば「弾圧されている事柄に熱中している人間が無理矢理に自己正当化している」からこそ「被害を受けるからこそ正しい」という思想が日本全体にも蔓延している様に見えてしまうだけで、実際にはそのような単純な線引きで物事を思案する人間はさほどに多いわけではないのではないか、と思います。そもそも正当な報いである、と大多数が思えるものであれば「被害」ではなく「罰則」として捉えられるのですから。

花園祐 さんのコメント...

 うーん、この記事では共感は得られませんでしたか。まぁニッチな妄想を言っているのではという自覚は十分ありますが、こういうこと言うのも自分が変に被害妄想の激しい人間に囲まれてたからかもしれません。あと自分が子供だった頃、差別表現とする言葉狩りも激しく、未だその記憶が強いことも影響していると思います。
 記事中にも書いていますが、この記事は書いててほんとしんどかったです。しんどかったにもかかわらず、書き終えた後はどうにもしっくりこずあまりいい出来ではないのかもしれません。