恐らく、疲れているのだと思いますが先ほどからブログ執筆ページを開きながら30分以上も何もせずにパソコンでかけている音楽を聴き続けていました。このところやや仕事が忙しくはなっているものの体力的には暑さのピークを過ぎて余裕があり、返ってその余裕が出てきたせいか物事を異常なまでに深く考えることが増えており、感覚的にですがなにか猛烈な発想の転換が近く起こるんじゃないかという気がします。仮に起こるとしたら多分九月くらいから執筆内容がいろいろすごいことになるんじゃないかという予感があり、先週とか何度も強い頭痛に襲われたのももしかしたら軽いてんかん発作で、この時から頭の中で何か色々起こってたのかもしれません。
そんなわけで完全に読者置いてきぼりのわけわからない内容でも書こうかと思案に暮れた結果、先日に書いた「問題を探す力、発見する力」という記事の続編として暴力について少し書きます。前回の記事で私は表向き、受験エリートは問題解決能力には優れているが問題自身を捜す、見つける力は極端に低い傾向があると指摘しましたが、何故そのような傾向が生まれるのかという背景については敢えて一切触れませんでした。その背景とは非常に簡単で受験エリートは総じて体制側に組み入れられるからで、官僚とか大企業社員などその体制の中で恩恵を受ける立場となるため体制の維持に視点が向き、体制の秩序を崩すような不備や問題には関心を払わず維持に当たっての問題解決にのみ集中するためです。
これとは逆に非受験エリートは体制に組み入れられるどころか弾かれ、被差別階級に至ってはその体制にいることは不利でしかないため体制を否定したり破壊する問題点をむしろ探そうという風に動くのではと考えています。もっとも問題点を漁る方向に力を注力し過ぎるもんだからうまいこと革命や政権交代した所で今度は自分たちの体制を維持する能力が低く問題解決が上手くできないわけですが、言ってしまえばこれはいわゆる右翼と左翼、保守と革新の構図にそのまま当てはめることが出来ます。
この構図を裏テーマとして念頭に置きながら書いたところ、友人一人が見事にそれを指摘してきたわけで、明示しているわけじゃないから普通わかるはずないのに勘のいい人間はやはり食いついてくるんだなと驚くと共に、他にもはっきりと意識はできてはいないものの何となく感じていた人はいるのかなと少し考えました。
それは置いといて話しは変わりますが、以前に佐藤優氏が「左翼は個人の暴力はともかく、国家の暴力に鈍いし鈍感だ」というようなことを本の中で述べていたことを思い出しました。上記の体勢に対する意識の差と関係あるかは人それぞれですが、この佐藤氏の意見について私も同意見で、暴力に対する認識が右と左と庶民とで異なるなという風に考えています。
国家の暴力とは何かと言えばわかりやすいのは旧共産圏の言論弾圧や強制収容所で、個人ではなく国家権力によって個人へ行われる暴力の事です。いわゆる社会主義者たちは反体制側にいるときは国家の暴力に対して散々罵りますがいざ体制を握るや躊躇せずに存分に使い倒す傾向があることは過去の共産圏を見るだけでも火を見るより明らかです。かといって体制にいる資本主義者が国家の暴力を使わないというわけではなくこちらも国によってはガンガン使いますが、決定的に違うのは構成員がその暴力自体の恐ろしさをある程度は理解しているという点で、少なくとも自分がターゲットにならないように動くと私は考えています。
一方で庶民からすれば暴力と言ったところで中学高校で不良がいじめられっ子を殴るシーンやドメスティックバイオ連とかを想像するのではないかと思います。いわゆる交渉の手段として暴力を計算に入れ想像するのはヤクザとちょっとおかしな人くらいでしょうが、かえって「手段」として認識する方が上記例の「目的」として認識するよりは制限はあるかなという気がします。そして、自らがその暴力にさらされる可能性があると常に認識しているか否かも価値観の違いを生むでしょう
佐藤優氏なんかは実際にその国家の暴力にさらされたわけですが、彼ほど極端ではなくても暴力というのは予告なしで突然、思わぬ方向から理不尽に飛んでくるものだと私は考えており、対策をしていてもどうにかなるものではないもののなるべくさらされずに済むよう気は配っています。それでもさらされた場合はどうするのか、屈するのか抵抗するのか、抵抗するとしたらどうするのか、さすがにここまで深く考えているわけではないものの手段としての暴力は選択肢に入れています。
一般市民レベルではともかくとして政治や体制を見る上でこの暴力に対する認識の違いを把握することは団体や組織の傾向を掴む上では非常に有用で、その距離感、行使被行使に対する意識を見ることでどういった行動に出やすいのか、結論としてまともかまともでないかを認識する上で役に立ちます。具体的には、殴られる覚悟があって殴ろうとする人間が最もまともで、殴られる覚悟もないのに殴ろうとする人間がその対極です。
普通の日本社会では暴力はただ否定されるだけの存在ですが、否定されたところで社会から暴力の存在がなくなることはありえず、敬遠すべき概念とはいえそれがそこに存在することはしっかりと認識すべきというのが私の立場です。少なくとも、暴力のない世界だと騙して子供を社会に送り出したりは私はしたくありません。
何も考えずに書いているので非常にわかり辛い文章だと思いますが今回裏テーマは存在せず、言いたことは非常に単純で、やられたらやり返せばいいしそれで世の中は丸く収まり、暴力はよくないと言いながら平気で振るってくる奴は案外多いってことだけです。暴力のない社会と理想論を語るのは立派ですが、存在するものを直視しないのはただ愚かなだけでしょう。
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