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2008年12月6日土曜日

競争力に資本力は必要か?

 本日のニュースにて、米国がとうとうビッグ3(中にはデトロイト3と呼ぶのもいるらしいが、私としてもデトロイトと言う方が適当な気がする)こと自動車会社三社に対して大幅な金融融資を行って救済をしようと動いているというニュースが報じられました。このニュースを受けて、いつもながら思っていますが競争力と資本力はやっぱり別物だと私は思いました。

 実はこのトピックは私と私の親父で最もケンカになる話題です。うちの親父は大資本でなければこれからの企業はやっていけないと常々主張して、中小企業対策をやるくらいだったら大企業に対していろいろ保護政策をとらねばならないと言うのですが、私としては経済において大企業は所詮は看板であって、中小企業こそが実体経済の真の主役だと主張し、昔の人の名言をもじれば、

「大企業なんて飾りです。エライ人にはそれがわからんのですよ!」

 というようなことを毎回主張し、いつも親父と怒鳴りあいになりかねないほどの言い合いを繰り広げています。

 確かに、親父の言うとおりに資本がなければ企業はやっていけないという話もよくわかります。今じゃ一般的になったトヨタのハイブリッドエンジンも大規模の研究開発費の投資があってこそ生まれたものであり、一部の技術革新にはやはりお金がいるというのもよくわかります。
 しかし、私はお金をかけたところで必ずしも投資に見合うだけの成果が得られたり、その企業が真の意味で競争力を得られるとはとても思えません。その一つの根拠として、いろいろ統計情報が曖昧だったり、調査機関ごとにバラバラの結果が毎回出る「国際企業競争力」のランキングでは国としてGDPが小さいにも関わらず、「ノキア」を有するフィンランドを筆頭に北欧勢は毎回上位にランキングしており、親父の言う通りであればありえない結果を毎回出しています。

 そこで今回のビッグ3のニュースです。はっきり言いますが、アメリカの自動車会社は日本の自動車会社と比べると遙かに大資本ですが、売っている自動車製品の国際競争力で言うならば日本に大きく見劣りしており、今回の不況を受けて破綻の危機にまで追い込まれています。また自動車会社に限らずとも、アメリカの企業はどの産業においても日本の企業の数倍の資本を持っていますが、航空宇宙産業(ここでも最近ブラジルに追い上げられている)や農業を除けば全くといっていいほど国際競争力はもっておりません。

 私は大資本に対して、あくまで企業運営での選択の幅が広がるだけで実際には競争力の直接的な源泉になるとは思っていません。では何が競争力に直結するのかというと、現代のような時代で言うならばそれはやはり人材にあると思います。島津製作所のノーベル賞を受賞した田中氏のように、企業も国も、結局は一人の人間によって勃興することがあれば衰退するものだと私は捉えています。北欧勢が国際競争力を持つ背景としてよく挙げられているのは充実した教育制度にあると言われており、私も教育こそが競争力を養う唯一にして最大の手段だと思います。

 以前にNHKでやっていた「プロジェクトX」(最近このプロデューサーは万引きで逮捕されたけど)などを見ていると、やはりその紹介される企業では大した設備や研究資金なしという状況の中で、独自の創意と工夫で飛躍のきっかけとなる発明やプロジェクトに成功しています。うちの親父と親父のいとこが二人して一番尊敬している日清食品の安藤百福なんて、一度スッテンテンになってから自宅にて一人で研究して「チキンラーメン」を発明していますし。

 ついでに書くと、今の日本でこの点において何が問題かと言えば教育の質の低下ではなく、優秀な人材を上手くより分ける伯楽(馬の良し悪しを見極めるのが上手かった名人。転じて人材の評価、発掘の上手い人という意味)の不足だと私は考えています。昔から「世に賢才多けれども、げに伯楽は少なし」といわれていますが、私から見ても何故これほどの人材がこんなところに甘んじているのかと思うような人がごまんといれば、逆にその存在すら許せないようなくだらない無能な人物が重要な地位に居たりし過ぎている気がしてなりません。
 史記なんか見ているとそういう例は昔からごく当たり前なのですが、世の中そういうものだとわかっていてもやはり悔しく感じます。だからこそ、一人の伯楽の価値は下手したら伯楽が発掘する優秀な人材なんかよりずっと高いのではと最近思います。

内定取消しについて

 先ほど民放のニュースで取り上げられましたが、わかっている範囲内で現在問題となっている今年新卒の就職内定の取消し者数が315人に達しているようです。私自身はこの内定が取り消された四回生の学生たちに対しては同情する気持ちが強く、特に53人もの大量の内定者すべてに対し内定取消しを行った日本総合地所での報道で取材に答えた大学生が、日本総合地所は内定を得た6社の中から選びに選んだ会社であったので非常に残念だと言っていたのを聞き、もしこれが事実上の一時内定締切りに当たる十月一日が来る前に取消しが行われていればまだ救われた可能性があったことを考えると、如何にこの内定取消しに問題性があるのか強く考えさせられました。

 しかし大半は私のようにこの内定取消しについては同情論が多いものの、中には違った意見を言う人もいます。私のなじみの喫茶店のおばさんに至っては、
「そもそも内定自体が法的根拠も何もないお互いの口約束みたいなもので、学生の側も入社間際の三月になって就職を断ることが出来るのだから、冷たいようだけど企業の側に取り消されても仕方がないのでは」

 という風に言っており、言われてみると確かにそんな気もしないでもないと、この意見にも一理あると思います。そこから考えを発展していき、私は今回の問題はそもそもこの「内定」という日本の雇用慣行自体に原因があるのではと思い始めてきました。

 元々、私はこの企業の新卒採用の方法に以前から疑問を持っていました。現在どこの企業でも内定者をふるいにかけるための「内定式」が行われる十月一日は、ほんの十数年前までは企業が採用活動を公に始めてもよいとされるスタートラインの日であり、当時の卒業を控えた学生たちも十月から就職活動を始めていました。しかしその後、最近私も忙しくてなかなか書けずにいる失われた十年の間に企業が新卒採用を絞りに絞った挙句、優秀な学生だけを出来るだけ受け入れようと採用活動の期間が不規則に成った挙句にどんどんと早まり、現在では一部で「紳士協定」と言われる四月一日が採用活動のスタート日と、一応はされています。
 しかし近年に就職活動をやったことのある方なら言わずもがなですが、実際にはその四月以前よりどの企業も公然と採用活動を行っており、特にニュースで報道されている極端な例に至っては三回生の夏休み、もしくは三回生になる四月ごろから説明会など採用活動を始める企業が続出しており、先ほどの紳士協定なぞもはやあってないようなもので、学生の側としても四月はむしろ内定が次々と出される、「就職活動がある程度終わる月」として認識されています。

 これがどのように問題かというと、私も自分の恩師と何度もこの問題で話をしてきたのですが、単純に言って学生の勉強する期間というものが大幅に制限されてしまいます。昔のように四回生の十月以降であればそれまでは大学で大いに活動することができ、また卒業論文なども四回生になった時点から作成して十月以前に仕上げれば就職活動などにも影響せずにしておくことができます。
 しかし現在のように三回生から採用活動が始まると、やはり企業へ面接なり何なりと出向くためにその分学校の授業には出られなくなります。また早くに内定を得ればそれ以降は大いに勉強できるはずだと言う人もいますが、私の見ている範囲内だと大方の学生は内定を得るとすっかり安心して、ただでさえ授業に来ないのがもっと授業に来なくなったりする例のほうが多いように思えます。それに早くに内定を得られればとは言いますが、中にはなかなか内定を得ることが出来ない学生もおり、そのような場合だと三回生から四回生までの間丸々二年も就職活動に費やされてしまうということさえもありえます。

 また学生への調査でも、近年の好景気を反映して企業の採用数は大幅に増えているにもかかわらず多くの学生が就職活動に対して「非常に苦労した」と答える率が就職氷河期と比べて大差ないほど寄せられており、これには就職活動の期間の延長が影響していると分析されています。
 そうして学生を早くに確保する企業の側でも、実際の就職まで一年もの長い期間をおいているために途中で内定辞退を受けて急に数が足りなくなるなどあれこれ不都合な結果を招いております。言ってしまえば、学生にも企業のどっちに対してもこの大幅に急がれる内定慣行が大きな負担となっているように私は感じます。

 今回の内定取消しも、こうした背景から起きてしまったある意味システム的な欠陥による問題だと私は考えています。では具体的にどうすればいいかですが、単純に言って卒業後に一種のモラトリアムを設けるのが一番よいのではないかと思います。これはどういうことかというと、簡潔に言って在学中の学生へ企業は採用活動を一切行ってはならないということです。
 企業の新規採用、及び採用活動は卒業後の学生にしかやってはならないとして、学生の側も卒業するまではみっちり勉強して、授業やその他一切のもろもろの束縛から完全に解放された後から就職活動を行う風に慣行を変えていくという方法です。これによって学生の側は就職活動に専念することが出来、また企業の側も早くに内定を出して辞退者を続出させるというような辞退を避けることができ、また必要に応じて採用活動期間や就職時期を自由に決めることが出来ます。
 なにもこのモラトリアム案を使わずとも、企業の採用活動時期を昔みたいに十月以降に制限しさえすれば、今回のように急激な業績悪化の事態を受けてもある程度対応できたと思います。

2008年12月5日金曜日

麻生太郎の首相としての資質について

 まぁ恐らくこうなるとは思っていましたけどね。

 先週辺りから各社共に世論調査を実施しましたがその大体が危険水域といわれる三割を切り不支持も支持率を大きく越えるという、麻生内閣にとってはあまり喜べない結果ばかりとなりました。今回の調査でそのような結果となった背景として各社がそれぞれ推論を述べていますが、私の目からするとやはり第一に二次補正予算案の見送りが原因にあり、また解散が延びたことによって安心したのかいつもの失言癖が出て、私も「麻生首相の医療界への発言について」で取り上げたように謝罪にまで追い込まれる失態もここ数週間で何度も見せているのが響いていると思います。

 こうした麻生内閣について何社かがいくつか評論を出していますが、私が見た中で一番目を引いたのが以下の産経新聞の評論です。

政局の実態は「麻生ペース」 苦しくなるのは小沢氏(産経新聞)

 評論の評論になりますが、結論から言うと私は産経の記者、そして編集部の資質をこの記事を読んで大きく疑いました。この記事では一見すると追い込まれているように見えるが、麻生太郎は解散を先送りにして選挙準備をしていた民主党の候補の運動資金を使い込ませ、みごとに兵糧攻めが成功している。また内閣支持率は下がっているが政党支持率では自民党の方が依然と高く、地方の当落予想も実際には自民が有利なはずだと書いているのですが、もうどこから突っ込んでいいのかわからないくらい穴の多い評論のように私は思えます。

 まず兵糧攻めとやらの件ですが、これは確かに事実といえば事実ですが、もう一つの事実として自民党の候補もこの兵糧攻めを受けているというのがあります。というのも私の地元でもある自民党候補が9月から10月までの間、毎週一回は私の最寄り駅に立っては演説をしており、近くには早くも選挙事務所までも用意していました。またテレビタックルに出ていたある自民党議員も、正直解散がなくなって台所事情が非常に苦しくなったと本音を言っており、特に現在の衆議院で自民党は一年生議員を多く抱えているのでこの兵糧攻めで受ける影響は民主党より自民党の方が遙かに多いだろうと私は睨んでいます。

 そして次に内閣支持率は下がっているが政党支持率では上回っているという話ですが、私はこんなデータより今週になって発表されたもう一つのあるデータ結果に驚愕しました。そのデータというのも、「首相にふさわしいのは?」の調査結果で、これまで支持率の低下はあっても大差をつけて勝っていた麻生太郎がとうとう小沢民主党代表に僅差ではあるもの負けてしまい、これで自民党が唯一有利としていた立場すらも失ったといえます。
 というのもこれまでこういった調査では、「自民党には問題があるが、小沢一郎はもっと問題があるので任せられない」と意見が数多く寄せられており、なかば消去法的に麻生太郎が首相という面ではふさわしいという調査結果だったのですが、今回のこの調査ではそのような概念を突き破っても、言うなれば「小沢も問題あるが、麻生の方が問題だ」という逆転した結果となっており、政党支持率が自民のが上回っているという調査結果よりもずっと重要で、自民が不利であるということを如実に示しているように思えます。
 ついでに書くと、一ヶ月くらい前の調査では政党支持率でも民主が勝っていたし……。

 で最後の当落予想ですが、これもいちいち私が突っ込むのも馬鹿馬鹿しいのですが、記事では自民党の各選挙区の当落予想データはごく一部の幹部しか見ることが出来ないとだけした言っておらず、実際に自民党が有利だと示すデータの根拠は何もありません。自民党を持ち上げる新聞だからといって、これだけ実情とかけ離れた記事を載せる産経にはほとほと呆れました。

「麻生さん=KY首相」資質疑問視する風潮広がる(読売新聞)

 そんな産経に対して上に挙げた読売新聞の社説はよく分析しています。細かい内容については記事を読んでもらえれば特に説明する必要はないのですが、最後の田原総一朗氏の話にはどこかしら、突っぱねるようなものが入っているように見えなかなか深い言葉に思えます。

 ここから私の意見ですが、私はもともと麻生太郎が首相になるのは疑問視していました。言ってしまえば、この人は外交から経済まで何にもわかっていない人だと前から思っており、このところの発言を見ているとその見方はやはり間違っていなかったと確信しています。
 これまでに麻生が主張してきた政策案はどれも具体性から効果までどれも釈然とするものはなく、どちらかと言うと場当たり的なものばかりで、今問題となっている公共事業の拡大といった既に否定されたものを持ち出すというような無為無策に近いものばかりでした。唯一面白いと思ったのは2年前に文芸春秋紙上で展開した「マイナス金利国債案」がありますが、これは実現はともかくとして考え方は面白いと思いはしましたが、これ以外の政策案はどれも唖然とするほどくだらないものばかりです。

 外交についてもオバマ次期政権スタッフの顔ぶれを見て、この面子は対日政策がよくわかっている人たちばかりだ、というようなことを言いましたが、あのスタッフは前のクリントン政権の人間ばかりで、そのクリントン政権は戦後最も日本に対して冷淡な態度を行った政権ですので、何を根拠にああ言ったのかが未だにわかりません。

 多少こじつけのような気もしないでもありませんが、今の麻生太郎を見ているとあの徳川慶喜が毎回浮かんできます。慶喜も英邁だと言われ続けて何度も将軍候補となりながらもその度になれずにいて、最後の最後で期待されながら将軍になったかと思えば昨日言ったことを今日ひっくり返すというようなことを何度も行い、ついには幕臣から「二心殿」とあだ名される始末でした。
 となると今後はどのように江戸城無血開城が行われるかが気になり、誰が勝海舟、ひいては今ブームの篤姫の役をやるのかですが、勝海舟の候補としては上げ潮派(もうこれも死語だな)の代表格である中川秀直氏と、その中川氏と以前に意見の対立こそあったものの今じゃ麻生との対立が大きくなりつつある与謝野馨氏、そして若くて勢いがまだあるけど見ていて不安になってくる渡辺喜美氏です。
 じゃあ篤姫はとなると、女性だから小池百合子氏……だったら非常に面白いけど、実際にこの人は自民党が野党に転落しそうになるとうまいこと民主党に乗り換えてきそうだから困る。

2008年12月4日木曜日

犯罪被害者への報道被害について

 昨日の記事では犯罪者の家族への報道被害について所見を述べましたが、今日は犯罪被害者への報道被害について思うところを述べます。

 実は私の住んでいる近所に、今年全国を大いに騒がせたある大事件の被害者が住んでいる家がありました。その事件は他の事件同様発生から一、二週間の間、テレビや週刊誌が大いに取り上げたということからその被害者の遺族への取材のため、その家へも発生当時は数多くのマスコミが寄り集まりました。実はその家の近くへ私のお袋がある理由でよく伺っていたので当時の状況を詳しく見ていたそうですが、それはもうたくさんの人間が発生当時は押し寄せたらしく、一週間後には玄関先に「マスコミの方は取材を遠慮願います」という張り紙が貼られたそうで、ご遺族の方も見る見るうちにやせていき、事件発生から数ヶ月を経過した後、マスコミの取材こそなくなりましたが、ご遺族の方はとうとうその家から引っ越して行ったそうです。
 このような犯罪被害者へのマスコミの取材攻勢による二次被害ついては一部で問題視する人間がいますが、いかんせん私が見る限り現在のところそれほど大きな動きにはなっていないように思えます。

 何故こうしたマスコミへの取材批判について大きな動きにならないかというと、それは言うまでもなく世論の声を大きくするのはマスメディアで、そのマスメディアがわざわざ自分らの不利になるようなことを報道しないということに尽きます。もっとも、インターネットが発達する以前はこうした取材攻勢が今以上に激しく、ある芸能人などは旅行から帰国後、しつこくカメラを向けるマスコミのカメラが子供の頭に当たって子供が泣き出したので、「何をするんだ」と注意したらその怒った所をカメラで取られ、翌日には「○○、記者に暴行」という見出しで子供が泣き出したことを無視されて記事が書かれたと言っていました。最近ではさすがにこういったパパラッチ的な行為は大分なくなったかと思っていたら、この前の卓球の福原愛氏の帰国の際にものすごい数のマスコミが集まってたので、もしかしたらまだ続いているかもしれません。

 このような問題のあるマスコミの過剰な取材行為ですがもちろん芸能人だけでなく、前回に解説したように犯罪者の近親者はもとより、今回の内容の犯罪被害者、またはその家族へも以前から行われてきています。私が記憶する代表的な例を挙げると、最近のものだと香川県での姉妹、叔母が殺された事件では姉妹の父親が犯人だと各所で疑われ、ある売れないアイドルなどはブログで公然とあいつが犯人だと名指しして干され、テレビ司会者のみのもんた氏も犯人ではないのかと意図的ににおわせる報道を行い、真犯人が出たあとにこの父親へ謝罪しています。

 そしてやや以前の例、最も問題のある報道被害の例はなんといっても松本サリン事件における河野義行氏の例です。この松本サリン事件の第一通報者でもある河野義行氏は当時に製薬会社に務めていたこともあり、サリンが使われたという報道を受けて薬品の専門家であると見られたこの河野氏が製造したのではないかと、実際にはサリンの製造に必要な設備などが全くなかったにもかかわらずありもしないでっち上げの推理が警察やマスコミを通して行われました。今でこそこの事件はオウム真理教が起こした事件だと断定されているものの、当時はこの河野氏が犯人だと決め付けられメディア上で激しく批判されたばかりか、警察にも実際に何度も拘留されています。なお、現在に至るまでマスコミ各社は公式に河野氏へ謝罪を発表していないそうです。

 河野氏の妻も松本サリン事件で健康被害を受けており、先の香川の事件でも親類が被害を被ったにもかかわらず犯人扱いされ、どれだけ辛い思いだったのか想像することも出来ません。こうした犯人だと間違われる冤罪的な報道はもとより、ただでさえ家族が殺されてつらい思いをしている遺族に対して異様な取材攻勢を行うという、最初の例のような問題のある取材や報道は枚挙に暇がありません。
 そしてなんというか、どんな大事件もほとぼりが冷めてしまえば皆忘れてしまうものです。現に元厚生次官の殺人事件も、ちょっと前まで延々と報道されていたのが今週に入って報道時間が大幅に減少しています。しかし取材攻勢を受けた被害者やその遺族はその一瞬の間に過熱する報道のために、最初の例のようにその後の人生を大きく狂わされてしまうのです。そう思うと、こんな行為は畜生にも劣る行為に思えてなりません。

 単純にこういった問題をどう防ぐかと言ったら、私はやはり過激な取材や報道に対して問題性があるかどうか判断する、民間人や専門家などで組織する中立的な組織をしっかりと機能させることが有効だと思います。テレビ番組などには「BPO」という放送倫理機構があり、現在まである程度問題のある報道を指摘するなど貢献していますが、私の目からするとやはり不十分な気がしますし、最も問題性の高い週刊誌等へはこうした組織の存在を私は聞いたことがありません。
 そしてそのような問題のある行為をマスコミが行った場合、やはり報道の二次被害を受けた被害者に対して賠償金などをしっかりと支払うような罰則に関する仕組みを整備することも必要です。なんでしたらたとえ国家の情報統制だといわれても、私は法制化をしてもいいのではないかと思います。そう思うほどこの問題は根深いと私は考えており、また昨日に書いたようにマスコミの側で自主規制するような動きが見られないのも理由に挙がります。

 最後に、私自身が直接BPOに携わっていた放送関係者の方から聞いた話を載せておきます。

「その番組や取材に問題性があるかどうか、それを判断するのは難しいとよく言われますが、実はこれはとても簡単なことなのです。その番組政策や取材を行う人に対して直接、あなたは自分の行っている行為を自分の子供に見せられますか、と聞くだけでいいんです」

2008年12月3日水曜日

犯罪者の家族への社会的制裁について

 かなり昔に法学部に通っている友人からこんな話を聞きました。

「日本の刑事事件で判決を下す場合、基本的には犯罪に対する制裁という意味では敢えて一段低く刑事罰を決めている。というのも、その犯罪を行った被告にはその後将来にわたって前科が付きまとい、自然に就職や生活面で社会的制裁というハンデがつくことが織り込み済みだからだ。要するに、刑事罰と社会的制裁がセットで犯罪への制裁が考慮される」

 この話を聞いて、私は非常になるほどと思いました。確かにどんないきさつがあれ犯罪を起こした者にはその後どれだけ改心したとしても、元犯罪者というレッテルが付きまといどこへいっても社会的制裁が付きまといます。それを考えたら刑務所にいる年数などは、こうした社会的制裁をあらかじめ考慮して決めるべきだと言われてみるとその通りです。
 しかしこの社会的制裁ですが、犯罪を行った本人にのみ効力を及ぼすのならともかく私も何度かこのブログで記事を書きましたが、実際には何の罪もない、その犯罪者の近親者に対して容赦のないマスコミの報道によってその効果を強く及ぼすことの方が多いです。

 いくつか私の覚えている例を挙げると、一番代表的なのはやはり酒鬼薔薇事件の犯人の家族です。この家族の例だと持ち家を売り払って居住地から引っ越さざるを得なくなり、犯人の弟もそれに合わせて学校も転校せざるを得なかったそうです。さらに歴史をさかのぼると、今年死刑が執行された宮崎勤の事件ではあまりの報道の過熱ぶりや社会的批判を受けてか、犯人の宮崎勤の父親が自殺に追い込まれています。
 そして私が一番悔やんでならず、もっと議論を深めるべき事件例だと考えているのが姉歯秀次元建築士による強度偽装事件にて、姉歯受刑者の妻の投身自殺です。事件報道を見ているこちら側としても、自宅の玄関を四六時中カメラで映してはごみの出し方から門構えなど、なんにでもいちゃもんをつけるマスコミの報道振りには寒気を覚えました。恐らくもし自分があのように報道される立場に回った場合、自殺しないにしても相当神経が参り、その後に立ち直ってまたまともに生活できる自信がありません。

 このようにセンセーショナルな犯罪事件の場合だとマスコミの報道が過熱し、しばしばその報道は犯罪者の近親者に対しても強い社会的制裁を与えることとなります。しかし一部ではこうした報道に対し、犯罪者の身近にいた、それも犯罪者の親なら駄目な子を社会に出してしまったのだから同様に制裁を受けてもしょうがないという意見をたまに見かけますが、今時連座制ではないのだし、それはとんでもなく間違った考え方でしょう。これまでの私の経験からすると、たとえどんなに出来た人の子供でも中には変な人間も育ってしまうこともあります。そうやって出てくる変な人間に対して親の教育がどうとかこうとか議論したところで、また社会的制裁が近親者にまで及ぼすという概念が犯罪者に作用して犯罪が減少したりという風にはとても思えません。

 結論を言ってしまえば、犯罪者の家族への社会的制裁は本来あってはならないものだと私は考えています。それはいうなれば、どんな事件であろうとこうした近親者の報道をマスコミはしてはならないということです。このような議論は何も今始まったものではなく昔からありますが、一向に改善される気配はありません。
 恐らくマスコミの側からすると、視聴者が求めるから取材をしているだけだ。悪いのはそういったゴシップを求める視聴者だというようなスタンスを毎回取っていますが、この言わんとしていることは確かにわかりますし、大衆はゴシップを求めているのも事実です。ですが本来中立を主張するべきマスコミならば、そうした求める声があるとしても社会的影響を鑑みて、敢えてそのような部分に触れないと判断するべきではないでしょうか。

 よくこうした部分への報道や取材の制限を厳しく法制化するべきではという議論が起こる度、マスコミは国民の知る権利が損なわれると言っては強く反対します。ですがマスコミ自体がその何の罪のない近親者に対して社会的制裁を現実に与えて続けているというのなら、私はもはや法制化もやむを得ないと考えています。というのもマスコミは、長年この問題が議論されているにもかかわらず一向にこうした近親者への報道被害を自主規制する動きを見せないからです。それならば国の法律によって取り締まる以外、こうした人たちを救う術はないでしょう。

 ややまとまりのない文章になりましたが、今も起こっている厚生省元次官の連続殺傷事件の犯人の実家への執拗な報道など、この問題は現在進行形の問題です。私はあまりこういうゴシップには興味がないのも影響しているでしょうが、早いうちにこうしたことはもうやめにしなければいけないと思います。
 ちょっとこれについてもう少し思うことがあるので、明日また続きを書きます。

2008年12月2日火曜日

「アラフォー」について、及び日本の結婚観

 本当は昨日に書きたかったんですが今年の流行語大賞が昨日に発表され、今年は「アラフォー」と「グー」が見事大賞に輝きました。結論から言えば、少なくともこの「アラフォー」だけは大賞とは行かないまでも流行語に入ってもらいたいと願っていたので、なかなかうれしい結果でした。

 このアラフォー、元は今年前半に天海優希主演で放映された「アラウンドフォーティ」というドラマから派生した言葉で、意味もこのドラマで取り上げられた「40歳を過ぎた独身女性」というものです。
 何故私がこの言葉を流行語として待望していたかというと、やはり現在の日本の男女像や結婚といった社会事情を強く反映している言葉で、後年に2000年代を振り返り分析する際に必ず役に立つと信じているからです。

 日本の結婚観は大体バブル期前後から、社会的通過儀礼としての重要度を下げていきました。今こういう風に書くとびっくりする人もいるかもしれませんが、当時の文物を読んだりすると、若手官僚が登場するシーンによく同期の官僚の結婚式のシーンがあり、そこで主人公なり脇役なりが、
「あーあ、○○は部長の娘を嫁にもらいやがって。俺たちの出世レースで一つ先に出たなぁ」
 と、必ず言っていました。
 さすがに今はもうないと思うのですが、当時は出世は非常にコネなり何なりが幅を利かせていたのか、本当かどうかはともかくとして「上司の娘を嫁にする」というのが官僚界において出世の糸口となると世間は見ていたようです。もう一つ例を挙げると、この前ようやく社長になった島耕作が課長になったばかりの頃に嫁に三行半を突きつけられた際、
「待てよ、今離婚したら出世に響くじゃないか。仲人となった上司にも面目が立たない」
 などと言うシーンがあります。なんていうか、今見ると鼻で笑えます。

 このようにバブル期以前は、社会学的に言うなら結婚という儀式が社会的地位の形成に対して大きな影響力があったといえます。しかしバブル期、というより85年の制定から90年前後により実施が強化されていった「男女雇用機会均等法」が一つの契機となり、この動きに歯止めをかけたと見ていいでしょう。
 この「男女雇用機会均等法」の実施によって言うまでもなく女性の社会進出が増え、男と結婚して頼らなくとも女性は自活できるようになり、この時代辺りから「独身貴族」という言葉が生まれるなど自分だけに消費するために独身を続ける者が男女共に増加していきました。
 ついでに言うと、独身貴族という言葉が生まれる一方で高校や短大を卒業後、実家にいながら結婚を待つ身を表す「家事手伝い」という女性限定の職業は完全に消え失せました。今の若い子は信じないかもしれないけど、昔は「家事手伝い」って、役所の書類とかの職業欄に書けたんだよ。「自宅警備員」は今ならかけるのかな?

 そしてここが今日の肝心な部分ですが、独身貴族がでてくるなど結婚に対する社会的価値が低くなっていく動きはそのまま変わらず、現代に至って私は「三十路」という言葉はもはや死語だと考えています。
 統計上でもここに挙げた厚生省の統計でも初婚時年齢は右肩上がりに伸びる一方で2005年度で女性は27.8歳にまで来ています。なお、このデータは私から見るとちょっと頼りないデータで、結婚をした人限定の平均年齢の統計で、現在もなお独身の人の年齢は加味されていないので、実際にはあまり使えないデータですが、他にいい資料がないので引用しました。
 なお大都市部では既に平均結婚年齢が十年位前から30歳をとうに過ぎており、未だに独身のままの人も数多くいるので、現代はみんな三十路で当たり前ともいえる状況です。

 つまり、それまで「そろそろ結婚しなければ嫁ぎ遅れる」と女性が意識し始めるボーダーラインだった30という年齢が現代はあまり効果を出さなくなり、現代では三十歳からワンランクアップして「マジでもうヤバい」と思うようになるボーダーラインが40歳ということが徐々に定着してきたといえる状況で、そういった意味で「アラウンドフォーティ」というのは非常に現代独身女性をうまく言い表した言葉だと思うがため、私は高く評価しているのです。

 何気に私のいとこ(♀)も今年晴れてアラフォー入りして、本人は結婚したいとよく言っておきながらもわがままな性格が災いして全然進展がありません。
 最後にちょっと適当なことを言うと、最近私は「愛おしさ」という感情は対象の相手に「弱さ」を見つけなければ成立しえない感情ではないかと思えてきました。言ってしまえばアマゾネスのようなごつい女性に対しては「愛おしさ」より「頼もしさ」というものを感じるでしょうし、猫とか子供とか相手していてかわいいと思うのはやっぱり相手が弱くて守ってあげなくてはと思うのが背景にあるからだと思います。
 然るに現代は男女共に独立した個を持てと日本の教育現場では不完全ながら教えられますし、女性の社会進出に対してもどんどんとプッシュがなされています。果たしてそんな環境で、結婚に結びつくような「愛おしさ=弱さ」を相手の女性に感じる男性はどれほどいるのか疑問ですし(逆はありそうだけど)、そうしたことが婚姻減、離婚増、少子化のトリプルパンチにつながっているのだと考えます。

 じゃあ日本の少子化をどうすればいいかといったら、どんな手段を選んでもいいというのならやはり女性の社会進出を徹底的に阻むことが一番効果をあげるでしょう。まぁ現代ではそんなことできるはずもないし、私としても才能ある女性を社会で使わないのはそれもまたもったいないことだと感じるのでやりたくはありませんが、他に方法があるとしたら結婚観を徹底的に変える事しかないと思います。
 やはり現代では結婚は双方の「愛おしさ」を基底にしなければ成立しないという観念が非常に強いのですが、これでは「愛おしさ」が発生する「弱さ」がどちらかになければ私の考えでは起こり得ません。それだったらこの際、「結婚とは、生き残ることが難しいこの世の中にてサバイバルパートナーを得るということだ!」と、北斗の拳ばりに世の中の不毛さを謳い、戦場で後ろを任せられるような相手を結婚相手に選ぶべきだという観念を持たせれば、女性が社会進出しても問題はないんじゃないかと思います。実際、私なんかは出来ることならそういう人、もとい余計な支出が少ない名古屋の女性みたいな人を相手にしたいです。けちな性格なもんで……。

2008年12月1日月曜日

かつてのエニックスのマンガと、「月刊少年ギャグ王」の思い出

しっとマスク(2ch全AAイラスト化計画)

 昨日に引き続きまたもリンクから始めましたが、私がいつも見ているイラストサイトの「2ch全AAイラスト化計画」にて上記の「しっとマスク」がイラスト化されたのを見て、なんていうか忘れていた思い出が一気にぶわーって出てきたので、ちょっとこの時期のエニックスのマンガと既に廃刊した雑誌の「ギャグ王」について話そうと思います。

 まず「しっとマスク」ですがこれは松沢夏樹氏作の「突撃パッパラ隊」というマンガにて、もてない軍人キャラの宮本がカップルを見つけるごとにその交際を妨害するキャラとして扮装したキャラクターですが、ありがちでありながらあんまり実際にネタにはされづらいキャラであり、そのテンションの高さとあいまっていい味を出していました。
 しかしこの「突撃パッパラ隊」については、残念ながら厳しい評価をせざるを得ないマンガです。しっとマスクが登場したての頃は当初のコンセプトどおりに「過激なアーミーギャグマンガ」という路線が貫かれていたのですが、原作が中盤に差し掛かった頃からただのハイテンションなだけのギャグマンガに成り下がり、ひねりがどんどんと減っていって面白味もどんどんと失われていきました。それならばまだ最初の路線を堅持していれば、まだ面白く読み続けられたと思います。

 なお、このパッパラ隊が連載していた当時のエニックス社発行マンガ雑誌のガンガンは、販売部数こそそれほどではなかったものの、他のマンガ雑誌と比べて雑誌全体のくくりが非常に薄く、漫画家がそれぞれ思い思いに自由な話を書いており、贔屓目もあるでしょうが非常に面白かったです。当時のガンガンのホープはなんといっても、現在のホープである「鋼の錬金術師」の作者荒川弘氏の師匠、江藤ヒロユキ氏の「魔方陣グルグル」で、これなんか多分今読み返しても十分に楽しめるマンガですが、このグルグル以外にも「ハーメルンのバイオリン弾き」とか「浪漫倶楽部」(こんなのわかる奴いるのかなぁ)など、全体的に荒削りながらも強い個性を持った連載陣を抱えて毎月楽しめて読めました。

 しかしこのガンガンの最大にして致命的な大失敗は、1996年に何を思ったのかそれまでの月刊から隔週化、つまり月二回の発刊にしてしまったことでしょう。今ではもう元の月刊に戻したのですが、この時期に一部のマンガは月刊連載が続いたのですが大半はページ数は据え置きのままで〆切は月二回になるという、漫画家たちに単純にこれまでの二倍のペースで描かせ始めたのが運の尽きでした。やはり執筆期間の短縮はマンガの質に如実に現れ、とくに上記の渡辺道明氏の「ハーメルンのバイオリン弾き」はこの時期から目に見えて話がつまらなくなりました。単行本の作者コメントでもそのことに触れており、この隔週連載の時期は本当に辛かったと暗に述べています。
 こうした連載マンガの急激な低調を受け、私も「ハーメルン」のコミックスを買うのをやめたばかりか、ガンガンを購読するのまでやめてしまいました。最終的に「ハーメルン」はマンガ喫茶で読破したけど。

 さてこうしたかつてのガンガンのマンガにも思い入れは深いのですが、それ以上に私が当時に深く傾倒していたのが今日のタイトルにある、「月刊少年ギャグ王」でした。

ピエール刑事94(ヤフオク)

 なんかこの前適当に検索していたら出てきたのがこのオークションにかけられた(見事に売れ残っているが)マンガなのですが、これこそギャグ王で連載されていたマンガの一つです。
 当時はマンガ雑誌がちょっとバブリーな頃で、エニックスも本流のガンガンに加えて「Gファンタジー」とかこの「ギャグ王」などいろいろ雑誌を出していたのですが、いかんせん作家陣を適当に揃えすぎた(ほとんどが懸賞で集めていきなりデビューの新人)ことと、コンセプトがはっきりしなかったことでギャグ王はあっけなく廃刊してしまいました。

 しかしこのギャグ王、ある意味壮大な実験的マンガ雑誌とも言えるような雑誌で、一部には非常に特異なセンスを発揮する漫画家も排出しています。その代表格ともいえるのが「うめぼしの謎」の作者である三笠山出月氏で、生憎今ではもうマンガを描いていないのですが、この四コママンガのネタは文字通りの人の予測を悉く覆すすばらしい出来で、数年前には大都社から愛蔵版が発売されました。ついでに言うと、何故か友人とこのマンガの話になり、二人で小一時間熱く語り合ったことがあります。

 最近はマンガ雑誌も売り上げが低迷し、2chの掲示板を見ても昔のマンガが面白かったなどという意見ばかり(2chの閲覧者の平均年齢は本当かどうかはともかくとしてこの前40歳前後とあったので、年齢を考えれば懐古主義になるのは自然です)見ますが、私は今のマンガに対してどれもかつての少女漫画風の絵が大半を占めるようになり、かつてのギャグ王にあったような強烈な個性を出す漫画家がいなくなったなぁとは思います。

 しいて挙げるながら、私が知る限り現代漫画家で見ているこっちが舌を巻くのは「鋼の錬金術師」の荒川弘氏、「ケロロ軍曹」の吉崎観音氏、「ノノノノ」の岡本倫、「金剛番長」の鈴木央氏と言ったところでしょうか。ちょっと年齢層を上げていいのなら、「ジャングルの王者、ターちゃん」の徳弘正也氏も、今も連載しているのでここに入りますね。
 ここで挙げた作者らは「真似しようとしても真似しきれない」ような強烈な個性をマンガの中でも発揮しているので、私の好きなタイプになります。あと余談ですが、私が中国にいた頃、何故か夜8時くらいに「ジャングルの王者、ターちゃん」が放映されていました。さすがに下品なシーンはカットされてはいたけど、「梁師範」が「リャンシーフー」と呼ばれていたりして、懐かしいやらなんとやらで、相部屋のルーマニア人も見ながらよく笑ってました。