ここだけの話、ノートパソコンのカタログを見るのが非常に好きです。多分、中学生くらいの頃にパソコンが欲しくてたまらなかったのに当時は値段が高くて眺めるだけだった反動でしょうが、現在使っているNECのLS550/Eの性能には満足してながら、いろんなメーカーのパソコンを見てはデザインのいいノートパソコンを無駄に買い集めたいという欲求に駆られております。なお今一番注目しているのはエプソンのEndevorで、今まで一度も直販サイトで買ったことがないので試しにネットブック一台を日本で購入して実家に送らせ、親父に上海まで持ってこさせようかなとまで考えています。
そんなノートパソコン好きの自分ですが、金輪際買うことはないと断言できるメーカーが二社あります。一社はパナソニックで、これはパナ系列の会社に務めている友人も同じこと言っております。もう一社は富士通で、キムタクが出ているFMVのテレビCMが神経を逆なでされるくらいに見ていて腹が立つのと、今日取り上げる野副元社長の不自然な解任劇からです。
・富士通元社長の請求棄却、東京地裁が「辞任強要」の訴え認めず(ロイター)
本日東京地裁で、2009年に虚偽の理由で社長職を解任されたとして損害賠償を求めた野副元社長の請求が棄却されました。この件における私の立場は断然に野副氏側であるため、今回の東京地裁の判決には首をかしげるとともに「この判決を下した裁判官は誰でえヽ(`Д´)ノ」と海原雄山ばりに怒鳴り込みたい気分です。あらいを持って富士通に突っ込もうかな。
・特別リポート:富士通を覆う閉塞、社長解任の爪跡とガバナンスの行方(ロイター)
事件の背景についてはこちらも同じく上記のロイターの記事がよくまとめてくれているので興味のある方は是非閲覧していただきたいのですが、念のため私の方でも簡単に説明させていただきます。
まず事件が起きたのは2009年で、野副氏によるとその日の朝にいつも通りに出勤すると突然別室に呼ばれたそうです。別室では役員らがほぼ全員待っていたそうで、野副氏が親しくしていて富士通ともかつて取引のあったファンド企業が反社会的勢力との付き合いがあると告げられたそうです。更に当時の役員は既にこの事実はマスコミなどにもばれそうで、仮に発覚したら富士通は潰れてしまうため、どうか会社を守るために今この場で社長職を辞任してほしいと畳み掛けたそうです。しかも一事が万事で役員会議に出るのも危険だからと他の役員らの動議による解任で済ませ、今後しばらくは自宅から一切外に出ないようにと言われ、そのまま判断するまもなく極秘裏に自宅へ送り返されたそうです。
野副氏はこの時のことを抵抗しなかった自分にも責任があるとしながらも、判断する間も与えず完全にだまし討ちのような手段で、さらに当時言われた内容は事実とは異なるものであったことから提訴すると決めたそうです。もちろん提訴することによって富士通のイメージは悪くなるため、このまま泣き寝入りすべきかとも検討したそうですが、っとこうした人の内面を他人があれこれ言うのは野暮なのでこの辺でやめときますが、第一、もし解任劇が野副氏の言う通りであれば徹底的に抵抗するのが筋でしょう。
私が野副氏の立場に立つ理由はいくつかあります。まず第一に富士通は当初、野副氏の解任理由を「急病によるもの」と発表し、その後に野副氏の反論を受けて「反社会的勢力との付き合い」と訂正している点です。そもそも論としてもし野副氏が本当に知ってか知らずか反社会的勢力と付き合っていたのであれば堂々と役員会で解任し、その理由も正面から説明すればいいだけの話で、急病と詐称すること自体がなにか裏があるためとしか思えません。
第二に、これがある意味核心をなす所でもあるのですが、野副氏と代表が親しくしていて今回槍玉に挙がったファンドことサンドリンガム・キャピタル・パートナーズは、今に至るまで反社会的勢力の交流があるとは一切報じられておりません。それどころかサンドリンガムはこの件で、判決が既に出ているかどうかはわかりませんが、名誉棄損として富士通を提訴しております。
ロイターもこの点で富士通側に確認しているようですが、富士通側は「該当のファンドがサンドリンガムであるとは限らない」と発表しているようで、さらには問題のファンドが反社会的勢力と付き合っていると判断した理由については「司法以外の場では明かす必要がない」として回答を拒否しているそうです。何度も言いますが、正当性があるというのならもっと堂々とすればいいのに。
止めに、これなんか私の友人が狂喜乱舞しかねない名前ですが、華麗なる一族ことあの堤清二氏がロイターの取材に対し、「サンドリンガムの代表者が反社会的勢力と付き合いがあるとは思えない」と述べており、しかも今回の解任劇を仕組んだとされる富士通の顧問にもそう説明していたそうです。あまり人を信用し過ぎるのもなんですが、私も堤清二氏が言うのであれば……という風に思っちゃいます。
そして第三の理由、これはあまり詳しくないのですが野副氏が追い払われる理由が当時の富士通にはあるからです。報道ベースでしか見てませんが、なんでも野副氏が進めていた富士通の子会社であるニフティの経営統合案を快く思わない勢力がたくさんいたそうです。さらにこの統合において、例のサンドリンガムが仕事を請け負っていたというのだから私の中で信憑性は抜群です。
これだけきな臭い話にもかかわらず東京地裁は今回、当時の役員らが該当のファンドと反社会的勢力が交流があったと信じるに足る情報があった、だから野副氏に辞任を求めたことは問題なかったという判断から賠償請求を棄却したそうです。しかもふざけきっていることに、「該当のファンドが反社会的勢力と関係があることが客観的に真実か否かは問題とされていない」と指摘しています。これはつまり疑惑が真実であるかは関係なく、そういったことが疑われるのならそれだけで解任してもよいとお墨付きを与えているも同然です。仮にこの通りであれば、今後はそれらしい情報を集めて気に入らない人間をいくらでも追放するといった行為が起こりかねず、非常に問題のある判断だと私には感じます。この件で何より大事なのは解任理由が真実かどうかであるはずなのに、この始関正光という裁判長は本当に理解が出来ません。
野副氏は今回の判決に控訴をする予定だそうですが、私としても是非真実を明らかにしてほしく、陰ながら応援させてもらいます。それにしてもCMがクソなら会社もクソだな、富士通は。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2012年4月11日水曜日
2012年4月9日月曜日
小売りに見る消費文化
ちょっと古い話ですが、この前に英小売のテスコが日本事業から撤退しました。撤退がわかった当初はそれこそあちこちがその原因を分析した記事を出してて、大体が日本の消費文化になじまなかったということを、すでに撤退しているカルフールの例や不振が続くウォールマートの例を出して解説するのがほとんどだったと思います。実はここだけの話、小売りというのは一見どの世界も同じような形態と見られがちであるものの、実態的には国や地域ごとの文化差が非常に激しい領域だと思え、どれだけ資本量が多かろうとも文化圏が異なれば成立しない業界だと考えております。
一体何故このように考えるかですが、一つの理由として中国の小売市場を見ているせいだと思います。実は中国でも定期的と言ってもいいくらいにカルフールやウォルマートが撤退するのではというニュースが良く出ており、傍目には客が入っているように見えるものの業績自体は極端によくないという話をよく聞きます。またこれは家電専門店ですがアメリカのベストバイという家電屋は鳴り物入りで中国に進出しましたが、昨年に大幅な赤字を計上した上で撤退しています。
ベストバイの撤退については現地で非常に細かな分析がなされましたが、最も指摘された原因というのはやはり「アメリカ式」という点でした。中国の家電屋というのは昔の日本と同じく、各家電メーカーごとに販売員が派遣されてきており、それらの販売員が各々客を接客して自社の製品を買わせるという仕組みになっております。なお余談ですが、友人が以前に掃除機か何かを買いに行った際、販売員同士が大喧嘩してえらいことになったと言ってました。
話は戻ってベストバイですが、どうも進出当初は「豊富な品揃え」をアピールして、メーカーから派遣される販売員の受け入れは拒否していたそうです。そのためやってくる消費者も最初は真新しさで来ていたものの徐々に減り、後になってから販売員の受け入れを行ったものの結局再起を期せずして撤退と相成ったわけです。
実は自分も以前まで、小売りというのは並べる商品さえ気を付ければどこがやろうともそんなに変わらないだろうと思っていたのですが、どうもこうした日本や中国で欧米勢が苦戦している様を見ると文化的な要因が非常に強い業界ではないかと思うようになってきました。さらに思い返すと、カルフールが千葉県幕張市にできた際に私が通っていた高校の保険のおばちゃんは、「やっぱあそこは広すぎて駄目ね。イトーヨーカドーくらいがちょうどいいわ」ってなことを言ってて、自分も同じような印象を覚えたことがありました。
さらに言うと、中国ではお土産屋や衣類店などでは店員の給料が歩合制になっており、どれだけ接客して客に買わせたで変わってきます。そのためどの店員もうっとうしいくらいに、「何買う?」、「どれが欲しい?」って見ている傍から聞いてきて、「見てるだけだって」って言っていつも追っ払うようにしているのですが、この辺も日本人からすると程遠い文化に見えるかもしれません。
なお最後につけ足すと、中国と日本ではまず欲しがる商品の嗜好が異なります。もちろん個人差はありますが全体的な傾向で述べると、中国人は性能や必要性といったものは度外視して、どれだけその商品が高級か、値段が高そうに見えるかを気にします。これに対して日本人はというとスペック偏重というか、どれだけ機能がついているかを重視し、カタログの数値を他の商品と比較するのがことのほか好むように私は思います。考えてみれば自分も、小学生の頃は自転車のギアが何段あるかをよく友達と比較し合っており、今思うと何を馬鹿なことをしてたんだろうという気になります。
ついでに書くと、自転車のギアは適当に乗るなら3段くらいがちょうどいいと思います。8段とかついていたっていちいち切り替える手間のが大きいし、一番上と下のギアなんて使いどころがはっきりしなくて、専門的に乗らないならよしといた方がいいでしょう。まぁこんなこと言いながら日本で一番乗ってたのは6段ギアだったんだけど。
一体何故このように考えるかですが、一つの理由として中国の小売市場を見ているせいだと思います。実は中国でも定期的と言ってもいいくらいにカルフールやウォルマートが撤退するのではというニュースが良く出ており、傍目には客が入っているように見えるものの業績自体は極端によくないという話をよく聞きます。またこれは家電専門店ですがアメリカのベストバイという家電屋は鳴り物入りで中国に進出しましたが、昨年に大幅な赤字を計上した上で撤退しています。
ベストバイの撤退については現地で非常に細かな分析がなされましたが、最も指摘された原因というのはやはり「アメリカ式」という点でした。中国の家電屋というのは昔の日本と同じく、各家電メーカーごとに販売員が派遣されてきており、それらの販売員が各々客を接客して自社の製品を買わせるという仕組みになっております。なお余談ですが、友人が以前に掃除機か何かを買いに行った際、販売員同士が大喧嘩してえらいことになったと言ってました。
話は戻ってベストバイですが、どうも進出当初は「豊富な品揃え」をアピールして、メーカーから派遣される販売員の受け入れは拒否していたそうです。そのためやってくる消費者も最初は真新しさで来ていたものの徐々に減り、後になってから販売員の受け入れを行ったものの結局再起を期せずして撤退と相成ったわけです。
実は自分も以前まで、小売りというのは並べる商品さえ気を付ければどこがやろうともそんなに変わらないだろうと思っていたのですが、どうもこうした日本や中国で欧米勢が苦戦している様を見ると文化的な要因が非常に強い業界ではないかと思うようになってきました。さらに思い返すと、カルフールが千葉県幕張市にできた際に私が通っていた高校の保険のおばちゃんは、「やっぱあそこは広すぎて駄目ね。イトーヨーカドーくらいがちょうどいいわ」ってなことを言ってて、自分も同じような印象を覚えたことがありました。
さらに言うと、中国ではお土産屋や衣類店などでは店員の給料が歩合制になっており、どれだけ接客して客に買わせたで変わってきます。そのためどの店員もうっとうしいくらいに、「何買う?」、「どれが欲しい?」って見ている傍から聞いてきて、「見てるだけだって」って言っていつも追っ払うようにしているのですが、この辺も日本人からすると程遠い文化に見えるかもしれません。
なお最後につけ足すと、中国と日本ではまず欲しがる商品の嗜好が異なります。もちろん個人差はありますが全体的な傾向で述べると、中国人は性能や必要性といったものは度外視して、どれだけその商品が高級か、値段が高そうに見えるかを気にします。これに対して日本人はというとスペック偏重というか、どれだけ機能がついているかを重視し、カタログの数値を他の商品と比較するのがことのほか好むように私は思います。考えてみれば自分も、小学生の頃は自転車のギアが何段あるかをよく友達と比較し合っており、今思うと何を馬鹿なことをしてたんだろうという気になります。
ついでに書くと、自転車のギアは適当に乗るなら3段くらいがちょうどいいと思います。8段とかついていたっていちいち切り替える手間のが大きいし、一番上と下のギアなんて使いどころがはっきりしなくて、専門的に乗らないならよしといた方がいいでしょう。まぁこんなこと言いながら日本で一番乗ってたのは6段ギアだったんだけど。
2012年4月7日土曜日
世界最薄膜の太陽電池開発のニュースについて
別にわざわざ取り上げなくてもいいんですが、我ながらよく咄嗟に気が付いたという感じがしたので記念に書いておきます。
・東大、世界最薄/最軽量級の有機薄膜太陽電池の開発に成功(マイナビニュース)
・最薄・最軽量の有機太陽電池、日豪大学が共同開発(AFP=時事/AFPBB News)
見出しを見てわかると思いますが、どちらも恐らくは同じ内容のニュースです。先に出た、というか私が確認したのはマイナビニュースの方でしたが、それだけに二番目のAFPの記事を読んで「アレ?」って思ったわけです。一体どこに疑問を感じたのかというと、今回の太陽電池開発に当たって東大と共同研究したヨハネスケプラー大学の国籍です。
リンク先を読んでもらえばわかると思いますが、マイナビの方が「オーストリア」と書いてあるのに対し、AFPは「オーストラリア」って書いており、しかも後半にはご丁寧に「豪ヨハネスケプラー(Johannes Kepler)大学リンツ校」と略称までつけて確信犯であることまでわかります。結論を言うとこれは「オーストリア」が正解で、多分AFPの方は配信されたニュース原文にある国名を間違えて記載したのでしょう。それにしたってひどい間違いだし、校正もこれを見逃すというのはちょっと恥ずかしいでしょう。
最初にAFPの記事を読んだ際は、「あれ、前にもオーストリアとの共同研究で開発したって言ってなかったけ。それともそれ以上に薄い電池がもう出てきたの?」ってな感じで疑ったのですが、記事に出てくる東大教授の名前も一緒ですし、そもそもヨハネスケプラー大学の所在地からしてオーストラリアであるのはあり得ません。こんな細かいことをいちいち突っ込むのもどうかとは思うのですが、一見で前回記事に出てきた国名がオーストリアだったというのを思い出せたというのを記念する意味で記事に残しておきます。
これくらいの洞察力が仕事でも発揮できたらなぁ。
・東大、世界最薄/最軽量級の有機薄膜太陽電池の開発に成功(マイナビニュース)
・最薄・最軽量の有機太陽電池、日豪大学が共同開発(AFP=時事/AFPBB News)
見出しを見てわかると思いますが、どちらも恐らくは同じ内容のニュースです。先に出た、というか私が確認したのはマイナビニュースの方でしたが、それだけに二番目のAFPの記事を読んで「アレ?」って思ったわけです。一体どこに疑問を感じたのかというと、今回の太陽電池開発に当たって東大と共同研究したヨハネスケプラー大学の国籍です。
リンク先を読んでもらえばわかると思いますが、マイナビの方が「オーストリア」と書いてあるのに対し、AFPは「オーストラリア」って書いており、しかも後半にはご丁寧に「豪ヨハネスケプラー(Johannes Kepler)大学リンツ校」と略称までつけて確信犯であることまでわかります。結論を言うとこれは「オーストリア」が正解で、多分AFPの方は配信されたニュース原文にある国名を間違えて記載したのでしょう。それにしたってひどい間違いだし、校正もこれを見逃すというのはちょっと恥ずかしいでしょう。
最初にAFPの記事を読んだ際は、「あれ、前にもオーストリアとの共同研究で開発したって言ってなかったけ。それともそれ以上に薄い電池がもう出てきたの?」ってな感じで疑ったのですが、記事に出てくる東大教授の名前も一緒ですし、そもそもヨハネスケプラー大学の所在地からしてオーストラリアであるのはあり得ません。こんな細かいことをいちいち突っ込むのもどうかとは思うのですが、一見で前回記事に出てきた国名がオーストリアだったというのを思い出せたというのを記念する意味で記事に残しておきます。
これくらいの洞察力が仕事でも発揮できたらなぁ。
海外企業に対する日本人のアレルギー
大分今更な話ですが、先日(去年)に友人から勧められたこともあって「ハゲタカ」という小説を本日読み終えました。自分が敬服している友人なだけに見事なチョイスと言わざるを得ないくらい面白く、久々に小説に心動かされました。この作品は既にドラマや映画にもなっているので内容について知っておいでの方も多いでしょうが、ちょうど失われた十年の後半から小泉改革初期の頃の日本が舞台なので、まだ義務教育期間中ではあったものの自分も見聞きした事件が題材にとられていてなんていうか感慨深いものがありました。
それで読み終えた感想ですが、作者自身も「言い訳をしながら生きることはもう止めよう」というのがテーマだと述べているだけに、改めて日本人の無責任性というか経営に対する価値観のなさを思い知らされたというのが大きなところです。特に去年から今年にかけては東電にしろ大王製紙にしろAIJにしろ、一番責任を取らなきゃいけない人間たちが無責任さを存分に発揮するという光景が何度も繰り広げられているだけに、日本企業はあの時に結局、何も反省しなかったのかというような思いを覚えました。
こうした感想とともにもう一つ、これは多分私くらいじゃないかと思いますが、海外に対する価値観というかものの見方が日本人はやはりひん曲がったものがあるんじゃないかという気もしました。具体的にどういうことかというと、それこそ製造業に例を取るならば今の日本企業はどこも「海外に出ていかなければ……」と強い進出意欲と危機感を持っております。しかしその一方でこの小説に出てくる「ハゲタカ」こと外資系投資ファンドのように、海外から日本にやってくる企業や人間に対してはその存在価値すら頭から否定するところがある気がします。
古くは日産のカルロス・ゴーン氏で、彼の就任当初はそれこそ「それ全く関係ないだろ」というくらいの個人批判もあれば、実際に業績が上向いてくると「所詮一時的なものだ」と負け惜しみかのような声がほぼ毎年聞かれました。さすがに十年以上も好業績を保っているのでほとんどの批判は消え失せましたが、ついでなので書かせてもらうと現在の中国で最も成功した日系企業と問われるなら私は迷うことなく「大企業なら日産」だと答えています。トヨタやホンダがシェア争いで低迷する中で確実に毎年シェアを伸ばしておりますし、真面目に中国のどこ行っても日産の「ティアナ」は見ることが出来ます。
話は本題に戻しますが、日本企業が海外に新しい拠点や工場を建設するとそれはいいことだとみんな手放しで誉めると思いますが、逆に現実に海外メーカーが日本に大規模な工場を建てようとするものなら、人件費などの関係でほとんどないものの、恐らくほとんどの日本人はいい気分をしないと思います。場合、これも具体名を出すとそれが中国や韓国系企業だった場合は「技術を盗もうとしている」などと陰謀論も出るでしょうし、工場誘致に当たって自治体が補助金を出そうものなら「魂を売った」などとその自治体も激しく批判されることでしょう。
現実に向う見ずな投資で堺工場を建てちゃって首が回んなくなっているシャープが、かつては「世界の亀山モデル」とでっかく喧伝していた三重県亀山工場の一部設備を売却した際は方々から批判を受けましたし、私自身も地元自治体から補助金もらっときながらと批判してましたが、やっぱ周りの批判を見ていると「よりによって海外に売るなんて」っていうような売った行為以上に売った対象に対する批判が強いような気がしました。
冷静に考えてみると日本でいう国際化というのは海外に出ていけるだけの知識や技術の獲得、現地で生活できる人材の育成という意味はあっても、海外で実施されている効率的な経営手法や現地ルールの受け入れというものは含まれていない気がします。これは言うなれば、一時は金融界では欧米式ルールの導入が激しく叫ばれたということがありましたが、どれだけ日本のルールがおかしかろうが、間違っていようが海外のルールには変更しないという価値観の現れなのかもしれません。
別に自分は人類皆兄弟なんて幻想を抱いていなければ変に国際協調を促すつもりなんて全くありません。ただ自分たちが勝手に出ていくのは国際化であっても、相手のルールややり方を受け入れるのはそうではないというのは何か都合が良すぎるのではという気がします。自分を認めてもらうからには相手の認めるところは認める、こうした姿勢をもう少し日本人が持つことこそが国際化の条件なのでは、ひいては日本全体にとっても必要なことなんじゃないかというのが私の意見です。
最後に補足ですが、何故このように私が感じたのかという背景として、この前に中国のある都市で日系企業の誘致イベントに参加してきたからだと思います。そのイベントでは招かれた日本人は食費、宿泊費は現地政府持ちで、それこそ市長級の重鎮も大勢招かれていて、中国では外国企業の誘致にここまでするのかといろんな意味で驚きました。ちなみに招かれた日系企業の中にはそりゃ大企業も一部含まれておりましたが、大半は聞いたこともないような中小企業ばかりでした。
恐らく中国人も昔は昔で日本人みたいに海外企業を誘致するに当たってアレルギーが会ったんじゃないかと思います。しかし効率的に外資を誘致することは誰がどう見たって間違ってないし、現実にそれで中国は利益を上げていることを考えると、この点で日本は中国に先を進まれているのではないかと不安を感じました。
それで読み終えた感想ですが、作者自身も「言い訳をしながら生きることはもう止めよう」というのがテーマだと述べているだけに、改めて日本人の無責任性というか経営に対する価値観のなさを思い知らされたというのが大きなところです。特に去年から今年にかけては東電にしろ大王製紙にしろAIJにしろ、一番責任を取らなきゃいけない人間たちが無責任さを存分に発揮するという光景が何度も繰り広げられているだけに、日本企業はあの時に結局、何も反省しなかったのかというような思いを覚えました。
こうした感想とともにもう一つ、これは多分私くらいじゃないかと思いますが、海外に対する価値観というかものの見方が日本人はやはりひん曲がったものがあるんじゃないかという気もしました。具体的にどういうことかというと、それこそ製造業に例を取るならば今の日本企業はどこも「海外に出ていかなければ……」と強い進出意欲と危機感を持っております。しかしその一方でこの小説に出てくる「ハゲタカ」こと外資系投資ファンドのように、海外から日本にやってくる企業や人間に対してはその存在価値すら頭から否定するところがある気がします。
古くは日産のカルロス・ゴーン氏で、彼の就任当初はそれこそ「それ全く関係ないだろ」というくらいの個人批判もあれば、実際に業績が上向いてくると「所詮一時的なものだ」と負け惜しみかのような声がほぼ毎年聞かれました。さすがに十年以上も好業績を保っているのでほとんどの批判は消え失せましたが、ついでなので書かせてもらうと現在の中国で最も成功した日系企業と問われるなら私は迷うことなく「大企業なら日産」だと答えています。トヨタやホンダがシェア争いで低迷する中で確実に毎年シェアを伸ばしておりますし、真面目に中国のどこ行っても日産の「ティアナ」は見ることが出来ます。
話は本題に戻しますが、日本企業が海外に新しい拠点や工場を建設するとそれはいいことだとみんな手放しで誉めると思いますが、逆に現実に海外メーカーが日本に大規模な工場を建てようとするものなら、人件費などの関係でほとんどないものの、恐らくほとんどの日本人はいい気分をしないと思います。場合、これも具体名を出すとそれが中国や韓国系企業だった場合は「技術を盗もうとしている」などと陰謀論も出るでしょうし、工場誘致に当たって自治体が補助金を出そうものなら「魂を売った」などとその自治体も激しく批判されることでしょう。
現実に向う見ずな投資で堺工場を建てちゃって首が回んなくなっているシャープが、かつては「世界の亀山モデル」とでっかく喧伝していた三重県亀山工場の一部設備を売却した際は方々から批判を受けましたし、私自身も地元自治体から補助金もらっときながらと批判してましたが、やっぱ周りの批判を見ていると「よりによって海外に売るなんて」っていうような売った行為以上に売った対象に対する批判が強いような気がしました。
冷静に考えてみると日本でいう国際化というのは海外に出ていけるだけの知識や技術の獲得、現地で生活できる人材の育成という意味はあっても、海外で実施されている効率的な経営手法や現地ルールの受け入れというものは含まれていない気がします。これは言うなれば、一時は金融界では欧米式ルールの導入が激しく叫ばれたということがありましたが、どれだけ日本のルールがおかしかろうが、間違っていようが海外のルールには変更しないという価値観の現れなのかもしれません。
別に自分は人類皆兄弟なんて幻想を抱いていなければ変に国際協調を促すつもりなんて全くありません。ただ自分たちが勝手に出ていくのは国際化であっても、相手のルールややり方を受け入れるのはそうではないというのは何か都合が良すぎるのではという気がします。自分を認めてもらうからには相手の認めるところは認める、こうした姿勢をもう少し日本人が持つことこそが国際化の条件なのでは、ひいては日本全体にとっても必要なことなんじゃないかというのが私の意見です。
最後に補足ですが、何故このように私が感じたのかという背景として、この前に中国のある都市で日系企業の誘致イベントに参加してきたからだと思います。そのイベントでは招かれた日本人は食費、宿泊費は現地政府持ちで、それこそ市長級の重鎮も大勢招かれていて、中国では外国企業の誘致にここまでするのかといろんな意味で驚きました。ちなみに招かれた日系企業の中にはそりゃ大企業も一部含まれておりましたが、大半は聞いたこともないような中小企業ばかりでした。
恐らく中国人も昔は昔で日本人みたいに海外企業を誘致するに当たってアレルギーが会ったんじゃないかと思います。しかし効率的に外資を誘致することは誰がどう見たって間違ってないし、現実にそれで中国は利益を上げていることを考えると、この点で日本は中国に先を進まれているのではないかと不安を感じました。
2012年4月5日木曜日
鎌倉時代の始まる年についての考察
ぶっちゃけた話、今とても眠いです。理由は簡単でこの連休中に夜更かしし過ぎて、昨晩はなかなか寝付けないまま今日仕事があったからです。ただそれ以上に今朝起きたら原因不明の腹痛に襲われ、あまりにも痛いもんだから体を曲げて靴下を履くことすらままならないほどでした。真面目にZガンダムのカミーユ・ビダンじゃないけど、「何の役にも立てず、俺は両親の元へ行くのか?」などという具合で死を覚悟するくらいの激痛でした。まぁ両親は存命してるけど。
同僚にも朝一で心配されるくらいで、なんでも顔が完全に土気色だったそうです。正午くらいまでは激痛が続き終いには背中の方まで痛くなって、くしゃみなんかして体を動かすと全員に痛みが走って悶えるほどでしたが、午後から徐々に引いて現在では無痛状態です。ほんとにあれはなんだったんだろう。
そんな奇妙な症状のことは置いといて、そろそろ本題に入ります。今日のお題は鎌倉時代の区分こと、始まる年についてです。
・鎌倉時代(Wikipedia)
鎌倉時代が始まった年ともなると、語呂合わせキングと言っても差し支えない「いい国作ろう鎌倉幕府」に表されるように1192年だとお思いの方が多いでしょうが、実は最近になってこれは変わって、現代では壇ノ浦の合戦があった1185年からだ義務教育では教えられています。一体何故年代が繰り上がったのかというと、1192年は源頼朝が征夷大将軍に就任した年で以前はこの時代から武士政権が始まったとみられていたのですが、既に1185年に鎌倉幕府の支配体制における代表的な構造である地頭の設置が認められており、実質上の支配がはじまっていることから繰り上げられたそうです。
もう眠いのでさっさと結論を出してしまいますが、私は鎌倉幕府が始まった年というのは1185年、1192年のどちらもふさわしくないと考えています。じゃあ何年から始まるのが適切なのか、この答えは率直に言って1221年からです。日本史好きならもうわかるでしょうが、この年は承久の乱が起こった年です
私が何故承久の乱の前後で平安時代、鎌倉時代と区切ろうとするのかというと、この承久の乱が起こるまでは西国は天皇家、東国は鎌倉武士団と、日本全国で二重支配があったからです。それがこの承久の乱を契機に全国を鎌倉幕府こと北条家が完全に統括することとなり、ひいては天皇家をも支配下に置くことになります。天皇家が実質的に武士の支配下にはいるのはまさにこの時が初めてで、この構造は1868年に明治維新が起こるまで続くことになります。これは山本七平が言っていたように、日本の歴史上で本当に限られた回数しか起こっていない最大級の革命劇です。
さらに言うと鎌倉幕府は当初でこそ源頼朝こと源氏の棟梁が統治しましたが、彼以降は実質的に北条家が取り仕切っており、鎌倉幕府は誰のものだったかとなると私は北条家の物だったと言っていい気がします。この構造は徳川家による江戸幕府が成立する前の豊臣政権に近いようにも思え、時代区分としては源氏はブレイクスルーに過ぎず、主役にするべきではないはずです。その北条家が完全に主導権を握るきっかけとなったのは1219年に源実朝が暗殺され、それを一つの契機として起きたのが承久の乱と考えると、やっぱり鎌倉幕府は1221年からというように思えてなりません。
ここではっきり書いてしまいますが、ブレイクスルーに過ぎない源頼朝の征夷大将軍就任から鎌倉幕府が始まるという考え方の方が不自然で、承久の乱から始まるという方が明らかに自然なのです。にもかかわらずこれまで前者の説が取られてきたのは間違いなく皇国史観が影響していると断言してもいいです。皇国史観がなんなのかまではもう説明しませんが、要するに「天皇家が敗北して取って代わられた」という歴史をなるべく小さくしたかったからで、早いことこんなカビの生えた価値観は捨てて、公平な認識でもって鎌倉幕府の開始年度は再考していただきたいものです。
同僚にも朝一で心配されるくらいで、なんでも顔が完全に土気色だったそうです。正午くらいまでは激痛が続き終いには背中の方まで痛くなって、くしゃみなんかして体を動かすと全員に痛みが走って悶えるほどでしたが、午後から徐々に引いて現在では無痛状態です。ほんとにあれはなんだったんだろう。
そんな奇妙な症状のことは置いといて、そろそろ本題に入ります。今日のお題は鎌倉時代の区分こと、始まる年についてです。
・鎌倉時代(Wikipedia)
鎌倉時代が始まった年ともなると、語呂合わせキングと言っても差し支えない「いい国作ろう鎌倉幕府」に表されるように1192年だとお思いの方が多いでしょうが、実は最近になってこれは変わって、現代では壇ノ浦の合戦があった1185年からだ義務教育では教えられています。一体何故年代が繰り上がったのかというと、1192年は源頼朝が征夷大将軍に就任した年で以前はこの時代から武士政権が始まったとみられていたのですが、既に1185年に鎌倉幕府の支配体制における代表的な構造である地頭の設置が認められており、実質上の支配がはじまっていることから繰り上げられたそうです。
もう眠いのでさっさと結論を出してしまいますが、私は鎌倉幕府が始まった年というのは1185年、1192年のどちらもふさわしくないと考えています。じゃあ何年から始まるのが適切なのか、この答えは率直に言って1221年からです。日本史好きならもうわかるでしょうが、この年は承久の乱が起こった年です
私が何故承久の乱の前後で平安時代、鎌倉時代と区切ろうとするのかというと、この承久の乱が起こるまでは西国は天皇家、東国は鎌倉武士団と、日本全国で二重支配があったからです。それがこの承久の乱を契機に全国を鎌倉幕府こと北条家が完全に統括することとなり、ひいては天皇家をも支配下に置くことになります。天皇家が実質的に武士の支配下にはいるのはまさにこの時が初めてで、この構造は1868年に明治維新が起こるまで続くことになります。これは山本七平が言っていたように、日本の歴史上で本当に限られた回数しか起こっていない最大級の革命劇です。
さらに言うと鎌倉幕府は当初でこそ源頼朝こと源氏の棟梁が統治しましたが、彼以降は実質的に北条家が取り仕切っており、鎌倉幕府は誰のものだったかとなると私は北条家の物だったと言っていい気がします。この構造は徳川家による江戸幕府が成立する前の豊臣政権に近いようにも思え、時代区分としては源氏はブレイクスルーに過ぎず、主役にするべきではないはずです。その北条家が完全に主導権を握るきっかけとなったのは1219年に源実朝が暗殺され、それを一つの契機として起きたのが承久の乱と考えると、やっぱり鎌倉幕府は1221年からというように思えてなりません。
ここではっきり書いてしまいますが、ブレイクスルーに過ぎない源頼朝の征夷大将軍就任から鎌倉幕府が始まるという考え方の方が不自然で、承久の乱から始まるという方が明らかに自然なのです。にもかかわらずこれまで前者の説が取られてきたのは間違いなく皇国史観が影響していると断言してもいいです。皇国史観がなんなのかまではもう説明しませんが、要するに「天皇家が敗北して取って代わられた」という歴史をなるべく小さくしたかったからで、早いことこんなカビの生えた価値観は捨てて、公平な認識でもって鎌倉幕府の開始年度は再考していただきたいものです。
2012年4月4日水曜日
日本に影響を残した外国人~アーネスト・フェノロサ
また大分期間が空いてのこの連載。何か理由があるわけじゃないけど、こっちでも気温が上がってきたから薄着でワッショイしてたら鼻水が止まらなくなった日に再開というのも何かしら運命があるのかもしれません。花粉症ではありませんが、これだから4月は嫌いだ
・アーネスト・フェノロサ(Wikipedia)
そんな鼻水との格闘を続ける中で紹介するのは、日本の美術界、ひいては奈良の観光業界に多大なる貢献を放たしたアーネスト・フェノロサです。個人的な感傷ですが、この人に関しては私自身も並々ならぬ尊敬心を抱いております。
フェノロサはアメリカのハーバード大学で政治経済学を学んでいたのですが、25歳の時に来日していた大森貝塚で有名なエドワード・モースから哲学を講義出来る優秀な人材との紹介を受けて1888年に来日しました。
話は少し横にそれますが、この時期のお雇い外国人は一応はそれぞれの専門領域を教えるために来日していますが、当時の日本の学術レベルが非常に低い割に指導教授がいなかったこともあり、今で言えば小学校で習うような理科の内容や簡単な世界情勢とかも一緒に講義していたようです。
話はフェノロサに戻りますが、日本にやってきた当初は東大で政治学や哲学などを教えていて昨今知られているような美術との関わりはなかったそうです。ただ以前からボストンの美術学校でデッサンを学ぶなどこの方面にも元々興味はあったようで、来日からほどなくして日本の美術品に興味を示しだし、ちょうど当時フェノロサを師事していた岡倉天心に収集を手伝わせるようになってからは一気に火が吹き、日本画の絵画展で審査員なども務めております。
そんなフェノロサの現代にまで通じる最大の功績はなんといっても、廃仏毀釈によって壊滅的打撃を受けていた仏教美術の再評価です。話せば少し長くなりますが、1868年に明治時代に入った直後、日本政府は神仏分離令といって境界があいまいだった神道と仏教の線引きをはっきりするための通達を出しました。これを受け一部の地域、特に近畿地方ではそれ以前からの反感もあってか仏教に対して「えらそうにしてやがったくせ神道とは別かよ!」っていうようなノリで、暴動に近いほどの排斥が起こるようになりました。
日本の高校レベルの授業ではこういう風に軽く教えられると思いますが、実態的には非常に大きな排斥運動でした。それこそ一部の寺なんかは民衆によって完全に破壊されて跡形もなくこの世から消え去ってしまってますし、歴史的価値の高い仏像や宝物も一切合財破壊されたり燃やされたりもしています。運が良くても、欧米の好事家に買われて国外に流出するケースがほとんどだったと言います。
この廃仏毀釈の被害が最も大きかった地域は神道のお膝元である三重県と、仏教勢力の強かった奈良県だと言われています。勝手な想像ですが、京都の寺なんかはそれとなく有力者と結びついたり、京都人もある程度価値がわかっていたから保存に成功できたのだと思います。
逆に奈良県は徹底的と言っていいほどの破壊が横行し、主要な仏像などはすべて薪の材料として燃やされていったそうです。今も残る奈良の伽藍や塔が何故残ったのかというと、薪として売る価格よりも分解して薪にする手間賃のが高かったためだとされており、そのほか仏像なども処分費用が掛かるからしょうがなく倉庫に保管されていただけであって、こうしたものが現在国宝として珍重されていることを考えるとどれだけの貴重な財産が失われたか想像に難くありません。
こんな混乱の坩堝と化していた近畿地方にフェノロサと岡倉天心は乗り込み、売られようとしていた美術品の保存に努めただけでなくそれらを海外に紹介することで再評価を進めました。仮に当時のフェノロサの運動がなければ、同地域の主要な観光資源となっている寺や仏像のほとんどが失われていた可能性もあり、そういう意味では奈良県はタイガースファンにとってのバースよろしくフェノロサに対してもっと崇めたりした方がいいんじゃないかと思います。
またこの時期のフェノロサと岡倉天心のエピソードとして、法隆寺夢殿の救世観音像にまつわる話があります。この救世観音像は長きにわたって秘仏とされており、像を覆う布を取ったら祟りが下りるとして封印されておりました。しかしそういって公開を拒む法隆寺に対してこの二人は、「祟りなんかどうでもいいからとっとと見せやがれ(#゚Д゚)ゴルァ!!」とかなり強引に迫って、なんでも止める僧侶とかを無理矢理引きはがして夢殿に乗り込んだそうで、僧侶の中には祟りを恐れてその場から逃げだす者までいたそうです。
こうして邪魔者をすべて追い払った二人は悠々と救世観音像とお目見えできたわけですが、この像は聖徳太子を模した像と言われており、一説には一族すべてが殺された太子を慰めるために作られたとも言われています。それゆえ法隆寺の怨霊伝説とか神霊ものには頻出のアイテムであって、自分が昔見た話なんかだと夢殿を写真で撮ったら燃えている写真が出来たというのもあります。
こんな感じで日本で大暴れ、もといかなり楽しそうな人生を送ったフェノロサは1890年に帰国し、ボストン美術館の東洋部長として日本美術の紹介をつづけ、1908年にロンドンで死去しました。
この記事でもそうですが、私がフェノロサを紹介する際は基本的に廃仏毀釈を説明する時です。それ以前からどれだけ価値が知られていようとも、また実際に高い価値が持っていようとも、ちょっとした風向きの違いでこうも簡単に失われてしまうことがあるということをせっかくなので肝に銘じておいてほしいという願いを込めて筆をおかせてもらいます。
・アーネスト・フェノロサ(Wikipedia)
そんな鼻水との格闘を続ける中で紹介するのは、日本の美術界、ひいては奈良の観光業界に多大なる貢献を放たしたアーネスト・フェノロサです。個人的な感傷ですが、この人に関しては私自身も並々ならぬ尊敬心を抱いております。
フェノロサはアメリカのハーバード大学で政治経済学を学んでいたのですが、25歳の時に来日していた大森貝塚で有名なエドワード・モースから哲学を講義出来る優秀な人材との紹介を受けて1888年に来日しました。
話は少し横にそれますが、この時期のお雇い外国人は一応はそれぞれの専門領域を教えるために来日していますが、当時の日本の学術レベルが非常に低い割に指導教授がいなかったこともあり、今で言えば小学校で習うような理科の内容や簡単な世界情勢とかも一緒に講義していたようです。
話はフェノロサに戻りますが、日本にやってきた当初は東大で政治学や哲学などを教えていて昨今知られているような美術との関わりはなかったそうです。ただ以前からボストンの美術学校でデッサンを学ぶなどこの方面にも元々興味はあったようで、来日からほどなくして日本の美術品に興味を示しだし、ちょうど当時フェノロサを師事していた岡倉天心に収集を手伝わせるようになってからは一気に火が吹き、日本画の絵画展で審査員なども務めております。
そんなフェノロサの現代にまで通じる最大の功績はなんといっても、廃仏毀釈によって壊滅的打撃を受けていた仏教美術の再評価です。話せば少し長くなりますが、1868年に明治時代に入った直後、日本政府は神仏分離令といって境界があいまいだった神道と仏教の線引きをはっきりするための通達を出しました。これを受け一部の地域、特に近畿地方ではそれ以前からの反感もあってか仏教に対して「えらそうにしてやがったくせ神道とは別かよ!」っていうようなノリで、暴動に近いほどの排斥が起こるようになりました。
日本の高校レベルの授業ではこういう風に軽く教えられると思いますが、実態的には非常に大きな排斥運動でした。それこそ一部の寺なんかは民衆によって完全に破壊されて跡形もなくこの世から消え去ってしまってますし、歴史的価値の高い仏像や宝物も一切合財破壊されたり燃やされたりもしています。運が良くても、欧米の好事家に買われて国外に流出するケースがほとんどだったと言います。
この廃仏毀釈の被害が最も大きかった地域は神道のお膝元である三重県と、仏教勢力の強かった奈良県だと言われています。勝手な想像ですが、京都の寺なんかはそれとなく有力者と結びついたり、京都人もある程度価値がわかっていたから保存に成功できたのだと思います。
逆に奈良県は徹底的と言っていいほどの破壊が横行し、主要な仏像などはすべて薪の材料として燃やされていったそうです。今も残る奈良の伽藍や塔が何故残ったのかというと、薪として売る価格よりも分解して薪にする手間賃のが高かったためだとされており、そのほか仏像なども処分費用が掛かるからしょうがなく倉庫に保管されていただけであって、こうしたものが現在国宝として珍重されていることを考えるとどれだけの貴重な財産が失われたか想像に難くありません。
こんな混乱の坩堝と化していた近畿地方にフェノロサと岡倉天心は乗り込み、売られようとしていた美術品の保存に努めただけでなくそれらを海外に紹介することで再評価を進めました。仮に当時のフェノロサの運動がなければ、同地域の主要な観光資源となっている寺や仏像のほとんどが失われていた可能性もあり、そういう意味では奈良県はタイガースファンにとってのバースよろしくフェノロサに対してもっと崇めたりした方がいいんじゃないかと思います。
またこの時期のフェノロサと岡倉天心のエピソードとして、法隆寺夢殿の救世観音像にまつわる話があります。この救世観音像は長きにわたって秘仏とされており、像を覆う布を取ったら祟りが下りるとして封印されておりました。しかしそういって公開を拒む法隆寺に対してこの二人は、「祟りなんかどうでもいいからとっとと見せやがれ(#゚Д゚)ゴルァ!!」とかなり強引に迫って、なんでも止める僧侶とかを無理矢理引きはがして夢殿に乗り込んだそうで、僧侶の中には祟りを恐れてその場から逃げだす者までいたそうです。
こうして邪魔者をすべて追い払った二人は悠々と救世観音像とお目見えできたわけですが、この像は聖徳太子を模した像と言われており、一説には一族すべてが殺された太子を慰めるために作られたとも言われています。それゆえ法隆寺の怨霊伝説とか神霊ものには頻出のアイテムであって、自分が昔見た話なんかだと夢殿を写真で撮ったら燃えている写真が出来たというのもあります。
こんな感じで日本で大暴れ、もといかなり楽しそうな人生を送ったフェノロサは1890年に帰国し、ボストン美術館の東洋部長として日本美術の紹介をつづけ、1908年にロンドンで死去しました。
この記事でもそうですが、私がフェノロサを紹介する際は基本的に廃仏毀釈を説明する時です。それ以前からどれだけ価値が知られていようとも、また実際に高い価値が持っていようとも、ちょっとした風向きの違いでこうも簡単に失われてしまうことがあるということをせっかくなので肝に銘じておいてほしいという願いを込めて筆をおかせてもらいます。
2012年4月3日火曜日
南京詣出
今日も清明節のお休みだったので、ちょっと遠出とばかりに高速鉄道に乗って南京市へ遊びに行きました。南京には留学中の6年前にも一回だけ訪れたことがありましたが、当時とは違ってピカピカの南京南駅もあれば地下鉄も整備されており、いい意味で見違えていました。
そんな南京市で今回訪れたのは、孫文こと孫中山の墓所です。孫文のことを中国では一般的に孫中山と呼ぶのですが、この呼称の起源はというと孫文が日本滞在中に「中山」という表札を見て、「いいじゃんコレ(゚∀゚)」ってな感じで自分の呼び方に使い始めたのがきっかけだそうです。表札もかけてみるもんだ。
そんな孫文の墓こと中山陵ですが、えらい山の中にあって最寄りの地下鉄駅から上ること実に30分もかかってようやく到着しました。ただ昇っている最中は前の人間を次々追い越して一度も抜かれることはなかったので、多分ほかの人が昇ったら1時間近くかかる気がします。この中山陵に限らず中国の偉人の墓はどこも馬鹿でかく、瀋陽市にあるホンタイジの墓も東京ドーム何個分だっていうくらいの広さで、伏見にある桃山御陵と比べると日本は詣出客に随分優しい設計だということが痛感します。
手前の女性のけだるそうな顔が印象的。
この日は連休中とあって人口大国中国らしく、ほかに行くところはないのかよと言いたくなるくらいに人でごった返していました。もっとも自分もその一人なのだが。
孫文の像。この像に限らず中国では座った姿の像がやけに多いです。ちなみに像というと南宋時代に活躍して現在では売国奴ととして罵られている秦檜の像は跪いていることで有名ですが、なんか去年に座った姿の像が発見されてクララが立ち上がった時くらいの衝撃が中国全土に走りました。結局、批判が多くって公開されなかったけど。
孫文の墓の後はその隣にある、明代の初代皇帝、洪武帝の墓所も見学しました。孫文の墓所は無料公開なのに対し、こちらは通常料金75元のところ、この日は観光シーズンなので50元の入場料金を取られました。同じ墓所なのに孫文ばっかり特別扱いはずるいと、洪武帝も草葉の陰で思っているに違いない。
こっちも人でごった返していて、上海じゃ聞いたことのないようなアクの強い北方訛りの中国語も聞こえてきました。北京で中国語を勉強した身からすると、妙に懐かしいんだけど。
この二つの墓所を3時間くらいぶっ通しで歩き続けた後は市街地を軽く回り、そのまま駅に戻って上海に帰ってきました。いつもこんな感じで無茶な距離を歩き続けるせいか、初見の人と一緒に出掛けると大抵「ごめん、足が痛いんだけど……」とダウンさせてしまってます。ある友人なんか、「花園君に鍛えられたせいか、友達と一緒に歩くとみんなちょっと待ってって僕に言うようになってきた……」と言うくらいで、そこまで意識はしてないですが周りにかなり無茶をさせてるようです。
そんな南京市で今回訪れたのは、孫文こと孫中山の墓所です。孫文のことを中国では一般的に孫中山と呼ぶのですが、この呼称の起源はというと孫文が日本滞在中に「中山」という表札を見て、「いいじゃんコレ(゚∀゚)」ってな感じで自分の呼び方に使い始めたのがきっかけだそうです。表札もかけてみるもんだ。
そんな孫文の墓こと中山陵ですが、えらい山の中にあって最寄りの地下鉄駅から上ること実に30分もかかってようやく到着しました。ただ昇っている最中は前の人間を次々追い越して一度も抜かれることはなかったので、多分ほかの人が昇ったら1時間近くかかる気がします。この中山陵に限らず中国の偉人の墓はどこも馬鹿でかく、瀋陽市にあるホンタイジの墓も東京ドーム何個分だっていうくらいの広さで、伏見にある桃山御陵と比べると日本は詣出客に随分優しい設計だということが痛感します。
手前の女性のけだるそうな顔が印象的。
この日は連休中とあって人口大国中国らしく、ほかに行くところはないのかよと言いたくなるくらいに人でごった返していました。もっとも自分もその一人なのだが。
孫文の像。この像に限らず中国では座った姿の像がやけに多いです。ちなみに像というと南宋時代に活躍して現在では売国奴ととして罵られている秦檜の像は跪いていることで有名ですが、なんか去年に座った姿の像が発見されてクララが立ち上がった時くらいの衝撃が中国全土に走りました。結局、批判が多くって公開されなかったけど。
孫文の墓の後はその隣にある、明代の初代皇帝、洪武帝の墓所も見学しました。孫文の墓所は無料公開なのに対し、こちらは通常料金75元のところ、この日は観光シーズンなので50元の入場料金を取られました。同じ墓所なのに孫文ばっかり特別扱いはずるいと、洪武帝も草葉の陰で思っているに違いない。
こっちも人でごった返していて、上海じゃ聞いたことのないようなアクの強い北方訛りの中国語も聞こえてきました。北京で中国語を勉強した身からすると、妙に懐かしいんだけど。
この二つの墓所を3時間くらいぶっ通しで歩き続けた後は市街地を軽く回り、そのまま駅に戻って上海に帰ってきました。いつもこんな感じで無茶な距離を歩き続けるせいか、初見の人と一緒に出掛けると大抵「ごめん、足が痛いんだけど……」とダウンさせてしまってます。ある友人なんか、「花園君に鍛えられたせいか、友達と一緒に歩くとみんなちょっと待ってって僕に言うようになってきた……」と言うくらいで、そこまで意識はしてないですが周りにかなり無茶をさせてるようです。
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