この所文章が荒れていて、今に始まった事ではありませんがいまいち表現したい事を文章に表現できていません。今日の記事は前回、前々回の記事の続きなので、初めにこれまでの記事のプロットから紹介します。両記事の大体の論法、意図したかった内容は以下の通りです。
最近の日本文化は幼稚さ、幼さを売りにしている物が多いような
→改めて考えてみると、最近の若者は大人になりたがらない幼稚な人が多いような
→何で若者は大人になりたくないのか?
→大人になって責任を持つのを嫌がっているような気がする
→現に社会人も責任を抱えるのを忌避しているような気がする
→そういや首相や主要財界人でも無責任な奴が多いような気がする
→なんだかんだいって、日本社会全体で幼稚化してんじゃないのか
ざっくばらんにまとめるとこんな感じです。ここで私の言う「幼稚化」というのは、そのまま「無責任になった」と読み替えても結構です。何だかんだ言って、責任感が強いか弱いかというのが大人らしいか子供らしいかを決める上で非常に重要な要素ですし。
前回の記事で私は現に無責任な日本人が増えてきた例として、批判に耐え切れず一年前後で辞めていく首相達、社員は宝だと言うわりにはやけに離職率の高い会社の会長などを例に挙げましたが、今現在ですとただ力士から話を聞いただけで協会としてはやれるだけの内部調査をしたと言い張る相撲協会の理事長もこの類に属すでしょう。
また個人でなくとも、社会的にも厚顔無恥だと言いたくなるような事件をこのところよく見ます。恐らくこの手の事件を起こす人は前からそういう人間でそういった人間が目に入るようになっただけかもしれませんが、モンスターペアレンツを始めとして、生活保護費を大量の携帯電話使用料につぎ込む人などと、義務を果たさずにおいてやたら権利を主張する人が堂々と公然に出てくるというのは私からすると理解が出来ません。
このように日本社会が全体で無責任になってきたのが近年の日本の元気のなさ、希望のなさにつながっている一つの原因かもしれないと思って今日に至るまで長々と書いているわけなのですが、今日はどうしてこんなに日本の社会、ひいては日本人は無責任になっていったのかを幾つか仮説を挙げて考えてみようと思います。それでは早速最初の仮説から、
仮説一、大人になるメリットがない
これは若者限定の仮説ですが、前の記事でも書いたように近年の若者は大人になるよりは子供のままでいたいと言う人が傍目にも多いような気がします。私自身の周りでもこのような事をいう人間は多く、先日も友人と一緒に「そこがわからねぇ」とお互いに言い合いました。ちなみに私なんかは結構ちっちゃい頃から早く大人になりたいと思っていて、大学を卒業した今でも学生生活にそれほど未練は感じていません。
どうして現代の若者はそれほど大人(社会人)になりたがらないのか、一言で言って目に見えるメリットがなくてデメリットしか感じられないのが原因だと思います。現在不況の真っ只中という事もあって普通に正社員に就職できるかも怪しく、また正社員になった所で給料の伸び率は明らかに以前より小さく、学生生活と比べて制約される時間が多い割には得る物も少ないともきています。またサラリーマン特有のサービス残業や飲み会と言う訳の分からない付き合いを嫌う人間も増えており、それだったら時間分きっちり給料をくれるフリーターでいる方がいいのではという声を実際に私もよく耳にします。
仮説二、社会的責任の重大化
自分なんか世代の影響もあると思いますが、やっぱり昔の話を聞いているとどんだけ無茶が許されたんだとよく思います。
一番この仮説で代表的な例は交通事故を起こした際の刑罰で、以前は長くとも数年の懲役だったものが危険運転致死傷罪の導入によってかつてでは考えられないほどの厳罰が交通事故で下りるようになってきました。この危険運転致死傷罪を始めとして近年の日本の刑事罰は厳罰化の一途を辿っており、その上補償を求める民事裁判も大分一般化してきたのもあって以前と比べて意識するしないにしろ社会的責任は重大化しているように思えます。
前もって言っておきますが私は上記の刑罰の厳罰化や民事裁判の一般化はいい傾向だと思っております。ただこれまで泣き寝入りするしかなかった人が救われる一方で、なにか事故が一件でも起きたら即社会から追放というような風潮も一緒に流れ始めているのはあまり歓迎しません。一例を挙げると私も過去に取り上げたマンナンライフの蒟蒻ゼリーなど、あれだけ幼児にあげるなと記載しているにもかかわらず与えて子供を殺した親の非難がセンセーショナルに報道され、野田聖子が自信の陰謀から攻撃を与えるなど、一失即死とも言う様な近頃の風潮はあまり住み心地がいいと思えません。ま、船場吉兆は潰れて当然でしたが。
なお前回の記事で本来セットであるはずの権限と責任が一致していないのがよくないと書きましたが、何故一致しなくなったのかと言えばこの仮説で書いたように責任が以前と比べてあまりにも肥大化していったのも一つの原因と見ています。
仮説三、責任者が責任をとらない
これは言わずもがなで、とかげの尻尾切りよろしく最高責任者ほど自身が責任を取らずに何かあれば下に責任を擦り付けることが実際に起こっているということです。一番いい例は民主党鳩山前首相と小沢氏の資金問題の際、どちらも責任を自分の元秘書にすべて擦り付けて逃げ切りを図り、検察もそれで納得しちゃったという例です。私を含めた国民の側からすると、一番上の人間はいくらでも逃げ切れるが下の人間はそのかわりに責任を擦り付けられるのだと見えたでしょうし、真面目にやる事に対して馬鹿馬鹿しさを感じた人も多かったのではないでしょうか。
これとは逆の例ですが、郵便料金の障害者団体向け特別割引を不正に認定したとして逮捕、起訴された元厚生省局長の村木厚子氏の事件では、検察側証人がみんな村木氏は無罪だ、検察に脅されて村木氏が関わったと言ってしまったと証言している辺り、民主党の資金問題を見逃した近年の検察組織は戦後以降で最低レベルの集団だと言わざるを得ません。少なくとも村木氏を捜査、起訴したクズみたいな検事は顔と名前を出した上で辞職しなきゃ筋が立たないでしょう。
仮説四、責任感が強い事自体がデメリット
皮肉な話ですが今の時代、道路の速度制限を忠実に守ろうとすることのように、ルールを真面目に守ろうとする正直者自体が馬鹿だという風潮がある気がします。一部の経営者を始めとして、「法律に書かれていないから」という理由で常識的な価値観からは大きく逸脱した行為を実行に移す人間が増え、また若者の側も就職活動の面接で確認がとれないことをいい事に嘘八百を並び立てて、どこか正直でいるよりも多少ずるしてでも利益を得る方が正しいというのが主流派になってきたと思います。
何故そうなったのかと言えば、恐らく大半の方がアメリカ型の弱肉強食の価値観が入ってきたからだと言うと思いますが、上記のような意見を私は十年くらい前から見ており、だとすれば少なくともアメリカ型の思想が流入してすでに十年は経っている事になります。私はそのような価値観を追放できずにすでにそれだけの年月を経ているのであれば、日本人はたとえ嫌がっていようとももはやその価値観を是認してしまっていると言うべきだと思います。アメリカが悪いと言うのは簡単ですが、問題があるといいつつもその価値観を十年間も追放できなかったのは日本人の責任だと考え、批判ばかりしてないでどうそれを正すかを議論し、行動する方が建設的な気がします。
ざっとまぁこんな具合ですが、今の日本はいわば責任からお互いに逃げようと日本人全員で延々とババ抜きをしているような状態で、一向にゲームが進まない状態にあるのではないかと言いたいわけです。ではどうすればこの状態を脱する事が出来るのか、一言で言えばごく単純に信賞必罰を徹底することだけで、過去に過ちを犯した者はその過ちの分だけ降格させ、功績を作った者はその功績の分だけ昇進させるだけです。
やっぱり今の日本を見ているとこの辺が非常に曖昧で、責任から逃れ続けて傷が少ないだけの人しか昇進していないように見え、野球にたとえるなら、ストライクを多く取る投手よりもフォアボールを出さない投手が、取ったアウトの数に関係なく昇進するといった感じです。
今年になってゆとり教育は有効性が認められず、ほぼ完全に方針転換することになりましたが、当初から批判が少なくなかったにもかかわらず導入した文部科学省の当時の責任者は何も罰されません。かつてノーベル賞を受賞した島津製作所の田中耕一氏はノーベル賞を受賞するまでは日本国内でほぼ無名で、ノーベル賞を受賞した途端にあちこちから表彰されました。
責任を取るという事について、もうすこし日本人は考えるべきだと言うのが私の結論です。
8 件のコメント:
激しく同意です。
また懐かしい記事にコメントありがとうございます。
自分も改めてこの四年も前の記事を読み返しましたが、ちょうどこのころは物質的にも時間的にも余裕があり、文章にもメリハリがあるのを我ながら感じます。古い記事とはいえ、こうして読んでいただける記事を書いたことはなかなか誇れそうです。
私もちょうどおなじことをかんかんがえてました
とても同感です
コメントありがとうございます。
意外にも後から読まれることが多い記事です。書いた本人もすっかり内容を忘れていただけに、ええことゆっとったんやなぁなどと悦に入ってしまいます。
周りに無責任な人が多く、失敗しても放置したままにしたり、自由を求める割には、他者の自由を制限するような押し付けをしてみたりと、傍若無人な人が多く、何故だろうと調べていたらこちらに辿り着きました。
古い記事のようですが、信賞必罰は考えていませんでした。勉強になりました。
コメントありがとうございます。
先にコメントされた方々を含め、なんかこの記事はあとから妙に評価される記事のようです。この記事書いてからもう六年経ってますが、六年経っても全く同じ状況が続いているんだなと読み返してて思わせられます。
7年経っても変わっていなさそうですね。
しかし、どうしてここまで責任をとるとこが出来ないのでしょうか。
シャープ、東芝、日産など内情は分かりませんが傍目から見ると経営者側がもっと頑張りようがあったように思えました。
地位を失うのが怖いのか。今まで下の方で我慢したからその分報われたいと思うのか。いままでがこうだったかからという良くも悪くも伝統を尊重しているのか。実際どう思っているか聞いてみたいです。
経営者側は責任を取るために高給料をもらっていると私は思います。
切腹の文化は形だけだったのか・・・
久々に読み返しましたが「野球にたとえるなら、ストライクを多く取る投手よりもフォアボールを出さない投手が、取ったアウトの数に関係なく昇進する」という自分の表現はなかなか的確だなと思いました。
日本の経営責任に対する社会的制裁は異常に低いことは間違いないでしょう。中国にいるからかもしれませんが、やはり日本は財界の力が強すぎ、政治や市民の力が押され気味です。まぁ市民に関しては、派遣労働の問題を含め自業自得かなという気もしますが。
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