2011年1月23日日曜日

適切なエリート教育とは 後編

 これまでのあらすじを簡単に書くと、

・日本の組織は伝統的に中間層、下位層といった実行部隊は優秀
  ↓↓↓
・しかしそれを動かす上位管理層のレベルが低い
  ↓↓↓
・日本にはエリート教育が必要なのでは
  ↓↓↓
・今のところ、日本でエリート教育を行っている機関はあまり見当たらない

 大雑把なところ、こんなもんでしょうか。

 前回の記事に続き、エリート教育について思うことを書いていきます。
 上記のような流れで今の日本にはエリート教育が必要だと思うものの、具体的にどのような教育がエリートを養成できるのかということについて現実のエリート養成機関を探して見るところから始めましたが、現在の日本においてははっきりとエリートを養成する教育機関が見つからないところまできました。今現在それらしいエリート養成機関がないことこそがまさにが現状の日本のエリート不足の原因でしょうが、では過去はどうだったのかと言うと一応その役割を期待された陸大などの教育機関があったものの、成功したとは言いがたい結果に終わっております。唯一日本が誇れるようなエリートを数多く輩出した教育機関となると吉田松陰の松下村塾が挙がって来るのですが、ここでは具体的にどんな教育が行われたのかが私にはわからないため、エリート養成のノウハウはまだわからずじまいです。

 そういうわけで今日こそ本題であるどんな教育がエリートを作るのかという中身に移って行きたいのですがその前に、今日たまたま友人と話す機会があったのでもののついでに今の日本にエリート教育を行う教育機関はあるかと尋ねたところ、真っ先にICUこと国際基督教大学を挙げてきました。
 この大学についてはほかのサイトでもいろいろ紹介されているので詳しく知りたい方はいろいろと見てもらいたいのですがここでも簡単に説明すると、国際基督教大学は他の大学と比較して入学試験からカリキュラムまでかなり特徴的というか独特のものを用意しており、特にカリキュラムについては少人数教育の徹底が行われていると聞きます。実際に私の大学時代の恩師もほかの大学ならいざ知らずこの国際基督教大学のカリキュラムには一目置くと述べており、それがエリート教育かとなるとはっきりと断定は出来ませんが他と一線を画す特殊な教育を行っているという意味ではこの大学のカリキュラムが当てはまると言えるでしょう。

 話は横道にそれましたが、では具体的なエリート教育の中身です。前の記事でも書きましたが今現在においてもエリートの養成方法はきちっと定型化されていないためにここからは私の主観において話を進めていきますが、まず必要なのはさっき書いたICUのような少人数教育において他ならないでしょう。
 基本的に、エリートを作るためにはお金と手間が必要です。安価で大量に作れるというのなら今の日本のようなエリート不足なんか起こるわけでなく、一人の教員や指導員に対して一度には数人程度しか養成することが出来ないでしょう。そしてその指導においても付きっ切りで長時間指導する必要であることから、これは友人からの入れ知恵ですが教員と被指導者の間には相応の信頼関係が必要不可欠でしょう。

 それではそのようなマンツーマンに近い環境下で一体何を教えてどのような能力を鍛えればいいのかですが、これは人によって意見は変わるでしょうが私の意見を言わせてもらうと、一にエリートとしての心構え、二に観察眼です。

 エリートとしての心構えが何故必要なのかと言うと、単純にエリートを社会が作って社会が使うためです。何度も言いますがエリートを自然発生的に生まれて出てくるのを待つのであればその限りではありませんが、意図的に作ろうというのであれば相応の時間とお金が必要になります。それだけのコストをその社会が負担して作った後で出来上がったエリートが、「俺、知らないよ」とばかりにその社会へ自分の実力を還元しないのであれば丸損もいいところです。そうはさせないように、これはエリートのみならずその当該社会の構成員からのエリートへの期待など双方構成的な要素も含みますが、エリートはその社会(国家でもいいけど)に対して第一線に立って貢献しなければならないという意識を何よりもまず最初に強く持たせなければいけません。逆を言えばこの意識を持たせることが出来ないのであれば、その人物には後々のことも考えてあまりこのような教育を施すべきではないでしょう。

 次に観察眼ですが、前の記事でも書いたようにエリートに一番求められる能力とは先見性こと未来を予測して対策を立てる能力です。では未来を予測するにはどうすればいいかですが、極論を述べれば過去、現在の状況を理解しよく把握することを材料とするよりほかがありません。今現在では小さな問題が後々大きな禍根となったり、誰も注目していない小さな発見が後に大きな可能性となるなど歴史を見ればこのような例はいくらでもあり、そういったものを早期に発見してモノにするにはよく身の回りを見極めることの出来る観察眼こそが一番必要なのではないかと私は考えます。
 もっとも、こう書いておきながら私は観察眼というのは先天的な才能にかなり由来する能力だと思っており、私自身も意図的に訓練することが出来ないかと何度か試みた経験がありますがどれも確信を得るような結果は残しておりません。それでもまぁやっておいて損はないと思うのは過去のベース作りとばかりに歴史や古典の勉強、その上で諸パターンの解析を常日頃から自然と行う癖を作るために複数人での議論の実践が効果的かもしれません。

 最後にかなり根源的なことに触れますが、もしかしたら日本は人口が多いだけに、エリート教育が行われていないにもかかわらずエリートとして十二分に必要な才能を持った人材がすでに存在しているかもしれません。それにもかかわらず上位管理層のレベルが低いのは、単純にエリートとしての実力を持った人間がその相応しい地位についていないだけかもしれません。
 私がその可能性があると思ういくつかの要因に、昨日の記事でも書いた戦時中における東大生とオックスフォードの学生の徴兵に対する反応の違いがありますがそれともう一つ、こういった例に本来出すべきではないかもしれませんが気にかかって頭から離れないので書いてしまいますが、藤田田が唯一、「頭のいい奴だった」と評した光クラブ事件の山崎晃嗣の例があります。時代も大分昔ですし現代と比較するべきではないのですが、とてつもない能力者を社会が理解してその相応しい地位につけとかないと変になると思う一例です。

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