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2015年4月16日木曜日

中身を見ようとしない日本社会

 先日、例の上海人の友人から、「日系企業にいるなら間違っていると思っても上司の言うことを黙って聞かないと駄目だよ」と諭されました。実際、相手が誰であろうと文句があればすぐ言う性格なので間違っているわけではないのですが、まさか中国人に日本の雇用慣行を諭されるとは夢にも思わなかった……。

 そんな日本の雇用慣行について今日は書くつもりなのですが、ちょうど去年の今頃というか4月頃は例の小保方騒動が一番ヒートアップしていた頃だと思います。この騒動においては理研の研究審査体制や体質、女性研究者であることを理由に過剰なまで持ち上げたメディア、コピペ問題などいろいろな問題点が挙げられてましたが、私が内心一番大きな問題だったと思うのはどうして小保方氏が理研に研究員として採用されたのか、その選考方法にあるのではないかと考えています。
 報道によると小保方氏はハーバード大留学という経歴を引っ提げて理研に入ったとのことですが、この際に通常の選考で課される英語でのプレゼンは免除されていたそうで、万能細胞という魅力的な研究テーマでもってほぼ一本釣りみたいな形で採用されたと聞きます。しかしその実態はすでに報道されている通り、博士号論文をコピペして出すわ、研究ノートもまともにつけられないは、自然発光かどうかも疑わなかったなど研究者としては全く実力がなく、はっきり言えば中身が全くない人物だったと言っても過言ではありません。ただそんな小保方氏ですが去年の釈明会見を見て私は、「ああ、この人ならどんな採用面接でも受かるだろうな」という印象を覚えました。

 何故そのように思ったのかというと、とにもかくにも見せ方というかプレゼンが非常に上手かったからです。大学もAO入試で入ったというだけあって恐らく昔からその手のセンスが鋭かったのだと伺えますが、今の日本だとこのように、中身が全くなくても面接時などの見せ方、しゃべり方が上手かったらそれだけで評価されて通してしまうことが多いように思えます。換言するならば外見と比べて中身はほとんど評価されない傾向にあり、真面目系な大学生ほど就活では苦戦するという話をよく聴くし、私のある後輩なんかまさにそうでした。

 何故がさっきから続きますが何故日本社会は中身を評価しようとしないのか。多分一番多いであろう言い訳としては「コミュニケーション能力が求められているからだ」という回答でしょう。確かに私もそれを否定しませんがでは何故(またか)コミュニケーション能力が求められるのか、その理由について考えている人は今の今まで私は出会ったことがありません。
 私的な意見を述べると、比較的年齢の高い現役世代があまりにもコミュニケーション能力が低くて意思疎通がほとんど図れないためか、若手の世代が同じように低いか、中身のない人間が多すぎてコミュニケーションする内容がないのか、この三択じゃないかと思います。私が考える原因はこの三つともで、特に理解してもらうよう説明することに努力を払わない人間が多すぎることが大きいと考えています。

 中身のない人間が何故評価されるかについて話を戻しますが、基本、中身がある人間と比べてない人間の方が口は軽いに決まっています。物がわかっている人間なら軽々に、「ハイできます」なんて言えるわけないですし、慎重にならざるを得ませんが、小保方氏の様に初めからあるかどうかすらも認識できないなら、「STAP細胞はあります」と堂々と言えちゃうわけで、選考過程ではそりゃ後者の方がいい方に見えることでしょう。
 その上で中身をきちんと審査しようとなると、審査する人間の中身も求められますし、また中身を審査すること自体も外見だけを見るのに比べて多大な労力が必要です。この後は言わないけど、こういう点も今の日本で中身が評価されない時代ゆえなのかもしれません。

 私は二年くらい前からたびたび、「黙って手を動かす奴が一番強くて偉いんだ」というセリフを言う機会が増えています。何故こんなことを言うとどれだけ実力があっても、力量があっても、外見ばかりが評価される現代ではそのような人間はまずほとんど評価されていないきらいがあるのではと思うからです。もちろん周りを楽しませられる才能があるに越したことはありませんが、人間はやっぱり中身で、そういう点をおろそかにしているから昭和期と比べて今の日本はパッとしないんじゃないかと常々感じるわけです。

2 件のコメント:

上海忍者 さんのコメント...

日本式の雇用制度はいつか崩れるでしょうか?

花園祐 さんのコメント...

 本当はすでに崩れていなければならない。だがいつまでも崩そうとしないから全部が全部おかしくなってるんだと思う。