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2015年4月4日土曜日

ワルシャワ蜂起(1944年)

 昨年から東欧史に凝っているのですが、今日は私の世代ではまず知っている人はいないと思われるので1944年のワルシャワ蜂起について解説します。

ワルシャワ蜂起(Wikipedia)

 ワルシャワというのは言うまでもなくポーランドの首都ですが、かつての二次大戦下のこの場所で三ヶ国の思惑が入り乱れた戦闘がありました。二次大戦の開始当初、ポーランドはドイツとソ連の密約によってこの二ヶ国から同時攻められ、そのすべての国土が占領される憂き目に遭いました。その後、今度はポーランドを攻めたドイツとソ連同士で戦争が起こり(独ソ戦)、序盤はドイツ軍がリードする形でソ連領内を深く攻め入ったもののスターリングラード戦に代表されるソ連のバグラチオン作戦によっては攻守は逆転し、1944年時にはソ連はドイツを自国領内から追い出した上で逆にドイツの占領地域へ攻勢をかけている状況でした。

 ソ連軍は1944年夏にはポーランド東部へ進撃し、7月30日には首都のワルシャワまでわずか10kmの地点まで到達していました。このソ連の進撃に合わせてワルシャワ市内にいたポーランド人によるレジスタンス組織は国外に組織された亡命政府などを経由する形でソ連軍と連絡を取り、ソ連軍による市外からの攻撃に合わせて市内で蜂起し、ワルシャワから一挙にドイツ軍を叩きだす計画を持ち上げ、これを8月1日に実行することで確認し合いました。いわば内と外から攻める計画と言え、仮に実行できていればドイツ軍に大きな損害を与えワルシャワ解放の実現性も決して低くなかったでしょう。

 結果から述べると、ワルシャワ市内の蜂起は実際に行われたもののワルシャワの解放はこの時には実現しませんでした。

 8月1日、ワルシャワ市内のレジスタンスことワルシャワ国内軍はほとんど武器らしい武器も持たずにドイツ軍の宿舎や軍営を襲いかかったものの、正式装備されたドイツ軍駐留部隊に歯が立たずほぼすべての襲撃箇所で撃退されます。この時、市外からの攻撃支援を約束していたソ連軍は全く動かず、市内で行われている戦闘に対して傍観するだけでした。

 一体何故ソ連軍は目と鼻の距離にいたにもかかわらずこの時に動かなかったのか。理由として挙げられているのは蜂起日の前日に当たる7月31日にドイツ軍の反撃を受け、大きな損害を受けて戦線を後退していたためというものがあります。実際にこの時のソ連軍は補給線が長く伸びきっており、他の周辺の東欧諸国での戦闘も影響して戦線の維持が難しい状態にあったなどと言われています。
 もっともこのような理由は過分にソ連側の意向を組んだ主張であるとしか思えません。何故かというと実際には8月1日より大分前の時点でワルシャワ解放作戦の中止が決まっていたにもかかわらずラジオなどで蜂起を促す放送を続け、また市内のレジスタンスへ作戦中止の通達も行わず、事実上見殺しにしているからです。

 どうしてソ連はこのような行動に出たのか。ソ連だからと言えばそれまでですが、大方の見解では戦後のポーランド支配を見据えてポーランド市内の国内軍を敢えて壊滅させることが目的だったと見られています。というのも国内軍を指導していたのはロンドンに拠点を置くポーランド亡命政府だったのでしたが、この亡命政府とは別にソ連はいつもの如くというか「ポーランド国民解放委員会」という傀儡政権を既に樹立しており、戦後のポーランド運営に当たってこの傀儡政権に主導権を取らせるため敢えてレジスタンスが潰されるよう蜂起を促したとされており、私もこの説が真実であろうと考えています。

 このようなソ連の思惑を知ってか知らずか蜂起したポーランド市民は外部から何の支援も受けられないまま続々と増援の来るドイツ軍の反撃を受け、蜂起から約二ヶ月間に渡ってワルシャワでは徹底した破壊と虐殺が繰り返され、推定数は複数説ありますが約20万人もの市民が殺害されたと言われています。同時に生き残った市民約70万人も次の蜂起への警戒から市外へと追放されています。
 この蜂起失敗から約三ヶ月後の1945年1月、満を持してソ連軍はワルシャワへの進撃を開始してこの都市を占領します。占領後にソ連軍はレジスタンス幹部の逮捕を行いました。

 二次大戦はドイツのポーランドへの侵攻によって切り開かれましたが、この時ポーランドに侵攻したのはドイツだけではなくソ連も一緒でした。そのソ連は独ソ戦後に再びポーランドへ進撃しており、いわばポーランドは一度の戦争期間中に二度もソ連に侵略されたと言っても過言ではないでしょう。ちょっときわどい意見となるでしょうが正直に述べると、ソ連のポーランドへの仕打ちを考えると日本はこの大戦中、まだマシな方だったのではなどという気持ちがもたげてきます。

 なおこのワルシャワ蜂起について、高校の世界史教科書、参考書にはまずもってこの事件は紹介されておらず、知っている人間となるとポーランド通か、東欧史を専門にしている人間か、二次大戦マニアかの三種類に絞られてくると思います。ただ以前というか私より上の世代はどうも違うようで、うちの親父は何故かこの事件を知っており、時代の差によって取り扱われるかが、知識が共有されるかが案外変わるのかもしれません。
 では私は何故この事件を知ったのかですが、先ほどの三種類で言えば二番目に近く、東欧史に興味を持ってあれこれ調べている過程で知ることが出来ました。最初、私はポーランドの民主化過程で活躍したレフ・ヴァウェンサを調べていたのですが、彼の経歴を調べる過程でヴァウェンサの実質的な対立相手であり民主化以前に民主化勢力を弾圧する側の首相だった、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキに興味を持ち、彼の経歴を調べたことが一つのきっかけでした。

 詳しくは彼のウィキペディアのページを是非読んでもらいたいのですが、彼はここで紹介しているワルシャワ蜂起時に親ソ連派のポーランド人軍団士官として、ワルシャワ市街にソ連軍と共に駐屯していました。彼のいたポーランド人軍団はソ連軍が傍観を決め込む中、単独で市外から市内の蜂起勢力へ補給物資を輸送するなど支援を行っていたものの、結局は破壊されるワルシャワをただ眺めることしかできなかったそうです。この時の気持ちをヤルゼルスキはソ連軍に対して涙ながらに悔しさを感じたと自伝にて書いており、こうした彼の経験が東欧の旧共産圏においてポーランドだけが唯一、無血で民主化に成功するきっかけの一つになったのかもといろいろなことを考えながら、2014年に亡くなったヤルゼルスキを偲びつつ思い浮かべました。

6 件のコメント:

おでこ さんのコメント...

あれ、先ほどコメント投稿したのですが反映していないので再投稿します。
ダブっていたらすみません。
ワルシャワ蜂起については映画で知りました。アンジエイ・ワイダ監督の「地下水道」その後の話の「灰とダイヤモンド」
実は当時、ポーランドの男子バレーボールチームが世界レベルになっていた時期で、チームのファンだった所以で、ポーランドの歴史や文化を勉強していたのです。
そのしばらく後のポーランドの民主化。その成功にはレフ・ヴァウェンサ(ワレサ、鉄の男)の存在も大きかっかと思っています。

花園祐 さんのコメント...

 早速コメントありがとうございます。並びに、どうもまだコメントの反映が上手くいっていないようでお手数おかけします。
 このワルシャワ蜂起を取り扱った映画があったとは知りませんでした。うちの親父は二次大戦マニアで大戦中の各国の主要な戦闘機と戦車はほぼすべて言えるのでそっちの筋からこの事件を知ったのかと思ってましたが、もしかしたら親父も映画から知ったのかもしれません。今度聞いてみよう。
 レフ・ヴァウェンサは「ワレサ」という通称の方が有名なのでこっちの名称を当初使おうと思ったのですが、どうも現地の発音からすると「ワレサ」という風には聞こえ辛く、正しい発音に即した名称を広げることも考え敢えて「レフ・ヴァウェンサ」という名前をこの記事では通しましたが、ちょっともったいぶり過ぎだったかなとも思います。
 ポーランド民主化、というより東欧の民主化ドミノももうだいぶ前の話で、私を含め比較的若い世代だともうほとんど知らない人ばかりです。ダイナミックに歴史がこの時動いているので、この際だからまた今度にでもヴァウェンサの活躍、ポーランド民主化を自分なりにこのブログで取り上げてくつもりです。

サカタ さんのコメント...

ポーランドとはまた、乙なところ突いてきますね(笑)

僕はポーランドの自転車部隊が健気で印象に残っています。ドイツの3号戦車相手にまともに戦おうとした姿勢が、非常に健気です。。。

花園祐 さんのコメント...

 もしかしたら自分が間違えているのかもしれませんけど、二次大戦で侵攻してきたドイツ軍の戦車に対してだったらポーランドは自転車部隊ではなく騎兵隊が突撃かましてますね。この時の攻撃が史上最後の騎兵突撃と言われています。
 アメリカでは馬鹿な人のたとえに「ポーランド人」がよく使われると聞きます。理由は諸説ありますが、歴史的に見て確かに貴族同士の無意味な争いによって他国に付け入る隙を与えてしまうことも多いのですが、それ以上にドイツとロシアという列強に挟まれているがゆえに何度も侵攻されているという歴史を持っていて、「大国に挟まれた国の外交」としてみる上では非常に参考材料となる国です。

上海忍者 さんのコメント...

キミは軍事にも詳しいですわ。IS国の軍隊も強そうですわ。

花園祐 さんのコメント...

 軍事史の世界はマニアが多いから自分なんてまだまだだよ。ISに関してはきちんと解説、比較した資料がちょっと少ないよね。