・ウィリアム・ハルゼー・ジュニア(Wikipedia)
ハルゼーは海軍士官であった同名の父がいる家庭に生まれ、若い頃からまるでその将来を写し取ったかのように腕白な少年だったそうです。父親と同じく海軍入りを希望した彼はアナポリス(海軍士官学校)に入学しようとしたものの最初は推薦が取れず一旦はヴァージニア大学の医学部に進学しますが、有力者のコネを使ってアナポリスへの切符をつかむと今度は無事に入学できました。在学中の成績はあまりよくなく落第の危機にもあっており、最終的には62人中42番の成績で卒業しました。
卒業後、幾度かの海上任務を経ている際に東京へ寄港する機会がありこの時開かれたパーティでハルゼーも東郷平八郎と同席しています。ただ同じように東郷を見たニミッツやスプルーアンスの様に尊敬の念を抱くことはなく、「ロシアをだまし討ちしやがってこの野郎!」みたいなことを考えていたそうです。
その後、一次大戦においては駆逐艦を指揮し、パリ講和会議の際には当時海軍次官で後に大統領となるフランクリン・ルーズベルトの輸送任務に就いています。それ以前にもルーズベルトはハルゼーと一緒に乗艦する機会があり、お互い第一印象から悪くなく信頼を持ちあったそうです。
一次大戦後、ワシントンとロンドンの海軍軍縮条約によって保有艦数が各国で制限されたことを受けこの時期は世界中どこの海軍でも冷や飯食いとなった時代ですが、この時にハルゼーにとって大きな転機が訪れています。高級士官教育用の海軍大学校に入学した彼は先輩の勧めもあり空母を始めとする航空兵器の教育コースを歩みます。また視力が悪くて本当はテストで落ちてるのですが何らかの不正を使い航空機パイロットの訓練コースも受講し、これが二次大戦における彼の戦闘能力を大きく高めるきっかけとなったのは間違いないでしょう。
ただ、ここでも在学中の成績はやっぱり悪かったそうです。
教育訓練を終えた彼はまだ世界でも運用され始めて間もない空母、それも新鋭艦の「エンタープライズ」、「ヨークタウン」を始めとする艦隊の司令官に就任します。
先にこの辺について説明しておくと、当時の世界の常識では海戦の主役は依然として強大な砲を持つ「戦艦」であると考えられていました。というのも、分厚い装甲で作られた戦艦を破るには強力な砲を持つ戦艦失くして考えられないとされ、「戦艦を倒せるのは戦艦だけ」という認識で各国の海軍の認識は一致していました。これがひっくり返ったのはまさにその後の太平洋戦争で、技術革新によって攻撃力を高めた魚雷があれば駆逐艦でも戦艦を倒せるようになったことと、艦同士ではなく空母に搭載する航空機により攻撃するという戦法の方がずっと有効で戦いやすいとわかり、逆に戦艦は鈍重ででかいため航空機からすればまさに格好の「的」となってしまい、太平洋戦争以降は海戦においては無用の長物、せいぜい言って陸地沿岸にある基地や港を艦砲射撃で攻撃する以外はあまり価値がないとされ現代ではほとんど作られないし運用されなくなりました。そのせいもあって、日本が戦時中に完成させた「大和」、「武蔵」は未だに「史上最大の戦艦」としてあり続けてるわけです。
話はハルゼーに戻りますが、日米開戦の火蓋を切った真珠湾攻撃の際はたまたま艦隊を率いて輸送任務に就いていたためハワイを離れており、自慢の空母部隊を損害を逃れました。そして真珠湾攻撃後、実質的な海軍総司令官に就いたニミッツに対してはアナポリスでの後輩にあたるにもかかわらずすぐに打ち解け、作戦会議などでもニミッツの援護、というよりニミッツに反論を言う奴で、「黙ってろこの野郎!」って怒鳴り脅しつけることで協力していきました。
当時、空母の運用法は世界でもまだ研究途上でありましたが、ハルゼーの場合は自身が航空パイロットとしての訓練も受けていたことなどから比較的長けており、実際戦艦についても、「あんなノロマは邪魔なだけだ!」とも言っていたことから、新しい海戦の「ルール」をよく理解していた模様です。実際、ニミッツの指揮のもとでミッドウェー海戦に至るまでの防戦一方だった戦線をよく支えています。
そして来るミッドウェー海戦直前、日本軍がミッドウェー島へ大規模攻撃をかけるという無線を傍受して準備を続けていた最中、長い戦場生活もあってハルゼーは一次体調を崩します。そこで自分の後任として空母艦隊を率いたことのないスプルーアンスを推薦してハワイに入院しますが、結果的にこの判断は功を奏し、ハワイの病院内でミッドウェー海戦の勝利の報を耳にします。
戦場に復帰したハルゼーは主力空母を失ったものの未だ強勢を保っていた日本海軍と向き合い、徐々に相手の主力艦を潰し戦線を有利に運んでいきます。そして事実上、最後の海上決戦となったレイテ沖海戦においても指揮を執ったのですが、この際は日本軍のかなりみえみえな陽動作戦に露骨に引っかかり、基地の守備をそっちのけて日本艦隊を一直線に追跡するというミスを犯してかの有名な「ブルズラン(猪突猛進)」と揶揄されるようになります。
なおこのレイテ沖海戦は規模で言えば現在までで過去最大の海上決戦であり、この陽動作戦を始めとした駆け引きから「謎の反転」など現在に至るまで様々な議論に尽きない戦いだったりします。私個人としては一番贔屓にしている空母「瑞鶴」が沈んだ海戦という印象が強いですが。
その後、あまり日本では報じられませんが海上で二度も台風につっつかれ、どちらでもレイテ沖海戦以上に多数の艦船や航空機を失うという「神風」(吹くことは吹いてた)に遭遇して一時は更迭論も出されましたがニミッツの判断というか海軍のプライドのため留任し、日本の降伏も戦場で耳にします。降伏調印式にはニミッツのお声がかかりハルゼーも出席していますが、文書調印の際には日本側代表の重光葵に対して、「早くサインしやがれこの野郎!」と怒鳴っていますが、本人曰く、「本当は日本人全員蹴っ飛ばしてやりたかった」と語っていることから一応は我慢していたそうです。
終戦後は議会から元帥に任命され、また世間での人気も高かったことからあちこちに引っ張りだこになったり、新聞に自分の自伝を執筆したりとなんか楽しげな余生を過ごしました。これはニミッツやスプルーアンスにも言えますが、陸軍のマッカーサーと比べて海軍の連中はやっぱり政治的野心が薄いように感じられこれは万国共通なのかなとも思います。
私のハルゼー評を述べると、多分私だけでなく「猛将タイプの提督」、っていうより三国志で言えば張飛みたいに短気で粗野だけど殴り合いが強いイメージで一致するかと思います。実際性格もそのまんまで、同僚からは「冷静でなく艦長はともかく艦隊は任せられない奴だ」とも言われてたし、レイテ沖海戦においては実際そうなりました。ただ末端の兵士からの人気は抜群で、ウィキペディアにも書かれている通り、「あのジジイのためなら俺は死ねるぜ!」という兵士の後ろから突然現れ、「おい若ぇの、俺はまだそんな年じゃねぇぜ」と言って去ってくというツンデレぶりも見せるだけでなく、艦内のアイスクリーム製造機に割り込みしようとした新人士官に対して、「黙って列に並べこの野郎!」と怒鳴りつけたこともあったそうです。多分後者は本人も並んでたからじゃないかという気がしますが。
しかし、こと戦場においては空母の運用戦術を開戦当初から把握していたことから日本側にとっては手ごわいことこの上ない相手だったと思われます。日本側も空母運用の研究が疎かだったわけでなく名機零戦の性能もあって善戦していますが、指揮官の不足は否めなかったという指摘もあるだけに新規の戦術については育成が本当に肝心なのだなと考えさせられます。
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