中国史と来ると日本人は「史記」、「三国志」の二大史書の影響からか、春秋戦国時代から後漢末期まではよく知っている方がおられるものの、その後の晋朝から五胡十六国時代以降となると途端に認知度が低くなってしまいます。ただこの時代以後の中国史を扱っている歴史書はないわけではなく、ポピュラーなものとして「十八史略」という中国史入門者用の歴史書があります。
この十八史略はその名の通りにそれ以前に成立した史記や三国志を含む十八の歴史書を簡単にまとめた本で、十二世紀までの中国史を一通り扱っている史書です。私が読んだのは陳瞬臣氏の「小説十八史略」という、陳氏のオリジナルな記述が多くて本編とはやや異なる内容の本なのですが、それでもこの本を読んだことによって三国時代にとどまらず幅広く中国史を学ぶいいきっかけとなりました。
そんな小説十八史略の中で私が一際目を引かれた人物というのが、本日ご紹介する趙匡胤です。この人物は十世紀に成立した宋朝の初代皇帝で、通称は「太祖」とされています。この趙匡胤は宋朝の前の後周朝の将軍だったのですが、英邁な君主であった世宗の死後、跡を継ぐ恭帝がわずか七歳で即位したことに不安を感じた軍人らに勝手に祭り上げられる形で、趙匡胤本人は渋々と皇帝に即位したと言われております。もっともこの即位劇には裏があり、実際にはかねてから趙匡胤が即位するよう軍内部で打ち合わせられて行ったとも言われており、恐らくはこちらの説の方が正しいと私も考えております。
ただこの趙匡胤がほかの皇位簒奪者と大きく違っていたのは、皇位を奪った恭帝を殺さず、その後彼ら元皇族の一族を手厚く保護した点にあります。三国志における献帝よろしく、皇位を奪われた皇帝とその一族の末路は惨めな例が多いのですが、趙匡胤はそういった例を踏まなかったためにこの点において後世の歴史家からも高く評価されております。
またこれ以外にも、元々軍属出身であったにもかかわらず趙匡胤は皇帝に即位するや、その後一貫して軍部勢力を解体していき、現代的に言うならシビリアンコントロール、当時の言葉で言うなら官僚による文民統制を国の形として整えていきました。実際にその後、それまで軍閥同士が激しく争った戦乱極まりない五大十国時代の騒乱は徐々に収まり、科挙を経て任官された官僚らが大いに活躍する安定した時代へと移って行きました。
もっともこの文治主義はなんでもかんでもいい結果を生んだわけではなく、軍隊が弱体化したために宋朝はその後異民族の侵入に始終悩まされ、最終的には後の満州族である女真族によって華北地域を追われることで崩壊するに至りました。とはいえ国内の騒乱を終えただけでなく、現在でも宋朝時代の絵画、書画が最も評価されるまでに安定した時代の礎を築いたことは誰もが高く評価しております。
そんな趙匡胤ですが、彼の政治姿勢とともに優れた見識があったと思わせられるあるエピソードが十八史略に載せられております。
宋朝の皇帝は即位する際、皇帝となる者以外は決して見てはならない、創業者である趙匡胤が残した宮中にある碑文を読むことが慣わしでした。この碑文は宋朝の時代にはその存在自体が秘匿されていたそうですが、先ほど述べた女真族が華北に侵入して征服した際に宮殿に入ったことでその存在が明るみになりました。その碑文には一体何が書かれていたかというと、大まかな意味でこんなことが書かれていたそうです。
「発言の門で、官僚を処刑してはならない」
あくまで士大夫である官僚に限りますが、これは言うなれば言論の自由を冒すなという意味です。実際に宋朝においては官僚らがそれぞれの持論を好き勝手に言いたい放題しており、新法旧法闘争において従来の法律を抜本的に改めるべきだと主張した王安石も一時左遷こそされども処刑されるまでには至らず、その後中央官界に復帰まで果たしております。
この言論の自由というのは案外言うは易く、守るは難い代物で、近い時代の日本においても「核保有論」や「憲法改正論」はそれを実行するかどうかは別においても、議論することすら全く許されていませんでした。最近ではこうした点も議論した上で非核を世界に訴えるべきだと大分タブー性は薄まってきましたが、それでもまだ「天皇制廃止論」ともなると口火を切るだけでいろいろと厄介なことになるのは目に見えます。
それだけに宋朝において言論の自由を守れと遺訓を残した趙匡胤の先見性は鋭く、世界史にちょこっと名前が出てくるだけにしておくにはもったいないと私に思うわけです。
0 件のコメント:
コメントを投稿