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2009年6月18日木曜日

猛将列伝~木村昌福~

 前回の猛将列伝のコメントで誉めてもらって調子に乗っているので、またこの関係の記事です。今日は久々に近代の軍人で、通にはよく知られているものの一般にはやや知名度が低そうに見える木村昌福氏を取り上げます。

木村昌福(ウィキペディア)

 あまり歴史に興味がないために私と私の親父、果てには福岡出身の嫁さんがいる親父の従兄弟揃って「これだから九州の女は……」と言われる鹿児島出身のうちのお袋ですが、不思議なことにこの木村昌福氏についてはよく知っていて、どのような人物でどんな業績をあげたのかまでも詳しく知っていました。というのもお袋が子供だった頃にこの木村昌福氏をモデルにした映画が三船敏郎氏主演で公開されており、その影響を受けてかお袋らの世代は彼の業績である、あの伝説のキスカ島撤退作戦を知っている人が多いようです。逆にその世代に対して私くらいの世代だとあまり知らない方も多いと思うので、そこそこいい記事にはなる気がします。

 この木村昌福氏というのは旧日本海軍の軍人で、はっきり言ってしまえばそれほど出世街道を歩んだ人物ではなくどちらかというなら叩き上げの軍人タイプな人物でした。旧日本海軍ではハンモックナンバーこと海軍兵学校や海軍大学校時代での成績がそのまま後年の出世順につながったため、大学校に行くことはおろか兵学校で118人中107位の成績だった木村氏はそもそも大した出世は望める立場ではなかったものの、駆逐艦の艦長として長い間勤務するも水雷の戦闘知識や指揮においては周囲からも一目置かれていたため、最終的には実力で中将という地位にまで昇っております。

 そんな木村氏が一躍戦史に名を轟かしたのは既に述べた、俗に言う「キスカ島撤退作戦」からです。
 1943年、ミッドウェー海戦を経て既に防戦側に立たされていた旧日本海軍はこの年に太平洋上にあるアッツ島を米海軍によって攻め落とされてしまいます。このアッツ島は太平洋の上で日本の支配地域からポンと突き出た位置にある島であったため補給もままならず、米軍の激しい攻撃によって守備隊員2650名は全員が玉砕した上に占領されてしまうという悲劇的な結末に終わってしまいました。
 そこで困ったのがこのアッツ島以上に日本から離れた位置にあったキスカ島です。当初日本海軍は米軍が攻めてくるとしたら先にこっちを落とすだろうと守備隊もアッツ島より多い約6000名を擁していたものの、米軍は日本の裏をかいてキスカ島の先にあるアッツ島を先に落とすことでこの島を孤立無援の状態へと追い込んだのです。

 こんな状況下では反撃など望めるべくも無く、司令部も守備隊の救出を最優先事項として早速救出部隊を編成して第一陣として潜水艦の部隊を送るものの米軍のレーダー網にあっさりと見つかり、何百人かを救出するものの少なくない損害も出してしまいました。そこで第二陣として大人数を輸送できる駆逐艦部隊の派遣を決め、その指揮官として木村昌福氏が選ばれました。
 木村氏はこの地域特有の濃霧に隠れて救出作戦を行おうとじっと天候を眺めてチャンスをうかがい、七月十日に一度出撃するもこの時はキスカ島に近づくにつれて霧が晴れてきたために結局途中で引き返してしまいます。この際には米軍と戦闘したわけでもない上に誰も救出してこなかったことから上層部より激しい非難を受けますが、当の木村氏はあまり気にせずすぐに再出撃するようにとの中央の命令を無視しつつ、平然と現地で釣りをしながら次のチャンスをうかがっていました。

 そして来る七月二十二日、再び濃霧発生の予報を受けたことにより木村氏の艦隊は救出のために基地を出撃します。その濃霧予報は見事に当たり、キスカ島に行く途中に同じ日本の艦隊内で沈没にまで至らなかったものの衝突事故を起こすほどの濃霧だったようで、米軍のレーダーも霧によって誤認を起こし、誰もいない海域に向かって延々と攻撃をかけてしまったほどだったようです。
 しかも奇跡的というべきか、米軍はその後も一向にレーダーがうまく機能せず、先にレーダーで誤認した敵艦隊をすでに全滅させたと勘違いして七月二十八日に一旦補給をするためにキスカ島を包囲していた艦隊を撤退させてしまいます。そのまさに一瞬とも言うべき米軍が包囲を解いた間隙に、木村氏の艦隊は七月二十九日にキスカ島に上陸を果たしたのです。

 もちろん敵軍なんていないものだから一切妨害を受けないばかりか迅速な輸送によって5000名を越える人数をわずか55分で収容し終えて、そのまま米軍に見つかることなく基地への撤退を見事完了しました。当初、この救出作戦は状況の圧倒的不利さから不可能とまで呼ばれたほどの作戦だったのですが、終わってみると被害は全くといっていいほど無く、しかも一切の戦闘を行わずにこれほどの大人数の撤退を成功させた例は世界戦史上でも全くないといっていいでしょう。なお七月二十八日に包囲を解いた米軍は七月三十日に再び包囲を行いますが既にその時の島はもぬけの殻で、わずか一日の差で米軍は日本兵を逃してしまったのです。

 濃霧といい米軍の誤認といい偶然が重なった要素が多いのは事実ではありますが、一回目の出撃で救出が不可能と見るや批判を恐れずに撤退し、二度目の出撃がドンピシャのタイミングだったことを考えるとその後の強運とも言うべき状況を引っ張ってきたのは木村氏の高い決断力によるものとしか言いようがありません。そのため当時の旧日本軍だけでなく戦後は米軍からも木村氏は高く評価されたとのことです。

 その後木村氏は終戦時まで生き残り、戦後は故郷の山口県で元部下らと共に商売をして天寿を全うしたそうです。豪放磊落な人柄で部下からもよく慕われ、その上冷静な決断を上からの命令にものともすることなく忠実に実行する様はまさに軍人の鑑で、何もこのキスカ島のエピソードだけでなく米国の民間輸送船を撃沈させた際も乗組員がしっかり脱出するまで待ってから沈没させたとのことで、軍人としてだけでなく一私人間としても尊敬させられる人物です。特に出撃に至る決断は見事なもので、中途半端な妥協を一切許さなかったこの決断なくしてこの奇跡はありえなかったでしょう。

 ちなみにこの脱出時にはもう一つ小さなエピソードがあり、キスカ島の守備隊が脱出時に悪戯で「ペスト感染患者隔離所」という嘘の看板を島に残して行った為、守備隊のいなくなった後に上陸した米兵はペスト菌に感染するのではないかと大いに慌てたそうです。

2 件のコメント:

サカタ さんのコメント...

 木村昌福いいですね。まだまだ、この木村昌福といい、知らない武将がたくさんいるので調べてみたいと思いました。
 それにしても、ゲームで信長の野望や、三国志の戦略ゲームはたくさんあるのに、太平洋戦争のゲームにいいのがないのが残念で仕方ありません。

花園祐 さんのコメント...

 前ならセガから「大戦略シリーズ」という二次大戦をモチーフにしたゲームが出ていましたが、ロード時間に私は辟易していましたね。こういった近代戦はゲームとして作る場合はシステムなどが難しそうなのでどこも出さないんだと思いますが、それだったらいっそ思い切って三国無双みたいに山本五十六が単身でバッタバタと敵兵を倒していくゲームの方が意外と面白いかもしれません。