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2009年6月16日火曜日

猛将列伝~范雎~

 最近歴史関連の記事が少ないので久々にこの「猛将列伝」系列の記事を書こうと思います。なおグーグルアナリティクスによると、今でも私のブログは検索ワードで「宮崎繁三郎」が二位に就き続けてアクセス数を稼いでおります。件の記事は以前に書いたこの猛将列伝シリーズのこの記事ですが、なんでこんなに検索されるんだろうと書いた本人が一番びっくりしています。

 そういうわけで本題に移りますが、本日紹介するのは中国戦国時代、西暦にすると紀元前三世紀の「范雎」という人物です。この人物が描かれている歴史書は言わずもがなの史記ですが、実は史記に登場する人物の中で私はこの范雎が一番好きな人物でもあり、中二病的なくらいにこの人物と自分を重ね合わせたりすることがよくあります。
 そんな范雎ですが一体どんな人物かというと、一言で言えばその後始皇帝の時代に始めて中国を統一した泰国の宰相です。この范雎が活躍したのは始皇帝が国王として統治する前の昭襄王(始皇帝の曽祖父)の時代で、事実上後の泰の統一を確固たるものにした国王です。

 この范雎は元々は泰の人間ではなくむしろ泰と長らく敵対してきた魏の出身でした。若い頃から弁舌に優れていてそれを評価した魏の大臣の付き人として働いていたのですが、ある日斉の国に使者として派遣された大臣に付いて行ったところ、范雎の優秀さに気がついた斉の大臣が先にコネを作っておこうと范雎個人へ贈り物を送ろうとしたのですが、それを何かしら機密情報を密告した謝礼ではないかと疑った大臣らによって激しい拷問をかけられることとなってしまいました。
 もちろんそんな事実は一切なかったようなのですが、その際の拷問は凄まじいもので散々殴る蹴るなど暴行を加えられた後に文字通り簀巻きにされて便所にまで放り投げられ、各人に小便まで引っ掛けられて嘲け笑われた程でした。

 そんな大ピンチの中、范雎は牢番に死んだことにして助けてくれと頼み、その頼みを受け入れた牢番が大臣に小便で溺れ死んだと偽ったことによって九死に一生を得ました。そうして脱出した范雎は密かに魏を脱出して泰に赴くと、「長禄」という名前に変えて当時外戚によって権力を握られて何もすることの出来なかった昭襄王に近づき、一念発起して外戚を追い出して親政をすべきだと諭して信用を得、范雎の建言を受け入れて親政を始めた昭襄王によって宰相に任命されます。
 宰相に任命されるや范雎は次々と政策を実行していき、その中でも特に際立ったのはいわゆる「遠交近攻」政策でした。これは日本の戦国時代でもよく使われた外交政策ですが簡単に説明すると国境の接していない遠くの国とは誼を結び、自国とその国に挟まれる国境の接する国を両国で攻め込んで打ち倒していくというオセロゲームのような外交戦略のことです。まぁもっとも、間の国が倒れたら今度はその両国が争うことになるんだけど。

 この遠交近攻政策が功を奏し、当時の泰に戦国時代最強とまで言われた猛将白起もいたことで泰は一挙に勢力を拡大し、隣国の韓の領土を分断して弱体化させただけでなく近隣の弱小国も次々と併呑していきました。極めつけがこれまた戦国時代において最大規模の戦争と言われる長平の合戦において、白起の名采配もあり泰に次ぐ最大国であった趙を完膚なきまで叩いて40万もの趙兵を生き埋めにするという大戦果を挙げるに至りました。

 この頃、巨大化する泰に対してその脅威を和らげるために魏から泰へ使者が送られたのですが、皮肉なことにこの時送られた使者というのがかつて范雎を拷問にかけた大臣の一人でした。その大臣が来るとわかるや范雎はわざt汚い身なりをして会いに行き、運良く生き返ったといって再会を喜んだふりをしました。大臣の方も行き違いがあったとはいえ高く評価していた范雎と再会したことを喜び、しかもその范雎が泰の宰相に今仕えていて大臣に早速明日にでも引き合わせてくれると言うもんですから疑いも無く信用してしまいます。
 その大臣は泰の宰相は長禄という人物だと信じていたのですが、既に述べたようにそれは范雎が泰に来てから名乗りだした変名で、次の日に大臣を屋敷へ連れて行って待合室で待たせていざ謁見するや、さっきまで汚い格好をしていた范雎が宰相の席に座っているもんだから大いに腰を抜かしたことでしょう。

 范雎はその大臣が再会時に汚い身なりを哀れんで上等な着物を譲ってくれたことに免じて生かしてやると伝えるものの、魏との同盟は一切認めず、また自分を拷問にかけるのを主導した公子(国王の一族)の首を持ってこない限り真っ先に魏を叩き潰すと伝えて大臣を追い返しました。その後紆余曲折はありましたが、范雎は見事復讐を果たして公子の首を送り届けさせます。

 その後范雎は屋敷にやってきた人物に、もし范雎を買ってくれた後ろ盾の昭襄王が死ねばかつての呉起や商軮のように范雎に恨みを持つ人物らによって殺されるだろうから今のうちに引退したほうがいいと説得され、まだ全然現役にもかかわらず早くに引退します。史記というのは才能があるものの悲劇的な最後を遂げる人物が多い中で、過程は壮絶ではあるものの、唯一といっていいほどこの范雎は在世中に功績を挙げただけでなく無事天寿を全うすることが出来ました。

 私がこの范雎に惹かれるのはそうした苦労をしたものの最後は報われた人物であることと、自分をあらぬ罪で追い落とした人物へ見事復讐を果たした点に尽きます。世の中才能があってもなかなか報われないとはわかっているだけに、見事それを開花して成功した話は相応の美しさがあります。

2 件のコメント:

サカタ さんのコメント...

 猛将列伝いいですね。特に中国や、太平洋戦争は知らない名将たちが多いので勉強になります。范雎も初めて聞きました。散々な目にあいながらも、最後は大国の宰相にまで上り詰めた人は珍しいでしょうね。日本で言う家康ぐらいでしょうかね?彼も我慢の武将ですからね。
 少し気になったのは、日本の場合は祖先の恨みを晴らすべく復讐することが多いと思いますが、中国では自分の恨みを晴らすことが多いのでしょうか?

花園祐 さんのコメント...

 中国人は儒教思想が強いので、自分の親兄弟の仇や復讐にはものすごい執着を見せますが、日本の怪談話みたいに先祖代々その家を祟り続けるなんていう話は言われてみるとあまり聞きませんね。それどころか、そういった長く祟るような話は私の印象ですがあまり好きそうじゃないように思えます。

 自分の恨みについてはむしろ私は日本人が自分ひとりで完結してしまいがちなので、外国人より執着しないようなところがある気がします。やっぱり、自己のための復讐をすると日本だと後ろ指さされやすそうだし。