先月の夏場所中、週刊新潮によって大相撲会において違法である野球賭博が横行し、大関である琴光喜もこの賭博に絡んでいるとの報道がありました。私がこのニュースを見た際、週刊新潮はちょっと前にも赤報隊事件で大誤報を放っているのですぐには信用してはならないと感じたものの、昨年から不祥事の続く相撲界という事もあってその後の経過を注視していました。結果はというと、面目躍如とばかりに週刊新潮の見事なスクープだったということが昨夜の琴光喜の関与を認める発言からわかりました。
週刊新潮の元記事では野球賭博に手を染めていた琴光喜が掛け金の払い戻しを受ける際に暴力団とトラブルになったと書かれていましたが、先程のNHKニュースでも同様の報動がなされていたのでほぼ事実だったのでしょう。結論から言えば、ただでさえ不祥事の続いている相撲界ゆえに襟を正さなければならないこの時期に、こんな馬鹿な事をやっていた琴光喜に理事会は厳しい処分を下すべきだと思います。
元々野球賭博はかねてから日本の暗部と言われ、胴元はどこも暴力団やっていることから彼らの資金源となっているといわれ続けてきました。今回の事件の報道を見ている限りだとそのような評判は間違っていないようで、奇しくも先週に場所中の最前列席をある親方が暴力団関係者に融通していたという事件が発覚したばかりですが、相撲界と暴力団とのかかわりが私の予想を超えるまでに深かったのだと今回の事件で痛感させられました。
しかも琴光喜は、先ほどのNHKニュースにてインタビューに答えていた現役力士によると、場所中の支度部屋でも誰にはばかる事なく賭博行為をほのめかす発言をしていたとされ、すでに何人もの力士が名前こそ明かされないものの野球賭博を行っていた事を自白していると報道されていることから、角会ではそれほど特別な行為ではなかったのでしょう。
だからといってこんな行為が正しいわけなどなく、しかも琴光喜は最初の警察の聴取では否認していて後になって認めたと言うのだから言語道断。かつての朝青龍騒動での処分を考えるならば最低でも二場所連続出場禁止(大関位の喪失を意味する)、可能ならば解雇とするのが適当かと私は思います。仮にここで手ぬるい処分をしようものならさすがに相撲ファンの私でも相撲に対して見方を変えるでしょうし、この前の大麻騒動でも批判されたように外国人力士には厳しく日本人力士には甘いとまた批判を受けるだけです。そういった事を考えるならば、ここはスパッと自主引退を迫るのがまだマシな落としどころではという風に思うわけです。
厳しい事を書いているつもりですが私は決して琴光喜の事が嫌いではなく、むしろ技巧派の力士としてかねてから愛子様同様に評価しておりました。しかしそれとこれとは別で、相撲界全体の事を考えるならば琴光喜は出来る限り早く自分で決断を示すべきで、理事会も妙な引止めとかせずにこの問題に片を付けるべきでしょう。
因みに同じく先ほどのNHKのニュースにて、親方衆は琴光喜に事実を確認した際に「やっていない」と言っていたのに裏切られたなどと言っていましたが、NHKニュースの解説員の言うように支度部屋でもおおっぴらにしていたのに信じるなんて話はないだろうと思います。最後までは言いませんけど、理事会も危機感が足りないにも程があるでしょう。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2010年6月15日火曜日
2010年6月14日月曜日
マスコミと警察
古いイギリスの言葉で、「Bad news is good news.」というのがあります。これはイギリスの大衆新聞草創期に、確か「Daily tit bits」が売れ始めた頃の宣伝文句だったと思いますが、要するに真面目な政治討論やら論説意見を載せるよりも殺人事件や有名人の不倫といった俗っぽいニュースを新聞に載せた方が部数は伸びるという意味です。
この言葉が言われてからすでに百年以上も経過しておりますが、現代日本のマスメディアも依然としてこの言葉通りの形態を保ち続けております。
現在、日本のマスメディアがそのような殺人や強盗といったいわゆる犯罪事件を取り上げる際、主なニュースソースとなるのは言うまでもなく警察や検察といった捜査機関です。そのため昔から刑事番などといって警察署内に記者を常駐させ、また警察の側も広報を行う際にはそれら記者を一同に呼び集めて記者会見を行うなど、もういきなり結論ですが結構なぁなぁなところが昔からありました。
昨日から今日にかけて出張所の方で日本のマスコミの警察に対する態度について書かれたコメントをいただいたのですが、情報源としてお世話になっている事から警察の不祥事に対して日本のマスコミはやや及び腰なところが数多くあり、それこそ警察内の不祥事、警察親族の犯罪といったことについては事実を知っていながらも報道せず、ひどい場合では警察と一般人の訴訟が起きた際には警察側の言い分しか取り上げないうということまでありました。
卑近な例を一つ挙げると、昨年冤罪が証明されて釈放された菅谷さんの足利事件も、きちんと取材がなされていれば当時のDNA鑑定技術では百人に一人の割合で同じ鑑定結果が出てしまうため証拠として使うには不十分だということがすぐにわかったはずですが、警察側の個人識別に問題がないという発表を鵜呑みにしてマスコミは菅谷さんの冤罪を事件当時は誰も疑わなかったのではないかという気がします。
そんな警察とマスコミの関係ですが、たかだか二十年とそこらしかまだ生きていないもののやっぱり以前と今とでは大分変わり、まだ不十分さは感じるものの適度な距離をマスコミが置くようになってきたと思えます。その適度な距離を置くようになった大きな転換点を私が敢えて上げるとしたら二つあり、もったいぶらずに言うと一つは新潟少女監禁事件、もう一つは北海道警裏金事件だったと思います。
前者は事件の内容自体が事実は小説よりも奇なりと言わざるを得ない事件でしたが、この事件の発覚当初、警察が開いた記者会見にて新潟県警の幹部らが一切姿を見せなかった事に対して記者から質問が集中し、ついには当時新潟県警の視察に訪れていた関東管区警察局長を麻雀接待していたという事実が明るみに出てきました。しかもその接待麻雀では図書券が掛かっているという本来禁止されている賭博麻雀だったなど、法を守るべき警察官が重大事件の記者会見をすっぽかしてまで(報告を受けていながらも接待を続けていた)そのような行為を興じていたことに批判が集中しました。
続いてもう一つの北海道警裏金事件というのは、かねてより神戸新聞と並んで地方新聞の雄と称されていた北海道新聞が綿密な取材を長期に渡って行い続けた事から発覚した事件で詳しくはリンク先のWikipediaの記事を読んでもらえば分かりますが、警察は事件の捜査等に協力した一般人に対して捜査褒賞費という謝礼金を出す事があるのですが、北海道警はこれを逆手にとって実際には協力の事実がないにもかかわらず褒賞費名目の支出で経費を捻出し、道から多額の裏金を引き出すと共に私的流用していたという事件です。
この事件の発覚以降、全国の警察組織で同様の手口が裏金が捻出されていた事が一斉に分かり、公民の教科書に書かれる事はないですが社会的に大きな影響を与えた事件だと私は認識しております。
ただこの事件をスクープしたことから、今ではどうなっているかわかりませんが、その後の警察の記者会見では北海道新聞のみが締め出されるという、道警から露骨な報復を北海道新聞は受ける事となってしまいました。こうなる事は北海道新聞としても報道する前から予想していた事でしょうが、それにもかかわらず取材を続けて報道をした北海道新聞には私は未だに尊敬の念を持っております。
それにしてもちょっと偏った意見かもしれませんが、北海道教職員組合といい、北海道の組織にはどうも頭のたがが外れているところが多いような気がします。
日本は90年代初頭、今ではすっかり死語ですが「水と安全はタダの国」という言葉がありました。こんな言葉が使われるだけあって当時の日本の警察組織への信頼の高さは子供だった私でも感じ取れる位で、当時は本気で日本の治安は世界一だなどと信じてもいました。
しかし上記二つの事件、更に言えば「桶川ストーカー殺人事件」も起こり、警察への国民の信頼は徐々に揺らいでいったように思えます。マスコミもそのような国民の意識を受けてか、現時点でも警察に擦り寄り過ぎだとは思うものの、以前よりは距離を置くようになってきたように見えます。
おまけ
何気に新潟県警の接待麻雀事件において、影の主役だったと私が思える人物として芸能人の蛭子能収氏がおります。というのもこの事件の前に蛭子氏も現金を賭ける賭け麻雀の現行犯で捕まっており、この事件が発覚した当時に新潟県警は、「図書券を商品に使っただけで、賭け麻雀じゃない」と法律違反を否定していましたがその度にこの蛭子氏の例が比較され(本人もテレビに出演して不公平だといっていた)ていたのが強く印象に残っています。
この言葉が言われてからすでに百年以上も経過しておりますが、現代日本のマスメディアも依然としてこの言葉通りの形態を保ち続けております。
現在、日本のマスメディアがそのような殺人や強盗といったいわゆる犯罪事件を取り上げる際、主なニュースソースとなるのは言うまでもなく警察や検察といった捜査機関です。そのため昔から刑事番などといって警察署内に記者を常駐させ、また警察の側も広報を行う際にはそれら記者を一同に呼び集めて記者会見を行うなど、もういきなり結論ですが結構なぁなぁなところが昔からありました。
昨日から今日にかけて出張所の方で日本のマスコミの警察に対する態度について書かれたコメントをいただいたのですが、情報源としてお世話になっている事から警察の不祥事に対して日本のマスコミはやや及び腰なところが数多くあり、それこそ警察内の不祥事、警察親族の犯罪といったことについては事実を知っていながらも報道せず、ひどい場合では警察と一般人の訴訟が起きた際には警察側の言い分しか取り上げないうということまでありました。
卑近な例を一つ挙げると、昨年冤罪が証明されて釈放された菅谷さんの足利事件も、きちんと取材がなされていれば当時のDNA鑑定技術では百人に一人の割合で同じ鑑定結果が出てしまうため証拠として使うには不十分だということがすぐにわかったはずですが、警察側の個人識別に問題がないという発表を鵜呑みにしてマスコミは菅谷さんの冤罪を事件当時は誰も疑わなかったのではないかという気がします。
そんな警察とマスコミの関係ですが、たかだか二十年とそこらしかまだ生きていないもののやっぱり以前と今とでは大分変わり、まだ不十分さは感じるものの適度な距離をマスコミが置くようになってきたと思えます。その適度な距離を置くようになった大きな転換点を私が敢えて上げるとしたら二つあり、もったいぶらずに言うと一つは新潟少女監禁事件、もう一つは北海道警裏金事件だったと思います。
前者は事件の内容自体が事実は小説よりも奇なりと言わざるを得ない事件でしたが、この事件の発覚当初、警察が開いた記者会見にて新潟県警の幹部らが一切姿を見せなかった事に対して記者から質問が集中し、ついには当時新潟県警の視察に訪れていた関東管区警察局長を麻雀接待していたという事実が明るみに出てきました。しかもその接待麻雀では図書券が掛かっているという本来禁止されている賭博麻雀だったなど、法を守るべき警察官が重大事件の記者会見をすっぽかしてまで(報告を受けていながらも接待を続けていた)そのような行為を興じていたことに批判が集中しました。
続いてもう一つの北海道警裏金事件というのは、かねてより神戸新聞と並んで地方新聞の雄と称されていた北海道新聞が綿密な取材を長期に渡って行い続けた事から発覚した事件で詳しくはリンク先のWikipediaの記事を読んでもらえば分かりますが、警察は事件の捜査等に協力した一般人に対して捜査褒賞費という謝礼金を出す事があるのですが、北海道警はこれを逆手にとって実際には協力の事実がないにもかかわらず褒賞費名目の支出で経費を捻出し、道から多額の裏金を引き出すと共に私的流用していたという事件です。
この事件の発覚以降、全国の警察組織で同様の手口が裏金が捻出されていた事が一斉に分かり、公民の教科書に書かれる事はないですが社会的に大きな影響を与えた事件だと私は認識しております。
ただこの事件をスクープしたことから、今ではどうなっているかわかりませんが、その後の警察の記者会見では北海道新聞のみが締め出されるという、道警から露骨な報復を北海道新聞は受ける事となってしまいました。こうなる事は北海道新聞としても報道する前から予想していた事でしょうが、それにもかかわらず取材を続けて報道をした北海道新聞には私は未だに尊敬の念を持っております。
それにしてもちょっと偏った意見かもしれませんが、北海道教職員組合といい、北海道の組織にはどうも頭のたがが外れているところが多いような気がします。
日本は90年代初頭、今ではすっかり死語ですが「水と安全はタダの国」という言葉がありました。こんな言葉が使われるだけあって当時の日本の警察組織への信頼の高さは子供だった私でも感じ取れる位で、当時は本気で日本の治安は世界一だなどと信じてもいました。
しかし上記二つの事件、更に言えば「桶川ストーカー殺人事件」も起こり、警察への国民の信頼は徐々に揺らいでいったように思えます。マスコミもそのような国民の意識を受けてか、現時点でも警察に擦り寄り過ぎだとは思うものの、以前よりは距離を置くようになってきたように見えます。
おまけ
何気に新潟県警の接待麻雀事件において、影の主役だったと私が思える人物として芸能人の蛭子能収氏がおります。というのもこの事件の前に蛭子氏も現金を賭ける賭け麻雀の現行犯で捕まっており、この事件が発覚した当時に新潟県警は、「図書券を商品に使っただけで、賭け麻雀じゃない」と法律違反を否定していましたがその度にこの蛭子氏の例が比較され(本人もテレビに出演して不公平だといっていた)ていたのが強く印象に残っています。
2010年6月13日日曜日
日本がファシズムに至るまで
昨日の記事で私は、ファシズムとコミュニズムは全体主義的傾向を持つのは共通するも、独裁を始める組織が権力を獲得するプロセスにおいて民主主義的過程があるかどうかに違いがあると述べました。この民主主義的過程を経ていることについてドイツのナチス党とイタリアのファシズム党については自明しされており、私も以前に「E・フロム 自由からの逃走について」の記事にて書いたように当時のドイツ国民は割と熱狂的にナチスを支持して押し上げたのは事実です。
では日本は私の主張通りに民主主義的過程を経てファシズム化したのでしょうか。この点について現時点の一般的な日本人の見方は恐らく「NO」で、日本が最終的にファシズム化したのは間違いないにしてもそれは民主主義的過程を経ているのではなく、軍人や官僚といった元からの権力者が国民を置き去りにして暴走したからだという風に受け取られているように思えます。
実際にWikipediaを覗くと「天皇制ファシズム」として一項目が設けられており、私の理解だとドイツやイタリアでは大衆が独裁政党を押し上げてファシスト化したのに対して日本ではそれらとやや趣が異なり、肯定派も否定派も天皇制という柱が重要な役割を果たしたと別扱いされています。
先に私の結論を言うと、確かに天皇制の影響は多少はあったにしろ、当時の日本はドイツやイタリア同様に大衆が独裁党を押し上げ、いわば国民自らが日本を進んでファシスト化させたと見ております。
まず当時の日本の状況から説明していきますが、アメリカより起こった大恐慌の影響を受けて当時の日本は国民全体で貧困者が溢れ、しかも折からの天災を受けて東北各地を中心に凶作が続き、東北地方を中心に農村では生活に困って娘を身売りする家や餓死者が後を絶たなかったようです。そんな最中、政治はどのようにそんな状況に対応していたのかというと、言ってて悲しくなりますが収賄や払い下げなどといった汚職が頻発していたそうなのです。
大正デモクラシーを経て、日本でも成人男子であれば納税額に関係なく投票権を持つようになりましたが、皮肉な事にこの女性こそ除外されているものの普通選挙法が実施されるようになってから政治家の汚職が頻発するようになったのです。これは日本に限らず民主主義国家ではどこも同じ傾向があるらしく、投票権の幅が広がれば広がるほど政治家にとって政治というのは手段化し、腐敗化しやすくなるそうで、貧困者が増える中で私腹を肥やす政治家に憤りをもつ国民が数多くいたそうです。
日本史をやればわかりますが、昭和前期というのは浜口雄幸首相を初めとして実に数多くの政治家が暗殺されております。それほどまでに政治家に対して国民は怒りを覚えると共に信頼を無くし、かわりに肩入れを始めたのが他でもなく陸軍を初めとした軍部でした。
これはどの国でもそうですが基本的に軍隊というのは貧しい人間が入る事が多く、陸軍を初めとした軍人らは貧困者に強く同情しては遅々として進まぬ政治改革に政府批判を続けました。そうした声が実際に行動に移ったのがあの「二・二六事件」で、東北地方を主な出身とする軍人らは汚職に明け暮れる政治家らの政党政治を打倒した上で、軍人を中心とした政府を作り一挙に改革を行おうという目的の元でこの日本史上最大のクーデターは実行しました。
結局二・二六事件は昭和天皇の強い怒りを受けた事から素早く鎮圧されましたが、クーデターは失敗したもののこの事件をきっかけとして政党政治家らは暗殺を強く意識するようになり、国民も政治家達よりも軍人たちの方が真面目に国のことを考えているのではと信頼するようになる人が増えて行きました。
そうした世論を受けてか知らずか、その後の日本は軍族出身の人物が総理大臣に就任する事が多くなると共に軍の主張が大きく幅を聞かす様になります。また政府が軍縮政策を行おうものなら「米英の言いなりになる」という反対意見も国民から出るようになり、そうした声を受けて軍人らもますます増長して行きました。
極め付けが、1940年に成立した大政翼賛会です。議会を事実上の軍部の追認機関としてしまうこの翼賛会に対し、国民はきちんと投票で持って翼賛会推薦議員を当選させ、議会へ送り込んでいます。言ってしまえば、投票で持ってこの翼賛会を否定する事も可能でしたが、当時の日本人はそうはしませんでした。
確かに日本の場合、ドイツやイタリアと比べて軍部が軍部大臣現役武官制を盾に取る事で強く意見を主張できたこともあり、海外の評論家から、「日本はファシスト化する要因を始めからその政治構造内に持っていた」という指摘は当てはまると思います。しかしそれを推しても、当時の史料を見る限りだと日本人は率先して軍部を支持し、戦争も肯定していたようにしか私には見えません。それがいいことか悪い事かといえば当時の時代背景もあることからどっちかだと断言する事は出来ませんが、少なくとも一部の軍人らが国民を無理矢理巻き込んで無謀な戦争に突入したというのは間違いで、当時の国民もそれに一部加担していたというのが私の意見です。
おまけ
ナチス党の幹部がその主張に比べ個人資産を数多く抱えていたのに対し、日本の戦前の幹部(軍人)らは割合に清廉な人が多く、財産もほとんどなかったようです。
では日本は私の主張通りに民主主義的過程を経てファシズム化したのでしょうか。この点について現時点の一般的な日本人の見方は恐らく「NO」で、日本が最終的にファシズム化したのは間違いないにしてもそれは民主主義的過程を経ているのではなく、軍人や官僚といった元からの権力者が国民を置き去りにして暴走したからだという風に受け取られているように思えます。
実際にWikipediaを覗くと「天皇制ファシズム」として一項目が設けられており、私の理解だとドイツやイタリアでは大衆が独裁政党を押し上げてファシスト化したのに対して日本ではそれらとやや趣が異なり、肯定派も否定派も天皇制という柱が重要な役割を果たしたと別扱いされています。
先に私の結論を言うと、確かに天皇制の影響は多少はあったにしろ、当時の日本はドイツやイタリア同様に大衆が独裁党を押し上げ、いわば国民自らが日本を進んでファシスト化させたと見ております。
まず当時の日本の状況から説明していきますが、アメリカより起こった大恐慌の影響を受けて当時の日本は国民全体で貧困者が溢れ、しかも折からの天災を受けて東北各地を中心に凶作が続き、東北地方を中心に農村では生活に困って娘を身売りする家や餓死者が後を絶たなかったようです。そんな最中、政治はどのようにそんな状況に対応していたのかというと、言ってて悲しくなりますが収賄や払い下げなどといった汚職が頻発していたそうなのです。
大正デモクラシーを経て、日本でも成人男子であれば納税額に関係なく投票権を持つようになりましたが、皮肉な事にこの女性こそ除外されているものの普通選挙法が実施されるようになってから政治家の汚職が頻発するようになったのです。これは日本に限らず民主主義国家ではどこも同じ傾向があるらしく、投票権の幅が広がれば広がるほど政治家にとって政治というのは手段化し、腐敗化しやすくなるそうで、貧困者が増える中で私腹を肥やす政治家に憤りをもつ国民が数多くいたそうです。
日本史をやればわかりますが、昭和前期というのは浜口雄幸首相を初めとして実に数多くの政治家が暗殺されております。それほどまでに政治家に対して国民は怒りを覚えると共に信頼を無くし、かわりに肩入れを始めたのが他でもなく陸軍を初めとした軍部でした。
これはどの国でもそうですが基本的に軍隊というのは貧しい人間が入る事が多く、陸軍を初めとした軍人らは貧困者に強く同情しては遅々として進まぬ政治改革に政府批判を続けました。そうした声が実際に行動に移ったのがあの「二・二六事件」で、東北地方を主な出身とする軍人らは汚職に明け暮れる政治家らの政党政治を打倒した上で、軍人を中心とした政府を作り一挙に改革を行おうという目的の元でこの日本史上最大のクーデターは実行しました。
結局二・二六事件は昭和天皇の強い怒りを受けた事から素早く鎮圧されましたが、クーデターは失敗したもののこの事件をきっかけとして政党政治家らは暗殺を強く意識するようになり、国民も政治家達よりも軍人たちの方が真面目に国のことを考えているのではと信頼するようになる人が増えて行きました。
そうした世論を受けてか知らずか、その後の日本は軍族出身の人物が総理大臣に就任する事が多くなると共に軍の主張が大きく幅を聞かす様になります。また政府が軍縮政策を行おうものなら「米英の言いなりになる」という反対意見も国民から出るようになり、そうした声を受けて軍人らもますます増長して行きました。
極め付けが、1940年に成立した大政翼賛会です。議会を事実上の軍部の追認機関としてしまうこの翼賛会に対し、国民はきちんと投票で持って翼賛会推薦議員を当選させ、議会へ送り込んでいます。言ってしまえば、投票で持ってこの翼賛会を否定する事も可能でしたが、当時の日本人はそうはしませんでした。
確かに日本の場合、ドイツやイタリアと比べて軍部が軍部大臣現役武官制を盾に取る事で強く意見を主張できたこともあり、海外の評論家から、「日本はファシスト化する要因を始めからその政治構造内に持っていた」という指摘は当てはまると思います。しかしそれを推しても、当時の史料を見る限りだと日本人は率先して軍部を支持し、戦争も肯定していたようにしか私には見えません。それがいいことか悪い事かといえば当時の時代背景もあることからどっちかだと断言する事は出来ませんが、少なくとも一部の軍人らが国民を無理矢理巻き込んで無謀な戦争に突入したというのは間違いで、当時の国民もそれに一部加担していたというのが私の意見です。
おまけ
ナチス党の幹部がその主張に比べ個人資産を数多く抱えていたのに対し、日本の戦前の幹部(軍人)らは割合に清廉な人が多く、財産もほとんどなかったようです。
2010年6月12日土曜日
ファシズムとは何か
数日前にある本を読んでいると、「戦前の日本がファシズム化したのは伝統的に支配者階級が強い権力を持って庶民を圧迫し続けてきた背景があるからだ」、という記述があり、「いや、そうじゃないだろう」という気持ちを覚えると共に、「そもそも、ファシズムってなんなのだ?」という疑念が持ち上がってきました。
・ファシズム(Wikipedia)
ファシズムというのは一般的に、第二次大戦中に日本、ドイツ、イタリアといった枢軸国における政治体制、もしくはその体制が出来上がる元となった思想の事を指しております。この名称自体はイタリアで政権を握ったムッソリーニ率いたファシスト党から来ていますが、ドイツのナチス党による「ナチズム」、日本の軍部による「大政翼賛体制」もファシスト体制として一般的には分類されております。
それでこのファシズムが具体的にどのような政治体制なのかですが、特徴を項目ごとに挙げると以下のものが挙がってくるかと思われます。
1、無尽蔵な国家権力(=全体主義)
2、排外主義(=人種優越主義)
3、暴力組織による監視、弾圧(特高、SA)
4、大衆主義(=社会福祉向上の看板)
5、統制経済主義(=国家総動員法)
6、一党独裁の政府
ちょっと小難しい言葉ばかりで申し訳ないのですが、ざっと並べるとこんなもんでしょう。
一つ一つをもう少し詳しく説明すると、1番目の「全体主義」というのは個人の自由や人権よりも国家(政府)の体制維持が優先されるべきだという思想で、2番目の排外主義というのは自分達民族が優越な人種であると自認するという、大東亜共栄圏構想やユダヤ人虐殺につながった思想の事です。ついでに書いておくと、大東亜共栄圏構想というのはアジアを平等に一つの共同体へまとめようとする優れた思想だったなどという主張をする人がいますが、「アメリカを始めとした西欧人を打ちのめすために、一時的にアジア各国をすべて日本が占領する」という思想のどこが平等なのか、私にはわかりません。さらについでに書くと妹尾河童氏は「少年H」にて、まさに上記のような大東亜共栄圏構想を面接で滔々と話して高等小学校に合格したそうです。
3番目の暴力組織については説明するまでもなく、4番目の大衆主義についてはナチス党の正式名称が「国家社会主義ドイツ労働者党」であったように、日本の軍部同様に底辺の労働者や農民の福祉向上を権力獲得のプロセスで掲げていたことを指しております。それゆえにこのファシズムを「国家社会主義」という訳し方をする人もおりますが、私もこれが適当だと思います。
5番目の統制経済についてもあまり説明するまでもありませんが、要するに米やガソリンを配給制にしたりするなど経済分配をすべて国が管理する体制を指しており、6番目も言わずもがなで大政翼賛会やナチス党が議席を独占して内閣の従属機関でしかなくなっていたことを指してます。
これらの条件を持った国家体制こそファシズムだというのが私の意見なのですが、一番大きな条件となるとやはり一番目の「全体主義」で、言ってしまえばその他の条件は大体この全体主義に付随するものです。
さてこれらの条件、よくよく内容をみてみるとかつての旧ソ連や毛沢東時代の中国、果てには現在の北朝鮮といった旧共産圏の国々にも当てはまるような気がしないでもありません。実際にナチスは設立間もないソ連を運営していたボリシェビキの政治手法から多くを学んでおり、権力獲得後の手法は多くの面で共通しています。
ではファシズムと共産主義同じ物なのでしょうか。さっきに挙げた条件の中で2番目の排外主義についてはやや議論の余地がありますが(旧ソ連内でユダヤ人は差別されたが、民族対立については今ほど激しくなかった)、それ以外の全体主義的傾向などは全くと言っていい程似通っています。
ここからが今日のミソですが、ファシズムと共産主義を分ける決定的なポイントというのは、政府を握る組織が権力を獲得するまでのプロセスが民主主義的であるかどうかです。
世界史を学んでいる方には常識ですが、戦前のドイツでナチスは民主主義的な選挙を経て、途中でミュンヘン一揆などもありましたが最初から最後まで極めて合法的に権力を獲得しております。それに対してソ連や中国の共産党は国内での革命戦争に勝利すると、スタート当初でこそ共産党内での方針の違う組織で分かれたり、共産主義と資本主義の中間的な組織が政治に参加するなど多党制的な体制でしたが、途中からは共産党のソ連ではスターリン、中国では毛沢東が対抗勢力を完膚なきまで叩き潰して一党独裁体制へと移っています。
これまでの内容を簡単にまとめると、権力獲得後の体制こそほとんど似通っているものの、ファシズムと共産制はその成り立ちが民主主義的過程を経ているか否かで異なっている、というのが私の意見です。
では戦前の日本はどうなのか。ナチスは民主主義に則って権力を獲得したが、日本は軍部がその強権と武力を持って無理矢理権力を握ったのだからむしろ共産主義的傾向が強いと思われるかもしれませんが、私の見方は戦前の日本はやはりファシズムであったと考えています。その根拠については、次回にて。
・ファシズム(Wikipedia)
ファシズムというのは一般的に、第二次大戦中に日本、ドイツ、イタリアといった枢軸国における政治体制、もしくはその体制が出来上がる元となった思想の事を指しております。この名称自体はイタリアで政権を握ったムッソリーニ率いたファシスト党から来ていますが、ドイツのナチス党による「ナチズム」、日本の軍部による「大政翼賛体制」もファシスト体制として一般的には分類されております。
それでこのファシズムが具体的にどのような政治体制なのかですが、特徴を項目ごとに挙げると以下のものが挙がってくるかと思われます。
1、無尽蔵な国家権力(=全体主義)
2、排外主義(=人種優越主義)
3、暴力組織による監視、弾圧(特高、SA)
4、大衆主義(=社会福祉向上の看板)
5、統制経済主義(=国家総動員法)
6、一党独裁の政府
ちょっと小難しい言葉ばかりで申し訳ないのですが、ざっと並べるとこんなもんでしょう。
一つ一つをもう少し詳しく説明すると、1番目の「全体主義」というのは個人の自由や人権よりも国家(政府)の体制維持が優先されるべきだという思想で、2番目の排外主義というのは自分達民族が優越な人種であると自認するという、大東亜共栄圏構想やユダヤ人虐殺につながった思想の事です。ついでに書いておくと、大東亜共栄圏構想というのはアジアを平等に一つの共同体へまとめようとする優れた思想だったなどという主張をする人がいますが、「アメリカを始めとした西欧人を打ちのめすために、一時的にアジア各国をすべて日本が占領する」という思想のどこが平等なのか、私にはわかりません。さらについでに書くと妹尾河童氏は「少年H」にて、まさに上記のような大東亜共栄圏構想を面接で滔々と話して高等小学校に合格したそうです。
3番目の暴力組織については説明するまでもなく、4番目の大衆主義についてはナチス党の正式名称が「国家社会主義ドイツ労働者党」であったように、日本の軍部同様に底辺の労働者や農民の福祉向上を権力獲得のプロセスで掲げていたことを指しております。それゆえにこのファシズムを「国家社会主義」という訳し方をする人もおりますが、私もこれが適当だと思います。
5番目の統制経済についてもあまり説明するまでもありませんが、要するに米やガソリンを配給制にしたりするなど経済分配をすべて国が管理する体制を指しており、6番目も言わずもがなで大政翼賛会やナチス党が議席を独占して内閣の従属機関でしかなくなっていたことを指してます。
これらの条件を持った国家体制こそファシズムだというのが私の意見なのですが、一番大きな条件となるとやはり一番目の「全体主義」で、言ってしまえばその他の条件は大体この全体主義に付随するものです。
さてこれらの条件、よくよく内容をみてみるとかつての旧ソ連や毛沢東時代の中国、果てには現在の北朝鮮といった旧共産圏の国々にも当てはまるような気がしないでもありません。実際にナチスは設立間もないソ連を運営していたボリシェビキの政治手法から多くを学んでおり、権力獲得後の手法は多くの面で共通しています。
ではファシズムと共産主義同じ物なのでしょうか。さっきに挙げた条件の中で2番目の排外主義についてはやや議論の余地がありますが(旧ソ連内でユダヤ人は差別されたが、民族対立については今ほど激しくなかった)、それ以外の全体主義的傾向などは全くと言っていい程似通っています。
ここからが今日のミソですが、ファシズムと共産主義を分ける決定的なポイントというのは、政府を握る組織が権力を獲得するまでのプロセスが民主主義的であるかどうかです。
世界史を学んでいる方には常識ですが、戦前のドイツでナチスは民主主義的な選挙を経て、途中でミュンヘン一揆などもありましたが最初から最後まで極めて合法的に権力を獲得しております。それに対してソ連や中国の共産党は国内での革命戦争に勝利すると、スタート当初でこそ共産党内での方針の違う組織で分かれたり、共産主義と資本主義の中間的な組織が政治に参加するなど多党制的な体制でしたが、途中からは共産党のソ連ではスターリン、中国では毛沢東が対抗勢力を完膚なきまで叩き潰して一党独裁体制へと移っています。
これまでの内容を簡単にまとめると、権力獲得後の体制こそほとんど似通っているものの、ファシズムと共産制はその成り立ちが民主主義的過程を経ているか否かで異なっている、というのが私の意見です。
では戦前の日本はどうなのか。ナチスは民主主義に則って権力を獲得したが、日本は軍部がその強権と武力を持って無理矢理権力を握ったのだからむしろ共産主義的傾向が強いと思われるかもしれませんが、私の見方は戦前の日本はやはりファシズムであったと考えています。その根拠については、次回にて。
2010年6月10日木曜日
菅直人新政権の今後予想
別に体調不良だと言うわけでもないですが、この所はこれまでにないくらい更新が少ないです。更新が少ないことに大した理由はないのですがこれだけ政治が動いているのに何も書かないのもあれなので、前回予想を外しておきながら今回もまたひとつ政治予想をして見ようかと思います。予想する内容も、菅直人新政権の今後です。
鳩山由紀夫前首相の突然の辞任を受け、下馬評どおりに同じ民主党内の菅直人氏が新首相に就任することになりました。就任直後の内閣支持率は六割を超えて各識者、並びに私の周りでもあれだけ落ち込んでいた民主党への支持がこれだけ回復するとはと皆一様に驚くような意見が多かったのですが、私の見方はまさにこれとは逆で、六割しか取れなかったのでは先行きは険しいだろうという印象を覚えました。
これは何故かと言うと、2000年代の日本の首相の支持率はどれもその就任時が最も支持率が高くなる傾向があり、これは逆に言えば今後どうあがいても支持率が六割を超える事がないということで、しかも前政権が前政権だったゆえに下降する際の角度は急激になる可能性も高く、そう言った事を考慮すると参議院選挙時は五割か四割を切る事になると思います。
では民主党は参議院選挙の間まで何をするべきかと言えば、ひたすら貝のように黙って選挙日が来るのを待てば良いのではないかと私は考えました。支持率がこれ以上上がらないと行っても過半数の支持は得ているのだし、このまま黙って粛々と選挙まで運べば大負けは確実に避けれて、下手すればまた勝利を得られるのではないかと見ました。
そう思っていた矢先、発足当初に新しく官房長官に就任した仙石氏が国民新党との連立を維持し、しかも今回期中に郵政改革法案を通過させると約束したのを見て私自身が呆れましたし、世論もはっきりとは見せないまでも何かしら動くだろうと感じました。
郵政問題については過去に書いた「郵政民営化の是非を問う」の記事で私の意見はまとめていますが、今回国民新党がこだわっているこの郵政改革法案は事実上の逆行法案で、あれだけの苦労をしてようやく改革した郵政を以前以上にひどいものに変えようとするこの法案は見ているだけでイライラさせられる内容でした。一例を挙げると、国家公務員の新規採用人数を来年度は四割近く削減する一方、この改革法案では現在の郵政で雇っている派遣社員らをすべて正社員として雇用しなおすと書かれており、一体何がしたいんだと言いたくなるような態度です。田原総一郎氏も書いていましたが、国民新党の亀井はただ単に小泉憎しで郵政を叩き潰したいと本人も言っているそうで、何かしら政治的な必要性で動いていないのは明白です。
結局、菅氏に首相が変わってもこの郵政はまた元に戻されてしまうのかと私も半ばあきらめていましたが、なんだか昨日から今日にかけて現在の会期予定では成立は困難と民主党が主張し始め、言ってはなんですが少し見直しました。折角ですからこの時点で国民新党と連立を切った方が、個人的には民主党のためにもいいんじゃないかと思います。
ちょっと断片的な内容ばかりですが、敢えて選挙前に民主党に波乱があるとしたらこの国民新党の処遇ではないかというのが今日の私の意見です。
鳩山由紀夫前首相の突然の辞任を受け、下馬評どおりに同じ民主党内の菅直人氏が新首相に就任することになりました。就任直後の内閣支持率は六割を超えて各識者、並びに私の周りでもあれだけ落ち込んでいた民主党への支持がこれだけ回復するとはと皆一様に驚くような意見が多かったのですが、私の見方はまさにこれとは逆で、六割しか取れなかったのでは先行きは険しいだろうという印象を覚えました。
これは何故かと言うと、2000年代の日本の首相の支持率はどれもその就任時が最も支持率が高くなる傾向があり、これは逆に言えば今後どうあがいても支持率が六割を超える事がないということで、しかも前政権が前政権だったゆえに下降する際の角度は急激になる可能性も高く、そう言った事を考慮すると参議院選挙時は五割か四割を切る事になると思います。
では民主党は参議院選挙の間まで何をするべきかと言えば、ひたすら貝のように黙って選挙日が来るのを待てば良いのではないかと私は考えました。支持率がこれ以上上がらないと行っても過半数の支持は得ているのだし、このまま黙って粛々と選挙まで運べば大負けは確実に避けれて、下手すればまた勝利を得られるのではないかと見ました。
そう思っていた矢先、発足当初に新しく官房長官に就任した仙石氏が国民新党との連立を維持し、しかも今回期中に郵政改革法案を通過させると約束したのを見て私自身が呆れましたし、世論もはっきりとは見せないまでも何かしら動くだろうと感じました。
郵政問題については過去に書いた「郵政民営化の是非を問う」の記事で私の意見はまとめていますが、今回国民新党がこだわっているこの郵政改革法案は事実上の逆行法案で、あれだけの苦労をしてようやく改革した郵政を以前以上にひどいものに変えようとするこの法案は見ているだけでイライラさせられる内容でした。一例を挙げると、国家公務員の新規採用人数を来年度は四割近く削減する一方、この改革法案では現在の郵政で雇っている派遣社員らをすべて正社員として雇用しなおすと書かれており、一体何がしたいんだと言いたくなるような態度です。田原総一郎氏も書いていましたが、国民新党の亀井はただ単に小泉憎しで郵政を叩き潰したいと本人も言っているそうで、何かしら政治的な必要性で動いていないのは明白です。
結局、菅氏に首相が変わってもこの郵政はまた元に戻されてしまうのかと私も半ばあきらめていましたが、なんだか昨日から今日にかけて現在の会期予定では成立は困難と民主党が主張し始め、言ってはなんですが少し見直しました。折角ですからこの時点で国民新党と連立を切った方が、個人的には民主党のためにもいいんじゃないかと思います。
ちょっと断片的な内容ばかりですが、敢えて選挙前に民主党に波乱があるとしたらこの国民新党の処遇ではないかというのが今日の私の意見です。
2010年6月7日月曜日
大原騒動と悪代官 後編
前編、中編と続いてようやく最後の後編です。結構ちんたら書いたもんだ。
さて前回の中編では散々悪知恵働かした大原紹正が不幸な最後を遂げたもののその息子の大原正純が郡代職を継ぎ、父親と変わらぬ圧政を続けた所まで解説しました。
具体的に息子の大原正純はどんな事をしたかですが、彼がまず最初に行って反感を勝ったのは災害対策金の着服でした。1783年、この年に浅間山が噴火した事により「天命の代飢饉」と呼ばれるほどの大不作となったのですが、幕府としてもただ手をこまねくわけにもいかず、飛騨高山にも1600両の救済金が配られる予定でした。ところがこのお金を大原正純は何を思ったか、救済金を得るために献金活動で金を使ったからそのままもらうといって、なんと一銭も農民に配りませんでした。それどころか財政がよくないとして、村々に対して一条金、今で言う地方国債のような拠出金を6000両も出すように命じたのです。
これには前回、前々回の明和、安永騒動でこっぴどくやられた農民らも黙ってはおられず、代表者を数人決めて江戸に直訴するべく動き出したのです。
すでにこの時期には十代将軍家治が亡くなっており、それに伴って権勢を振るっていた田沼意次も失脚しておりました。その田沼のかわりに老中主座についていたのは後に「寛政の改革」の指導者として名を挙げた松平定信で、飛騨高山の農民も清廉さに定評のある彼に訴えでました。
この訴えを受けた松平定信は早速郡代の下の元締職である田中要介を江戸に呼び出して取調べを始めたのですが、この農民側の動きに対して焦りを覚えた郡代の大原正純はあらかじめ手を打とうと、国内の主だった農民指導者の逮捕に動き出すのでした。
この大原正純の動きに気づくや農民らも各地に身を隠し、将軍の代替わり毎に全国各地を視察して問題がないかを調べる巡検使、比留間助左衛門と密かに接触し、群題のこれまでの悪行を訴え出たのです。先の松平定信への訴えもあったことから比留間も農民の話をよく聞き、その噂を聞いた他の村々からも次々と同じような訴えが集まりここに至って大原正純は追い詰められていったのでした。
さらに農民側は念には念と、登城途中の松平定信に対して訴状の直訴(駕籠訴)まで行いました。明治時代もそうでしたが、この時代の直訴は重罰で、死罪さえもままおりる様な行為でしたがそれでも飛騨高山の農民らは実行したのでした。
こうした農民側の訴えが功を奏し、すでに取調べを受けていた元締の田中要介は打ち首、そして大原正純は八丈島へ流罪という判決が下りたのです。更に松平定信に直訴した農民らは「おしかり」という、今で言うなら訓戒という最も軽い罰で止まり、取調べ中に牢死した者以外らはすべて軽い罪で許されたそうです。
ちなみにWikipediaでこの「大原騒動」を見ると駕籠訴を行った農民には死罪が下りたという風に記述されていますが、私の持っている資料、所詮は歴史漫画ですがこちらでは上記のように「おしかり」で済んだと書かれており矛盾しております。そこでちょっと調べて見た所、ここの高山市立南小が恐らく総合学習でまとめたのであろうこの騒動の顛末記では、私の資料同様に駕籠訴をした二人は「おしかり」だったと書かれています。ま、もうちょっと検証しないとはっきりしませんが。
今日ここで紹介した騒動は「天明騒動」と呼ばれ、前編の「明和騒動」、中編の「安永騒動」と三つ合わせて「大原騒動」と定義されております。
最近はそうでもないですが十年位前に出ている学者らが書いた本などを読むと、「日本や中国、ロシアやドイツでは英米と違い、伝統的に政治支配階級が強権を振るって庶民らをいじめ続けた歴史がある(だからファシズムのような全体主義がはびこった)」という記述がさも当たり前かのように色んな本に書かれていますが、私はやはりこのような意見は偏見に満ちた意見だと考えております。
確かに江戸時代初期は支配階級である武士の力が社会でも非常に強かったですが、中期以降ではどの武士も借金漬けで町人より力がなく、また差別されていじめられっぱなしだったと言われる農民も幕末にやってきた欧米人の手記などを読むと、彼ら欧米のどの国々の農民よりも日本の農民は豊かで幸せそうに暮らしていると完全に一致した見解が持たれております。
今回三回に分けて紹介したこの大原騒動ですが、確かに悪代官が悪辣な手段で農民をいじめる話ではあるものの、見るべき者(今回は松平定信)が見て、最後には裁かれるべき者が裁かれる結末で終わっております。水戸黄門や暴れん坊将軍がズバっと現れズバっと悪人斬って一挙に解決とまでは行きませんが、粘り強い農民の努力もあったとはいえ、世の中にもまだ救いがあると思える話だと思えます。
参考資料
「まんが人物日本の歴史2 徳川将軍と庶民」 小学館 1992年出版
さて前回の中編では散々悪知恵働かした大原紹正が不幸な最後を遂げたもののその息子の大原正純が郡代職を継ぎ、父親と変わらぬ圧政を続けた所まで解説しました。
具体的に息子の大原正純はどんな事をしたかですが、彼がまず最初に行って反感を勝ったのは災害対策金の着服でした。1783年、この年に浅間山が噴火した事により「天命の代飢饉」と呼ばれるほどの大不作となったのですが、幕府としてもただ手をこまねくわけにもいかず、飛騨高山にも1600両の救済金が配られる予定でした。ところがこのお金を大原正純は何を思ったか、救済金を得るために献金活動で金を使ったからそのままもらうといって、なんと一銭も農民に配りませんでした。それどころか財政がよくないとして、村々に対して一条金、今で言う地方国債のような拠出金を6000両も出すように命じたのです。
これには前回、前々回の明和、安永騒動でこっぴどくやられた農民らも黙ってはおられず、代表者を数人決めて江戸に直訴するべく動き出したのです。
すでにこの時期には十代将軍家治が亡くなっており、それに伴って権勢を振るっていた田沼意次も失脚しておりました。その田沼のかわりに老中主座についていたのは後に「寛政の改革」の指導者として名を挙げた松平定信で、飛騨高山の農民も清廉さに定評のある彼に訴えでました。
この訴えを受けた松平定信は早速郡代の下の元締職である田中要介を江戸に呼び出して取調べを始めたのですが、この農民側の動きに対して焦りを覚えた郡代の大原正純はあらかじめ手を打とうと、国内の主だった農民指導者の逮捕に動き出すのでした。
この大原正純の動きに気づくや農民らも各地に身を隠し、将軍の代替わり毎に全国各地を視察して問題がないかを調べる巡検使、比留間助左衛門と密かに接触し、群題のこれまでの悪行を訴え出たのです。先の松平定信への訴えもあったことから比留間も農民の話をよく聞き、その噂を聞いた他の村々からも次々と同じような訴えが集まりここに至って大原正純は追い詰められていったのでした。
さらに農民側は念には念と、登城途中の松平定信に対して訴状の直訴(駕籠訴)まで行いました。明治時代もそうでしたが、この時代の直訴は重罰で、死罪さえもままおりる様な行為でしたがそれでも飛騨高山の農民らは実行したのでした。
こうした農民側の訴えが功を奏し、すでに取調べを受けていた元締の田中要介は打ち首、そして大原正純は八丈島へ流罪という判決が下りたのです。更に松平定信に直訴した農民らは「おしかり」という、今で言うなら訓戒という最も軽い罰で止まり、取調べ中に牢死した者以外らはすべて軽い罪で許されたそうです。
ちなみにWikipediaでこの「大原騒動」を見ると駕籠訴を行った農民には死罪が下りたという風に記述されていますが、私の持っている資料、所詮は歴史漫画ですがこちらでは上記のように「おしかり」で済んだと書かれており矛盾しております。そこでちょっと調べて見た所、ここの高山市立南小が恐らく総合学習でまとめたのであろうこの騒動の顛末記では、私の資料同様に駕籠訴をした二人は「おしかり」だったと書かれています。ま、もうちょっと検証しないとはっきりしませんが。
今日ここで紹介した騒動は「天明騒動」と呼ばれ、前編の「明和騒動」、中編の「安永騒動」と三つ合わせて「大原騒動」と定義されております。
最近はそうでもないですが十年位前に出ている学者らが書いた本などを読むと、「日本や中国、ロシアやドイツでは英米と違い、伝統的に政治支配階級が強権を振るって庶民らをいじめ続けた歴史がある(だからファシズムのような全体主義がはびこった)」という記述がさも当たり前かのように色んな本に書かれていますが、私はやはりこのような意見は偏見に満ちた意見だと考えております。
確かに江戸時代初期は支配階級である武士の力が社会でも非常に強かったですが、中期以降ではどの武士も借金漬けで町人より力がなく、また差別されていじめられっぱなしだったと言われる農民も幕末にやってきた欧米人の手記などを読むと、彼ら欧米のどの国々の農民よりも日本の農民は豊かで幸せそうに暮らしていると完全に一致した見解が持たれております。
今回三回に分けて紹介したこの大原騒動ですが、確かに悪代官が悪辣な手段で農民をいじめる話ではあるものの、見るべき者(今回は松平定信)が見て、最後には裁かれるべき者が裁かれる結末で終わっております。水戸黄門や暴れん坊将軍がズバっと現れズバっと悪人斬って一挙に解決とまでは行きませんが、粘り強い農民の努力もあったとはいえ、世の中にもまだ救いがあると思える話だと思えます。
参考資料
「まんが人物日本の歴史2 徳川将軍と庶民」 小学館 1992年出版
2010年6月5日土曜日
大原騒動と悪代官 中編
前編に引き続き、大原騒動の顛末について紹介します。
さて前回では江戸時代の飛騨高山に大原紹正という代官がやってきて、よくもまぁこれだけ悪知恵が働くと言いたくなるほど農民に圧迫をかけていく過程について紹介しましたが、この後も大原紹正は手を緩める事なくさらに農民を追い込んで行きました。
江戸時代の農民への徴税は田畑ごとにあらかじめ決められた量の米を納める事でなされていたのですが、その税額を決めるのは田畑の広さや質を測る検地でした。この検地は毎年行うのではなく数十年に一回というペースで行い、その時に定まった量が次回の検地まで基準としてあり続けたのです。
大原紹正は前回の明和騒動の後、以前の検地時より新田が増えているとして新たに検地を行うと取り決めたのですが、農民の側からすると一方的に税額が増えるだけなのでもちろん反対しました。そこで大原紹正は検地を行うのは新田のみで、すでに検地がなされている従来からの田畑には縄を入れないと約束して検地の実施に移ったのですが、面の皮が厚いというかこの約束も見事に反故にして、従来からの田畑もそれまで以上に米が取れる計算で新たに検地し直し、なんと従来の1.5倍以上もの増税見込みをつけたのです。
ただでさえ材木業が出来なくなって生活に困っていた農民達だけにこの一方的な増税には反対して隣国の家老に訴えたり江戸の老中に直訴したりもしたのですが、この農民の動きに大原紹正は主だった農民側の代表者達を逮捕、処刑して沈静化に動きました。
そこで農民達は一計を案じ、自分達が作る農作物や炭といった生産物の流通を停止し、商業生活者である町人たちへ売らないようにしたのです。今で言うストライキみたいなものですがこれには飛騨高山の町人らも米が買えなくなるなど困り果てて、やむなく大原紹正も農民側との話し合いに応じて年貢高の増額やすでに捕まえている農民らへの拷問の禁止を約束しました。
しかし、ここまで来ればもうわかるでしょうが、やはりというか大原紹正がこんな約束を守るわけなどなく、農民側を追い返すやすぐに近隣の藩に兵士を出兵させ、自分に歯向かった農民を強襲して一斉に百人以上も検挙したそうです。そしてこの時の騒動で捕まった農民の代表者、並びに前回の明和騒動で捕まえられていた代表者は一斉に処刑され、停止されていた検地も実行された結果、飛騨高山の石高はそれまでより五万五千石も増えたそうです。はっきりいいますが、これはありえないくらいの増税です。
この増税の成功と田沼意次への賄賂が効いたか大原紹正はこの直後に代官から郡代へと昇進したのですが、天もさすがにこんな人間を放っておかなかったと言うべきか、まもなく大原紹正の妻が夫の農民へのあまりの仕打ちに心を痛め自害し、その翌年には大原紹正の目が突然失明し、そのまた翌年には熱病にかかってそのまま亡くなりました。ここまで一連の騒動は、前回の「明和騒動」に続く形で「安永騒動」と呼ばれております。
農民側も多大な犠牲を負ったものの当事者である大原紹正自身が不幸な最後を遂げ、後味が悪いもののこれで幕引きかと思われたこの騒動ですが、大原紹正の後の新たな郡代に中央からまた誰かが派遣されてくるかと思いきや、なんと大原紹正の息子の大原正純が郡代職を継いだのです。この世襲も田沼意次への賄賂が効いたと言われ、蛙の子は蛙と言うか、息子の大原正純も郡代就任後は父親に負けず劣らず農民への苛政を続け、中央への賄賂を贈り続けたわけです。
こんな強欲親子二代に農民側も黙っていられるわけなく、安永騒動から七年後、この飛騨高山代官バトルの第三ラウンドが開かれることとなるわけです。そういうわけで、結末は次回へ。
さて前回では江戸時代の飛騨高山に大原紹正という代官がやってきて、よくもまぁこれだけ悪知恵が働くと言いたくなるほど農民に圧迫をかけていく過程について紹介しましたが、この後も大原紹正は手を緩める事なくさらに農民を追い込んで行きました。
江戸時代の農民への徴税は田畑ごとにあらかじめ決められた量の米を納める事でなされていたのですが、その税額を決めるのは田畑の広さや質を測る検地でした。この検地は毎年行うのではなく数十年に一回というペースで行い、その時に定まった量が次回の検地まで基準としてあり続けたのです。
大原紹正は前回の明和騒動の後、以前の検地時より新田が増えているとして新たに検地を行うと取り決めたのですが、農民の側からすると一方的に税額が増えるだけなのでもちろん反対しました。そこで大原紹正は検地を行うのは新田のみで、すでに検地がなされている従来からの田畑には縄を入れないと約束して検地の実施に移ったのですが、面の皮が厚いというかこの約束も見事に反故にして、従来からの田畑もそれまで以上に米が取れる計算で新たに検地し直し、なんと従来の1.5倍以上もの増税見込みをつけたのです。
ただでさえ材木業が出来なくなって生活に困っていた農民達だけにこの一方的な増税には反対して隣国の家老に訴えたり江戸の老中に直訴したりもしたのですが、この農民の動きに大原紹正は主だった農民側の代表者達を逮捕、処刑して沈静化に動きました。
そこで農民達は一計を案じ、自分達が作る農作物や炭といった生産物の流通を停止し、商業生活者である町人たちへ売らないようにしたのです。今で言うストライキみたいなものですがこれには飛騨高山の町人らも米が買えなくなるなど困り果てて、やむなく大原紹正も農民側との話し合いに応じて年貢高の増額やすでに捕まえている農民らへの拷問の禁止を約束しました。
しかし、ここまで来ればもうわかるでしょうが、やはりというか大原紹正がこんな約束を守るわけなどなく、農民側を追い返すやすぐに近隣の藩に兵士を出兵させ、自分に歯向かった農民を強襲して一斉に百人以上も検挙したそうです。そしてこの時の騒動で捕まった農民の代表者、並びに前回の明和騒動で捕まえられていた代表者は一斉に処刑され、停止されていた検地も実行された結果、飛騨高山の石高はそれまでより五万五千石も増えたそうです。はっきりいいますが、これはありえないくらいの増税です。
この増税の成功と田沼意次への賄賂が効いたか大原紹正はこの直後に代官から郡代へと昇進したのですが、天もさすがにこんな人間を放っておかなかったと言うべきか、まもなく大原紹正の妻が夫の農民へのあまりの仕打ちに心を痛め自害し、その翌年には大原紹正の目が突然失明し、そのまた翌年には熱病にかかってそのまま亡くなりました。ここまで一連の騒動は、前回の「明和騒動」に続く形で「安永騒動」と呼ばれております。
農民側も多大な犠牲を負ったものの当事者である大原紹正自身が不幸な最後を遂げ、後味が悪いもののこれで幕引きかと思われたこの騒動ですが、大原紹正の後の新たな郡代に中央からまた誰かが派遣されてくるかと思いきや、なんと大原紹正の息子の大原正純が郡代職を継いだのです。この世襲も田沼意次への賄賂が効いたと言われ、蛙の子は蛙と言うか、息子の大原正純も郡代就任後は父親に負けず劣らず農民への苛政を続け、中央への賄賂を贈り続けたわけです。
こんな強欲親子二代に農民側も黙っていられるわけなく、安永騒動から七年後、この飛騨高山代官バトルの第三ラウンドが開かれることとなるわけです。そういうわけで、結末は次回へ。
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