2012年6月18日月曜日

犯罪者の生い立ちは刑に考慮すべきか

 刑事事件の裁判などではよく、弁護士が被告の不幸な生い立ちを語ることが多いです。それこそ貧しい家庭に生まれたとか親の愛情を受けなかったとか、そうした背景が性格に影響を及ぼして犯罪に駆り立ててしまったという具合に、弁護士が語るのは何もドラマだけの話じゃないでしょう。
 まず前提の話として、細かいデータなどは出しませんが貧困家庭出身の人間がそうでない出身の人間と比べて犯罪を引き起こす確率が高いのは各種統計からも伺えます。そのため犯罪をなくす、減らすためには生活を豊かにさせればいいのだとばかりに社会福祉の充実が図られた時期がありましたが、少し脱線すると高度経済成長期以降は裕福な家庭出身者でも犯罪に走る人間が出てきて軽いモラルパニックが起きています。

 本題に戻りますが、果たしてこういった生い立ちは刑罰の軽重に影響を与えるべきでしょうか、不幸な生い立ちは刑を軽くする理由として認めるべきでしょうか。結論から話すと私の答えはノーで、それが犯罪を実行するに当たって直接的な動機とならない限りは全く考慮する必要はなく、審議に当たって無駄な時間となるのでこういう言い訳はしないように裁判で徹底するべきでしょう。

 たとえば家庭が貧乏で満足に食事が取れず、餓えから食べ物を盗んだというケースのようにその不幸な生い立ちや状況が直接的な動機となる場合、餓えという問題が解決すれば次回以降は犯罪を抑止する可能性が高いと言えるので、この場合は通常の窃盗と比べて減刑するべきでしょう。また貧乏な家庭出身、極端な場合は被差別部落出身であることを罵倒され続たことからその罵倒した相手を殴打したり、怪我をさせた場合も、差別さえなければ犯罪を起こすことはないと言えるのでこの場合も普通の傷害と比べて減刑するべきだという立場を取ります。
 しかしその犯罪が不幸な生い立ちと全く関係なく引き起こされた場合、これも例を出せば子供時代は非常に貧乏だったものの、成人後は働いて自活していたにもかかわらず窃盗や殺人を犯した場合、こういうケースはその生い立ちはなんの言い訳にもならないでしょうし、むしろお涙ちょうだいとばかりにそんな話をされるだけでも虫唾が走ります。よく少年期の体験が性格を捻じ曲げてしまったなどという弁論がされますが、では同じような体験をした人間はみんな性格がねじ曲がるのかという疑問が出てきます。さらに言えばでは恵まれた生い立ちの人間が同じような犯罪を引き起こせば、一般的な生い立ちの人間と比べて罪が重くなるのかと言えばそれもまた変な話でしょう。

 私がこのように考える一因となったものとして、戦後の死刑基準となった永山則夫連続射殺事件が大きく影響を与えております。現代は死刑基準が厳しくなって既に「永山基準」は過去のものとなりつつありますが、恐らく法学部出身者ならこの事件は目に耳にしているはずです。私個人としてこの事件で無関係の人間4人も問答無用で射殺した犯人の永山則夫に対してその不幸な生い立ちには強く同情します。しかし最高裁の判決で「同じように不幸な生い立ちだったほかの兄弟は犯罪を犯してはおらず、その生い立ちが犯罪を犯す理由とはなり得ない」と指摘した内容はまさにその通りだと感じ、同情されることはあっても犯罪に対する免罪符にしてはならないと私は考えております。
 同じようにその不幸な生い立ちが大きくクローズアップされた事件として池袋通り魔殺人事件がありますが、この事件も生い立ちとは全く関係のない人間を襲っており、減刑するようなものではないでしょう。

 私自身は比較的恵まれた家庭で育っており、また被差別階級の出身でもありません。敢えて言うのなれば「持たざる者」ではないが故に、このような意見を主張するのではないか、逆の立場であれば言うことも逆になるのではないかという危惧はあります。しかしそれでもなおこのような意見を主張しようと思ったのは、もうそろそろ不幸自慢みたいなことを日本人全体でやめるべきじゃないかと常々感じていることから、こうして記事に書こうと思った次第です。

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