2012年6月29日金曜日

暴れん坊将軍、足利義教について

 暴れん坊将軍とくれば徳川8代将軍の吉宗を誰もが思い浮かべるかと思います。余談ですがドラマの「暴れん坊将軍」では平均して35人が吉宗(松平健)に殴り倒されており、総数では約29000人にも上るそうです。
 そうした豆知識は置いといて、徳川幕府だけでなく足利幕府の将軍にも暴れん坊としか言いようのない将軍が一人おります。その激しい行動の割にあまり知名度がないと思うので、今日はその足利6代将軍の義教について簡単に解説します。

足利義教(Wikipedia)
 
 足利義教は6代将軍ではありますが、系列的には初代尊氏のひ孫で、3代目義満の3男です。6代目にしてはやけに系列が短いような気がしますが実はこれにはわけがあり、足利幕府は初代から3代目義満まではみな成人してから将軍に就任していますが、4代目義持(義満の息子)はわずか9歳、5代義量(義持の息子)も16歳と総じて就任年数が若いのが特徴です。こうした年若い就任は必然的に周囲の有力武士が政権を担ってしまうことになり、この点が足利幕府が終始将軍権力の弱い集合政権で終わってしまった最大の原因でしょう。
 それで足利義教の就任の経緯ですが、5代目義量は父親の義持が存命中に将軍位に就いたのですが、就任からわずか三年後の19歳で早世してしまいます。その後しばらくは義持が将軍につきましたが、この人の何が面倒かというとなんと死の直前まで後継者を一切指名しなかった点です。これには幕臣らも困り、しょうがないから有力血縁者の中からくじ引きで選ぼうということになり、くじの結果で既に出家していた当時34際の義教が6代将軍に選ばれることとなりました(くじ引き自体は八百長で初めから決まっていたという説もあり)。

 そんな偶発的な経緯から就任した義教でしたが、将軍となるや積極的に政治に関与します。それまで不可侵の存在だった社寺勢力等に対しても比叡山延暦寺を取り囲むなどして要求を貫き通したり、義教の将軍就任に異を唱えていた鎌倉公方の足利持氏を攻め滅ぼしたり(永享の乱)と、元坊主とは思えないくらいに果断な行動を取り続けました。
 これ以外にも有力武家の家督継承にもたびたび介入し、いろんな家で自分の意中の人物を当主に据え、逆に反抗しようとした人物に対しては刺客を送って暗殺することもままありました。こうした行動の多くは前向きに見るなら将軍権力の向上を目指してのものと見ることもできますが、私個人としては苛烈な義教の性格から来るものだったと考えています。義教は宮中に対しても強い態度を取り続けたことから当時の公家の日記には「悪御所」とまで評されており、一部は尾ひれがついたものもあるでしょうが「酌の仕方が悪い!(#゚Д゚)ゴルァ!!」と言って侍女の髪を切って無理矢理に尼にしたり、自分に説教しようとした日蓮宗の僧をしゃべれなくするために舌を切ったりと、かなり細々とした内容が残されております。

 厳しい評価をすればこのような苛烈な性格の持ち主が大成した例は少なく、いずれ暗殺か追放されると感じた有力守護の赤松満祐はやられる前にやってやれとばかりに、自宅に招いた義教を暗殺してしまいました(嘉吉の乱)。暗殺後、赤松満祐は幕府から追手が来ると考えて京都の邸宅内にしばらく残っていましたが、義教に権力を集中させ過ぎたせいで当の幕府は混乱し、何の追手も来ないことから義教の首と共に領国に帰ってしまう始末でした。もっともその後に追討軍が差し向けられ、一時的に赤松家は取り潰されることとなりますが。
 義教の政治は確かに一時的ではあるものの足利将軍家の権力向上にはつながりましたが、結果的には義教自身が暗殺されたことによって将軍家の権威はそれ以前より下がることとなりました。同じ強権力志向者でも、まだローマ帝国の背教者ユリアヌスの方がマシだったという気がします。

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