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2019年3月12日火曜日

戦国アルピニスト

佐々成政(Wikipedia)

 佐々成政とは織田家の武将で、信長の親衛隊から出世して本能寺の変の頃には柴田勝家とともに北陸に拠点をおいて対上杉家討伐軍の一翼を担っていました。しかし本能寺の変の後、影響力を拡大する豊臣秀吉との間で対立を深めていき、賤ヶ岳の合戦で同僚の柴田勝家が滅んだ後も抵抗を続けたものの、最終的には秀吉に屈服させられ領地を没収されることとなります。
 その後、秀吉の九州制圧が完了すると肥後(熊本県)の支配を任されることとなりますが、国人勢力の強い肥後とあって一揆が頻発することとなり、最終的には統治不行の門で切腹を申し付けられています。この切腹に関しては秀吉が敢えて支配の難しい肥後に追いやって、意図的に成政を抹殺したとも、成政自身の統治能力欠如による結果とも説が出ています。

 以上のような経歴から割と通好みというか、私の友人を含め彼を気に入っている歴史好きはそこそこいるのですが、そうした見方の他に戦国武将としてではなく登山家、そうアルピニストとして彼を評価する声があることに最近気が付きました。

佐々成政(ニコニコ大百科)

 詳しくは上記リンク先によくまとめられていますが成政がまだ秀吉勢力に抵抗していた頃、同じく抵抗していた徳川家康と織田信雄は小牧・長久手の戦いを経て秀吉と和睦したと知ると、「成政は両者に抗戦を続けるよう説得するために自ら出向いたと言われています。出向いた事自体はあちこちの文献から確認でき、秀吉に対する飽くなき抵抗者としての成政の性格を示すエピソードとして高く評価されているのですが、問題なのはその行程です。
 このときの成政の行程は「さらさら越え」と言われ、越中富山から家康のいる三河遠江(浜松)までを、真冬の日本アルプスを踏破して会いに行ったと言われています。具体的には立山連峰を突破したと言われいますが、ここは登山装備の発達した現代においても難所とされる場所で、安土桃山時代に、真冬のシーズンに、しかも御年49歳と当時として十分高齢な成政が突破できたのかについて疑問が出ているそうです。

 そのような難所を踏み越えてでも秀吉への抗戦を呼びかけたものの、結局家康からは承諾が得られなかったという点でもこのエピソードは悲劇性を高めているのですが、そもそもそれ以前の話というか、もし成政が本当に走破していたとしたら、ビカール・サンもびっくりな登山マイスターであり登山史的にも空前の記録を刻んでいたということになります。それだけに、「成政は本当に冬の立山連峰を突破したのか?」は議論となっており、なんと江戸時代においても加賀藩が「マジかよ?」ってことで五回も調査をやってたそうです。
 現代においてもこの論争は続いており、実際に当時の装備を勘案した上で冬の立山連峰に登った人たちからは「絶対無理」と断言され、恐らくは別ルートを取ったのではという説が現代としては強くなっています。そしてこの別ルートに関しても複数候補があり、また協力者もいたのではと何故か村上義清の息子が出てきたりと、非常に活発に議論されています。

 無論、私としては成政がどのようなルートを辿ったかについて判断する材料はなく、今後もこの議論を見守っていきたいという立場を取りますが、なんていうか夢のある議論であるように感じます。というのも僅かな手がかりから当時の状況、そして現代でも検証可能な地形など、探っていくことに強い価値を感じる議論のようです。
 それにしてもこの話聞いて成政に対しては武将というより登山家のイメージが一気に強くなりました。人間、何がきっかけで評価されるかわかったもんじゃない。

2 件のコメント:

サカタ さんのコメント...

佐々成政は秀吉嫌いで僕も記憶してます。後は鉄砲の用兵が上手いということぐらいかな。

確かによく立山連峰を越えられたなと思いますね。見たことしかないですけど、冬じゃなくてもきついと思います。かなり大きな岩場で、夏でも滑落しやすいのに、冬とか考えられないですね。低山登山しか登ったことない自分が言うのもなんですけどね笑

花園祐 さんのコメント...

 一説では同行したお供の半数が山越えで亡くなったとも言われていますが、むしろ半数で済んだのかよって思う行程です。ザイルパートナーとか組んで登ってたのかとか、携行食は何だったのかとかでいろいろ想像が掻き立てられます( ・∀・)