「何故記者になろうとしたの?」という質問をこれまでに何度も受けてきましたが、私の答えは決まって文章を生業とする職業として適切だったからと濁してきましたが、それは生業上の理由であって、期待のような動機ではありません。ではその動機はなんだったのかというと、死ぬまでに情報の最前線に立って、なるべく真理に近いところで倒れたいというのが齢十五以来一貫していだき続けてきた動機です。
この心理に近い場所に立つ手段が何故学者ではなかったのかは、そもそも学者という職業自体目指して到達するものとは考えず、実業界において実績と経験を積むことで周囲に求められて果たすもの、自分で望んでなろうとするものではないという風に考えていたことが大きいです。もっともそれ以前に、あの権威じみたアカデミックな空気が初めから嫌いだったことのほうが大きいですが。
控えめに言っても、霊能力者やUFO愛好家を除けば、他の人が見えないものを見ようとする意欲、知識欲について自分は明らかに高いと自負しています。その視線の矛先は単体というよりかは群体、システム全体の仕組みや動きに対するものが強く、やはり私自身も大きなひとかたまりのまとまりでもって捉えることを得意としています。
ではそういったものを捉えるのに何が必要か。結論から言えば感覚をとにもかくにも研ぎ澄ませることが一番大事だと思えます。具体的には常に思考を巡らせ、目や耳手を伝わる感覚を解剖して分析し、そうした過程で自分がこれまでに経験していない断片を全神経をもって探すという作業を毎日ずっと繰り返すことに尽きます。また使いすぎて鈍ってきた感覚を取り戻すために、定期的に刺激を与えるというか、日常から離れた体験や芸術的な対象に定期的に触れさせることも重要でしょう。
こうして研ぎ澄ませていった私の感覚ですが、大体二年くらい前からこれ以上研ぎ澄ませては逆に危険ではないかと思うようになっていきました。というのも相手の声色やちょっとした仕草の変化をすぐ感じ取ったり、社会の気づきづらい変化や本人らが自覚していない癖などを自分でも異常なくらいに自然と見抜くことが多くなり、内心もう十分じゃないかと考え、それ以降はあまり自分の成長を望まなくなりました。
その甲斐あってか以前と比べると最近は感覚が鈍っているという自覚もあり、以前より目には見えないものに気づくことが減っています。その一方、自己内の分析というか思考回転数は上がり続けているのか、前より何も考えない時間が減ってきている気がします。ほんのちょっとの瞬間ですら次の記事に書くネタやその分析、直近のスケジュールや予測などを考えだし、本読みながらでも別の内容について分析し続けていることすらあります。
なんとなくインプットが減った分、内部の回転数が逆に上がっているように思え、ちょっとまた感覚を研ぎ澄ませる必要があるのではとまた考え始めています。自分の手垢のついていない知識分野をまたぞろ一気に広げるべきかと悩みどころです。
そうした経験を踏まえて言うと、見えないものを見ようとすることは恐らく大半の人にとっては苦痛にしかならないと思います。逆に苦痛じゃない人は現時点で既に旺盛に知識をため込んでおり、いまさら言うまでもないでしょう。
この辺のメカニズムを軽く述べると、普通人間は自分の考え方や知識を固めていこうと考えるはずです。自分の場合は逆で、自分の考えをどう崩し、壊し、再構築していくかばかり考えています。まだこんなもんじゃない、もっと上があるはずだと考え続けています。
2 件のコメント:
先ほど震度3位の地震があり、飛び起きた勢いでブログ見でます。南海トラフきたかと思った笑。
見えないものを見ようとするという感覚は僕もあります。理系で歴史が好きなのは、狙ってるわけではなく、成り行きではありますが、その感覚でしか見つけられないものもあるだろう思い日夜探しています。
また、自分の限界を決めないというのもわかります。僕は、世の中のことで人間にはまだまだ理解できていないことの方が明らかにたくさんあると思います。例えば物理だとある高さからりんごを落として何秒で地面につくかという問題がありますが、条件が無風で重力加速度が9.8でというのが一般的です。しかし、実際は無風状態なんてまずないし、厳密には重力加速度も9.8ではなく、下に何桁も続く端数でしょうし、高さも同様で更に突き詰めれば、りんごを離す手の動きも関係してくるでしょう。そこで、理論では5秒なのに現実は違うという相違が必ず生まれてくると思います。またこれは、機械設備のメンテをしているとよく思うのですが、ここが普通壊れるはずなのに何故ここが壊れたのだろうと不思議に思うことがよくあります。機械は説計段階で主要部分はわざと弱い部分を作り主軸などが壊れないように力を逃がそうとします。そうした構造であるにも関わらず、主軸が折れたりすることがあります。そこには、計算しきれない振動による負荷や経年劣化による材料の腐食等数えきれない要素が絡んでいると思います。感覚的には理論を理解して、理論という部屋の出口の扉を開くとそこには、更に広い部屋が広がっていたという感覚を覚えます。理論を理解しただけで満足していたら、たどり着けない領域は確かにあり、そこを自分なりに理解するように落とし込むことが保全の醍醐味ではないかなと最近では思っています。
理論と実践はむしろ一致しないのが当たり前で、そしてその一致しない背景には必ずなにか心の通った原因があり、ただその原因は未だ発見されていないだけというのは少なくないですね。そうした日常でも触れられる不思議に対して意識、発見、分析、解明できるかがセンスを問われる部分でしょう。
もっとも、最近流行りの「現場猫」のように、「なんだかわからんがとにかく動くからヨシ!」と言い切って、先に進むのも態度としてはありかなとも思えますが( ・∀・)
コメントを投稿