2008年4月18日金曜日

自身への評価について

 人間、国が違えば色々価値観も変わってきます。たとえば一家心中事件などは日本では同情的に報じられることが多いですが、欧米では狂気の沙汰として精神病に分類されます。これなどは日本と欧米の死生観の違いを表すもので、私もルーマニア人の友人と何度も切腹の価値観について議論を取り交わしました。ルーマニア人の彼から見ると、切腹はどう考えてもおかしい、責任の取り方にも何にもならないと常に言っており、この点に他国との死生観の違いがあることは間違いないでしょう。

 その逆に、国が違っても同じ見方がなされる価値観もあります。その代表的な例はずばり、「謙虚」だと私は思っています。そのルーマニア人から自己主張の激しいアメリカ人も、modify、謙虚の英語訳ですがこれは等しく美徳だと母国で見られていると言い、割とグローバルな価値観だと私は考えています。

 しかしその割に、私自身はというと自他共に認めるくらいに自信過剰な性格をプライベートで振舞っています。なにせ、普通に常日頃から自分より賢いやつはほとんどいないと言う位だし。
 ただ、言い訳をするとそれには理由があり、その理由というのも自身を過小にも過大にも評価してはならないという鉄則を持っているからです。ではなぜそんな妙な価値観を持ったのかというと、これは今まで学んだ歴史の逸話が大きく影響しています。

 歴史上、それこそ運がいいだけで権力者になったのもいれば、逆に力があるにもかかわらずほとんど評価されずに悲劇的な末路を終える人間が数多くいました。しかし中には優秀な能力を持っているにもかかわらず、自ら表舞台へ出ることを拒否し、文字通り隠者として世を去った人間もいました。
 一例を出すと日本では上杉謙信がこの例だといわれ、天下を取る実力があったにもかかわらず自ら領国をすすんで広げようとはしませんでした。また中国史ではハクイ、シュクセイという二人の兄弟が王位をお互いに譲り合い、最終的に両方とも国から出て行ったという話もあります。

 こういった話は単体で見るならばそれこそ謙虚で高潔な話だと感心するのですが、よくよく考えてみると結果的にはその謙虚っぷりに振り回されて、周りが結構不幸な目にあっていることも多いです。また細かいエピソードだと、周りから嘱望されているにもかかわらず権力の座に就かず、結果的に暗君がついてその優秀な人間までも誅殺されて国が滅ぶということまであります。

 このような逸話から私が導き出した教訓は、自らを過大評価するのはもとより、過小評価をすれば自らだけでなく周りまでも不幸にしてしまうということでした。そのため、今の自分は全く不得手な分野は人の意見を出来るだけ聞くようにして、逆に自信を持っている分野では強く前に出て意見をするように心がけています。もちろん、得意な分野ですら上には上がいるものです。もしそのような人間が出てきたら、そこは謙虚にその人の意見に従うようにしています。

 とまぁ、こんな風に考えていたらいつの間にか自信過剰な状態になっていました。しかしそれはそれで、「あいつはでかい口を叩いているが、俺だってあいつには負けない」と周りが思ってくれればそれもありかとも思っています。なぜなら、そうすることによって自分より優秀な人間が前に出てくれて、結果的に全体の幸福に繋がっていくのだと思うからです。逆に、自分と比べて大した能力もないのに自分を引きずり下ろそうという人間には、自分だけでなく周りまでも巻き込んでしまうことから絶対に負けまいと心に誓っています。

 結論を言うと、人間は能力に対して分相応に社会で役目を果たすことが、その人にとっても周りに対しても良い結果を生むのだと思います。私自身は自分を優秀かどうかははっきり言ってわかりません。しかし同じステージで出るところまで出て、はっきり敵わないと思う相手や、自分とそう大して能力に差がないと思う人間と会った時点ですっと引こうと思いますし、私自身そうなること願っています。なぜなら、なんだかんだいって権力や責任を背負い込むのは肩が重そうなので、結局のところ、私も隠者でありたいと思っているからです。

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