今日から満州帝国についての歴史と私見を紹介する連載を始めます。ある程度勉強は終えているのですが、この連載に備えて小林英夫氏の「満州の歴史」(講談社現代新書)を先月に買っていたのですが、まだ他に読む本があったために先にうちの親父に貸したらまだ返してもらえず読むことが出来なかったのが唯一の誤算でした。
それではまず第一回目として、いつ、どのように日本は満州と関わりを持つようになったのかを今回説明します。
まず満州とされる地域ですが、これは現在の中国で言う遼寧、吉林、黒龍江の東北三省を一般的に指しています。何故これらの地域が満州と呼ばれるようになったのかですが、日本が戦国時代だった頃、当時のこの地域ではかつて中国において「金」という帝国を作った女真族が各部族ごとに集住、抗争していたところ、ヌルハチというある部族の長が女真族内で次第に統一をはかり、最終的には一つの軍閥として纏め上げ、その際にそれまで「女真族」としていた民族名を「満州族」という名称に改めたことがきっかけで、そのまま民族名が地域名として定着したのが由来だそうです。
ヌルハチの死後、満州族は混乱の続く中国中心部へと進撃してついには統一を行い、現時点において中国の最後の王朝に当たる「清」を設立することになります。その清の時代も満州地域では漢族の流入が抑えられ、満州族の伝統が守られていたそうなのですが、近代に入るとロシアと国境の接する地帯として紛争が続くようになり戦略上の重要度が時を経るに従い増していきました。
そんな中、明治維新を断行し日の出の勢いで国力を増していた日本は当初は同じアジア国として朝鮮、中国を支援して欧米の列強の進出を防ごうとしていたようですが、福沢諭吉らなどの脱亜論などのようにこの際アジアよりも欧米のように植民地を切り取っていくような政策に変えるべきという国論も強くなっていき、その目標として日本に定められたのも朝鮮と満州でした。
そうして国論が次第に変容する中で朝鮮内の甲午農民戦争をきっかけに日中間で日清戦争が起こり、この段階に至って日本ははっきりと中国に対して侵略を行う立場へと変わり、戦後の講和条約にて台湾をはじめとした領土の領有権を中国に認めさえ、その中に満州地域に含まれる遼東半島も含まれ、この時を以って日本は満州と関わりを持つに至ります。
もっともこの時はその後ドイツ、フランス、ロシアによる三国干渉を受け、遼東半島の日本の領有は当該地域の安全に好ましくないといちゃもんをつけられ中国へ返上することになりましたが、日本には返上を迫る一方で満州内の鉄道敷設権を得るなどどんどんと進出してくるロシアに対して日本は、「俺たちには適当なことを言いやがって!」とばかりに日本は国民感情上でも相当怒り、特に支配権を握りつつあった朝鮮と国境の近いことからも非常に危機感を募らせていくようになりました。
その後この地域の安全を図る策として「満韓交換論」等が練られますが交渉としてはどれも失敗し、最終的には維新後日本において最大の試練となった日露戦争へと突入し、辛くも勝利を得たことによって日本はこの地域へと本格的な進出を行うに至るようになります。
具体的にどの程度進出したかですが、まずロシアが中国より租借していた遼東半島の先端に当たる関東州、そしてこれまたロシアが中国に認めさせて敷設していた東清鉄道こと、後の満州鉄道の経営権と付属地が日本に譲渡されることとなりました。
ちょっとこの辺が自分も今まであまりよくわかっていなかったところなので詳しく解説しますが、この時点で日本は満州の大半の地域を獲得したわけではなく、あくまで満州鉄道とその周辺地域の支配権だけを得たに過ぎませんでした。というのも日露戦争前にロシアは中国より満州内に鉄道を敷設する権利を受けてその鉄道の管理権、及び線路を中心にした幅六十二メートルの付属地の支配権を握っていたので、それがそのまま日本のものとなったわけです。とはいっても当時の物流はすべて鉄道によるものなので、満州における鉄道の経営権を握ることはその地域の経済源をすべて握るといっても過言ではなく、この時に日本が得たものは決して少なくはありませんでした。
そういうわけで、日露戦争後に日本が満州に得た領土は遼東半島の一部と、満州に敷設されている鉄道線路を中心にした幅六十二メートルの付属地でした。その後付属地は日本側によって「関東州」と称され、この地域を防衛、守備するために作られた部隊が「満州駐箚軍」こと、後の「関東軍」となるのです。
2 件のコメント:
いや~、本当に博学でいらっしゃる。
ただただ頭が下がります。
これからも、引き続きガンバって下さい。
お気に召さないかもしれませんが、ご紹介だけさせて頂きます。hosokawa18塩はうまくて・・・というブログも私のよく読む歴史ブログなんです。
ところで、「満州」なんですが本来は満「洲」だそうです。
清も満も洲もサンズイで「水」の関連し、元の「金」国から生まれて火徳の「明」を相克するという、当時の基礎教養の陰陽五行説に則った命名であるそうです。
また、一説ではチベット仏教の影響の強かった漠北で多くの支持を得ていた文殊菩薩信仰に基づくという話もあるようです。
すみません、蛇足でした。
ちょっとこの連載は中途半端なところで終わってしまっちゃってますが、やる気が出たら完結編みたいなのをいつか書きたいものです。ご紹介いただいた歴史ブログも見させてもらいましたが確かに面白く、自分もこれから読んでみますね。
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