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2009年12月13日日曜日

日本のやる気なき大学教育について

 かなり久々に出張所の方でリクエストが来たので、今日は日本の大学教育について私が日々感じている事を書こうと思います。まずはこれまでこの関連で書いた記事を三つほど下記にリンクを貼っときます。改めて読み直すと、我ながらいろいろ書いているもんだ。

日本の大学教育と職業とのつながりについて
大学教育の価値とは、およびその改革法 その一
大学教育の価値とは、およびその改革法 その二

 上記三つの記事でも長々と書いてあるように、前提として私は現在の日本の大学教育は大きく問題を抱えていると感じております。
 具体的にどのような点が問題なのかと言えば、以前の記事でも書いたようにまず学生自身が理系はともかく文系が勉強するために大学に進学するのではなく、学歴を得るために進学してくることです。実際に高校生とかに話を聞いてみるとすでに進学が決まった学部で具体的にどのようなものを勉強したいのかと聞くとなにも答えられず、では大学に何を求めるのかと聞いたら即答で、「遊びたい」と答えられる始末です。

 そりゃ若いんだからいろいろ遊んでいたいという気持ちも理解できなくはないのですが、そのためだけに主に両親に年間百万円前後、下手すりゃそれ以上の額の学費と生活費を払わせて通うというのはもったいない気がします。第一、遊ぶだけなら大学に行かなくとも出来るはずです。こういったことを改めて高校生に突き詰めていくとみんな決まって最後は、「大学にいっとかないと就職できない」とようやく本音を言ってくれます。

 こんな具合で日本の大学生のうち少なく見積もっても過半数は勉強するためではなく、就職に向けた履歴作りを兼ねたモラトリアムのためだけに進学していると私は見ています。もちろん大学で何しようが本人の自由ですが、みんながみんなこんな感じであると真面目に勉強したい学生の方とすると結構居辛いものです。私自身の実体験でもありますが、やはり今の日本の大学は勉強を行う場と言う雰囲気がなく、どことなく力の抜けた空気に満たされていて真面目にやろうとするほどどんどんと脱力していく感覚がありました。
 そんなの気にせず一人でも勉強し続ければいいじゃないかと言われるかもしれませんが、周りで「じゃあ七時に居酒屋の前で集合な!」という声が聞こえてくると、飲み会に参加するほどのお金もなかった頃ゆえに胸にズキンと来て、一人家で参考書を眺めてたりすると寂しさもひとしおです。

 そしてそんな大学の雰囲気を反映するのか、大学の講師陣にも私は熱意を感じられませんでした。それこそ型通りのどうでもいいような話ばかりを授業でされて、ひどいのになると一度も授業時間いっぱいまで授業せずに学期を終えた講師までいました。探せば熱心に教えてくれる講師も確かにいるのですが、一度頭に来てもうすこし刺激になるようなことを教えて欲しいと教授に頼んだ所、授業に期待せずに自分で論文を読むなり勉強しなきゃ駄目だと言われて追い返されたこともあります。言われる事も一理あるのですが、それだと大学で勉強する意味自体がなくなってしまうので私は今に至るまでまだこの教授の意見に納得した事はありません。

 私は昔からこんな具合だったこともあり、ご多分に漏れず大学に入った一年目には見事に五月病にかかってしまいました。最初は友人の方が先だったのですが、親に高い学費を払わせてまで大学に通う理由が見当たらず何度も退学をしようかと考えました。それでも卒業までこぎつけられたのは冬でも半袖を貫き通すような頼もしい友人らと、親身になって中国語やマルクス経済学の成り立ちを教えてくれた恩師らに出会えたが故でした。

 ですので私も同じような悩みを持った学生に会ったら出来る限り力になろうと努めたものの、何人かの後輩の退学意思を覆す事は結局出来ませんでした。特にそのうちの一人はもうそろそろ時効だから書きますけど、ある日突然夜に私の下宿に来てもいいかと連絡があったので家に呼び、夕食を食べながらいろいろ話していた所、やや気分が高揚していたというか調子に乗って、

「言っちゃなんだけど、俺はまともな神経をした学生なら日本の大学をすぐにやめると思うよ。俺は度胸がないからさすがに実行しないけど、はっきり言って勉強するような場じゃない」

 こんな事を私が言うと、そのすぐ後に後輩が、

「すいません。実は僕、今日退学届けを出してきたんです( ´Д⊂」

 なんて言うもんだから、引きとめようがなかったことがありました。この時ほど、「先に言えよ(゚Д゚;)」って思った事は未だにありません。まぁこの後輩とは未だに仲良く、このブログも読んでもらっているのですが。

 まとめになりますが、私は現在の日本の大学は真面目に勉強したがっている学生の知的好奇心を満足させる環境にあるどころか、むしろ空回りさせてしまう環境でしかないと考えております。日本の教育全体にとっても、社会にとっても、そしてなによりも真面目な学生たちにとってこのような環境は望ましくなく、早急に改革しなければならないと考えております。それでもモラトリアムを求める学生が多いと言われるかも知れませんが、教育にしろ法律にしろ、こういうものは下に合わせるのではなく多少振り落としてでも上にあわせなければならないものです。真に真面目な学生に優しい大学であるようにと、願うばかりです。

2 件のコメント:

サカタ さんのコメント...

 もうすぐ大学時代を終えようとしている私ですが、高校時代につらい経験をしている私は大学時代は骨休め的なニュアンスを含んでいました。そして勉強に関しても後悔している部分があったので、大学ではある程度がんばろうと思って入学しました。

 そこで高校時代の傷が癒えていない私は、一年生のころは周りとなるべく距離を取れる位置にいようとして常に一人でいました。しかし、二年生にもなってみると一人でいるのも苦になってきて部活に入ったり同じ学科の友人を作るようにしていました。その流れで同じ大学内では賢い人がいないと思い、花園さんと連絡を取るようになります。そして、三年生の後半から草野球に所属し新しいコミュニケーションを作り、就活をして、四年生から研究室に入り新しいコミュニケーションを作りでいろいろと環境に変化があってよかったかなと思います。そして目的である、高校時代の傷が和らいだような気がしてよかったなと思います。もし、高校時代の精神状態のまま仕事をしていたらかなりきつかったと思います。私事ばかり書きましたが、こんなサンプルもあると言いたかった訳です。
 
 私が思うに大学時代というのは、自分の将来や過去をよく吟味したり、新しいものに興味を覚えたりする場ではないだろうかと考えます。

花園祐 さんのコメント...

 サカタさんの言われることもよくわかります。私の周りでも、大学というのは若者に対して「なにかやれ」と言わず放任することで、敢えて自分で考えるように仕向ける場だという人間も少なくありません。

 ただ放任する事と、勉強することは決して矛盾するわけじゃないと私は思います。私の場合だと一人であれこれ考えるにしても、なにも刺激がない状態より何かしら面白い授業を受けたあとの方が反応が良かった気がします。まぁ人それぞれですが。

 一番いい事は何よりもやっぱりいい人材に巡り合う事に尽き、その上で自分の糧としていくべきなのでしょうね。