このマッドシティではいつもどローカルなことばかり書いていますが、今日はまだ一般受けしそうなスポットを紹介します。
・戸定邸
本日紹介する戸定邸とは松戸駅から徒歩で行ける距離にある武家屋敷の事です。武家屋敷と言ってもただの武家屋敷ではなく、元々は徳川慶喜の実弟で水戸藩最後の藩主となった徳川昭武が使っていた屋敷でした。
まず最初に徳川昭武について軽く紹介すると、徳川斉昭の十八男(多過ぎ)として1853年に生まれた昭武は幕末の動乱のさなか、徳川御三卿の一つである清水家の家督を継ぎ清水家当主となります。清水家は18世紀に継嗣がなく一旦断絶されますが慶喜と昭武の父である斉昭が自分の息子を当主に据えて再興させたものの、片っ端から当主に置かれた斉昭の息子は夭折していき、最終的には十八番目の男児である昭武が襲封することとなったわけです。
昭武が清水家当主となったのは1857年で、その後すぐに兄であり徳川将軍である慶喜の名代としてパリ万博へ訪れるためヨーロッパ歴訪の旅へ出てそのまま現地で留学を開始しました。しかし翌年の1867年には大政奉還、そして戊辰戦争が起こり徳川家が日本の代表政府から引き摺り下ろされたことによって昭武の欧州における立ち位置も不安定となり、結果的には留学を切り上げる形で同年に日本へ帰国します。
日本へ帰国した昭武は水戸藩主であった兄の慶篤が死去したことを受け兄の後を継ぐ形で水戸藩主に就任します。と言ってもその後すぐに版籍奉還、廃藩置県が行われたため東京へ移住し、西南戦争の前あたりには再び欧州へ留学に出て、帰国後の1883年には隠居して翌1884年に松戸市に隠居屋敷を構えそこで長い時間を過ごしました。
この戸定邸というのがまさにこの昭武の隠居屋敷で、聖徳大学、千葉大歯学部のキャンパス近くにある小高い丘の上に構えております。休館日でなければ敷地内の出入りは自由で、保存されている屋敷も入館料を払えば入ることが出来ます。駐車場もあるにはありますが、やけに傾斜が激しく細くうねった登り道を通ることになるので、駅からそんな遠くないので来館される際は電車で来るのがベターです。
中にある歴史観の展示物について少し述べると、屋敷の主であった昭武ゆかりの品々と共に、その兄の慶喜ゆかりの品々も多く、というよりはむしろ慶喜関連の方がメインであるように見えます。割とこの兄弟は仲が良く、二人揃って写真が趣味だったようで撮影された写真も数多く展示されていますがその多くは慶喜の物で、掛け軸に書かれた書もたしか慶喜の物があったような気がします。知名度の点から言って多少はしょうがないと思うものの、もっと昭武もPRしてこうよと少し言いたいです。
私はこの戸定邸にうちの名古屋だけでなく広島にも左遷されたことのある親父と一緒に、中学生くらいの頃に初めて訪れました。こう言ってはなんですがマッドシティ周辺に当たる千葉県北西部は貝塚跡はやたらあっても史跡はそれほど多くなく、その中でもまだ由緒深いと思える史跡であったため最初の訪問時から文化的な匂いを感じることが出来ました。また戸定邸は歴史的な背景と共に、小高い丘の上に狭いながらもよく整えられた庭園も備えてあるため、ちょっと時間が空いた時にふらりと訪れるのになかなか気分がよく、その後も機会があればしょっちゅう親父と共にここへ訪れていました。
ただ文化的に悪くないスポットだと思えるものの知名度は決して高くなく、私の周囲でもここへ訪れたことのある人となるとほぼ全くいませんでした。茶道をしている人なんかはこの戸定邸の中にある屋敷を借りて開かれる茶会などに参加するなどして来る人もいましたが、そうでもない人となると存在すら知らないことも多いです。今でこそ松戸駅前に「戸定邸はこっち!」というような案内板もありますが以前はなく、ちょっと丘を登らなくてはならないのもあって目につきずらいというのもあってこちらもしょうがない気はしますが。
最後にこの記事を書くに当たってネットで調べたところ、昭武の息子の武定が華族に列せられたことにより「松戸徳川家」という分家が生まれ、現在も続いているようです。この武定が戸定邸を市に寄付した張本人なのですが、戦前は海軍の設計畑を歩んで潜水艦の研究において大きな役割を果たすなどなかなか胸を熱くさせる人物です。
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