2016年3月13日日曜日

或る陸軍大将の死(渡辺錠太郎)

 先日上海を訪れてきた後輩が気を利かせて文芸春秋の今年二月号を持ってきてくれました。私は学生時代から文芸春秋を毎月購読しておりましたが一時期姉妹誌で今ノリに乗っている週刊文春が橋下大阪府知事(当時)への極端なネガティブキャンペーンを展開したのに辟易し、ちょうど日本を離れた時期辺りに購読をやめてしまいました。
 しかし当時から大分時間が立っているのと、かつては様々な制限が講じられていた電子書籍の購入もなくなってKindleからも簡単に購入できるようになったこともありそろそろ購読を再開しようかなと思っていた矢先で、中々タイミングのいい入手となりました(これ書きながら四月号をKindleでクリック)。

 その二月号に掲載していた書評にて、「渡辺錠太郎」という人物名が出てきます。この名前を見た時に私は、「この名前は俺は知ってるはずだ。たしか陸軍の軍人で……二二六絡みじゃなかったけ……」と、詳細な事績までは思い出せなかったものの大まかな範囲ではまだ何とか覚えており、果たしてこの記憶の通りに渡辺錠太郎という名前が歴史の教科書に出てくるのは二二六事件で、この事件の最中に射殺された陸軍大将です。

渡辺錠太郎(Wikkipedia)

 渡辺錠太郎は愛知県の出身で、貧乏な家庭であったことから小学校の卒業と共に看護卒(=看護兵)を目指して陸軍に入隊します。これは当時、看護卒から上等看護長にまで出世すると医師開業免許が得られる制度があったためだったそうです。
 陸軍に入隊した渡辺は脇目も振らず勉強を続けており、その高い向学心を認めた上官が陸軍士官学校の受験を勧めたところこれに師団内一位の成績で合格して晴れて陸軍士官となると、続けて陸軍大学校にも進学してなんと首席卒業という、いわゆる「恩師の軍刀組」にまでなってしまいます。さらって語っていますが当時の陸大は東大以上に入学が難しいと言われ、また入学後も全国切ってのエリートたちとしのぎを削らなければならないという環境であったことから如何に渡辺が学力面で優れていたかが推し量れます。
 なお東条英機は切れ者といわれていたことから陸大でも上位の成績と思われがちではあるものの実際はそうでもない成績で、東条の同期で主席だったのは私も大好きな今村均です。

 陸大卒業後の渡辺は順調に出世し、ドイツやオランダでも勤務するなど海外にも通じる幅広い知見を持った優秀な軍人とみられていたそうです。そんな彼が何故二二六事件に巻き込まれたのかというと、直前の人事が原因でした。

 満州事変以後の1930年代前半、陸軍内では荒木貞夫、真崎甚三郎を中心とする皇道派と、永田鉄山と東条英機を中心とする統制派に分かれており熾烈な派閥抗争を繰り広げておりました。
 この皇道派と統制派の抗争については意外とわかりやすい解説が少ないような気がするし知識的なものに餓え始めてきているので今年じっくり腰を据えて取り組もうかとも思っておりますが、作家の佐藤優氏によると「極論すれば世代間抗争だ」とのことです。

 渡辺錠太郎は両派のどちらかに与して行動していたというわけではなかったものの、ヨーロッパ流のリベラル主義的な思想であったことから皇道派が激しく批判していた天皇機関説に対して擁護する姿勢を示しており、そうした渡辺の姿勢は皇道派にとって内心穏やかではないものだったようです。
 両派の抗争は当初は非難合戦だったのが途中から人事(要職獲得)合戦へと発展するなど徐々に熱を帯び、1935年8月に起こった相沢事件によってヤクザ顔負けの取るか取られるかの熱戦へと発展していきます。この相沢事件の名称は私は「永田事件」と言い換えるべきだと考えているのですが、というのもこの事件で皇道派の相沢三郎によって東条を凌ぐ統制派の首魁であった永田鉄山が惨殺され、この永田の死はその後の日中戦争、太平洋戦争にも大きな影響を与えたと多くの歴史家の間で認識が一致しています。なんせ陸大の定期試験前に試験勉強サボって中国語の参考書を優雅に読んでいたというほどの天才だったそうですし(でもって卒業席次は第二位)。

 話しは戻りますがこの相沢事件の契機となったのはまさに渡辺に関する人事でした。1935年7月、皇道派リーダーの真崎甚三郎が陸軍の教育総監を降ろされた後に同職へ就任したのが渡辺錠太郎でした。この更迭劇を含め永田が裏で人事を操っていると考えたために相沢は強行に及んだのですが、渡辺本人の意向はどうあれ両派の抗争が極大化する一手に巻き込まれてしまったのは揺るがない事実でしょうし、この教育総監就任の一点で以って皇道派から深く恨まれる立場になったと推察できます。

 そして翌1936年2月26日。皇道派士官らによる軍事クーデターが引き起こされ多数の政官財の要人が攻撃される中、渡辺の自宅も襲撃されます。
 この襲撃劇に関しては諸説あり、既に他の要人への襲撃が始まっていたにもかかわらず渡辺邸には襲撃情報が伝えられず、それどころか警護の憲兵隊員が襲撃直前に何故か二階に登っており、内通行為があったのではないかという説が出ています。こちらに関しては本論とは関係ないため今回は省略します。

 襲撃は午前六時過ぎのことで、この時渡辺の傍には当時9歳の娘がおりましたが不穏な空気を察した渡辺は咄嗟に娘を近くの物陰に隠すと自らは拳銃を取りだして身構え、襲撃者を待ち構えましたが、外から機関銃で43発もの銃弾を激しく撃ち込まれ抵抗するまもなく殺害されました。この殺害の一部始終はその場にいた9歳の娘がわずか1mという目前で見ていたため、惨劇の状況に関しては比較的詳細な記録が残っております。
 この歴史事実を知った時に私が感じた事というのは、映画や漫画の中の世界ではたまに出てくるもののまさか実際に娘を庇いながらその目の前で殺害された父親がいたのか、事実は小説よりも奇也やという感想でした。しかもその人物はほぼ一方的な恨みを買われて襲撃されており、同時に彼の教育総監就任が永田鉄山の殺害にもつながるだけに私の中の歴史の線がピンと一本通って張りました。

 この事実は文芸春秋二月号における佐藤優氏の「置かれた場所で咲きなさい」という本に対する書評に書かれてありました。この本の著者は渡辺和子氏で、現ノートルダム清心学園の理事長でありあの惨劇の最中にいた9歳の渡辺錠太郎の娘です。佐藤氏曰く、あのような惨劇を見れば世の中を恨むようになったとしてもおかしくないのにキリスト教の信仰に根差した博愛精神がこの本の中で強く語られていると言い、同じ信仰者という贔屓もあるでしょうが絶賛しております。
 生憎まだ渡辺和子氏の本は手に取れていませんが、近いうちに買って読んでみたいと考えております。

 さらっと渡辺錠太郎の歴史的事実だけ書こうとしたら、皇道派と統制派の対立までやけにしつこく書いてしまいました……。こういうあたりが自分の持ち味だとは思うのですが(ーー;)

2 件のコメント:

  1. 渡辺錠太郎はじめて知りました。娘さんの本面白そうですね。

    それから結構前の話なのですが山田風太郎の戦中派不戦日記読みましたが、文章が当時の形式そのままで読むのが難解で半分で止まっています。。。ですが、当時の日本人の心境が鮮明に書いてあり、少し見方が変わった気がします。

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    1.  娘さんの本は数年前に出ており、当時ベストセラーになっていたようなのですが、私も渡辺錠太郎を含め知りませんでした。今度買って読んでみるつもり満々です。
       「戦中は不戦日記」を手に取ってくれたようで、仲間が増えるのですごくうれしいです。でもって、難解で読むのが止まるというお気持ちもすごくよくわかります。自分もあの本は何度も読むのを止めて、全部読み終えるのに数カ月かかりました。
       しかし書かれている通り、戦時中に書かれた日記ということもあって当時の日本人の心境については下手な資料よりずっと価値があることは保証します。社会学の話になりますが、戦時中を体験した人間と言えども後の時代になると心境が変わって当時と言っていることが変わってしまうということはよくあるだけに、戦時中に書かれた内容がそのままであるあの日記は読んでて苦しいですが読む価値があると断言できます。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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