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2015年5月30日土曜日

どうすれば日本は二次大戦に参戦しなかったのか

 先日、大学の先輩からアニメ「シュタインズゲート」を見るようやけに猛プッシュされました。どうもGW中が暇だったのかこのアニメを全部見て気に入ったようだったようで、ひとまず付き合う形で自分はアニメの原作となったゲームからやると言って、日本に一時帰国した際に購入し、つい先ほどエンディングを見ました。
 このゲームはどんな内容かというと端的に言ってアドベンチャーゲームで、基本はシナリオを楽しむだけのゲームです。ではどんなシナリオかというと悲惨な結末を迎える未来を変えるために何度もタイムリープして過去に戻るといういわゆるタイムトラベル物です。話自体はよく出来ていてそこそこ骨のあるシナリオでしたが、敢えて苦言を呈すと主題歌がちょっと悪いなという気がします。

 ここで話は変わりますが、歴史議論において「もし○○だったら」という仮定の話がよく出てきます。小説なんかだと「歴史IF物」としてジャンルも固まっている程ですが、二次大戦に関するものだと「どうすれば日本は米国に勝てたか?」という視点でよく語られることが多いような気がします。
 しかし本当に検討すべきはそこではないのでは、具体的に言えばどうすれば日本はあの無謀な戦争に参戦しなかったという点こそ議論すべきではないかとふと思え、今日は仮に自分がタイムトラベラーとなるのであればどうすれば参戦を回避できたのかという視点でもって、当時の未来改変ポイントを探ってみようと思います。

ポイント1、東条英機がいなかったら
× 東条の代わりはいくらでもいた
 これは断言してもいいですが、開戦時の首相である東条英機は確かに熱心な開戦論者であったものの、彼以外の陸軍幹部らもほぼ全員が同じ思想を持っていました。そのため仮に東条が存在しない、もしくは開戦以前に暗殺されていたとしても、山田風太郎のいうように「東条の代わりはいくらでもいた」というのがオチだったでしょう。
 ただ開戦後であれば、東条がいない、または暗殺されていればもう少し早く終戦できた可能性はあるかと思えます。実際に暗殺しようとした人たちも多かったし。

ポイント2、満州事変が起こらなければ
× 満州事変以前から日米間で中国市場の権益競争は起こっている
 日本が本格的に帝国主義でもって侵略を開始する第一歩となった満州事変ですが、これ自体は関東軍の独断専行による陰謀で、少しテコ入れすれば阻止できた可能性は高いです。しかし仮に満州事変が起こっていなくても日米は日露戦争以降から中国市場の権益を巡って競争しており、遅かれ早かれ何らかの形で衝突が起こったのではないかと私は考えます。これと同様に、盧溝橋事件に伴う日中開戦が無くても同じでしょう。
 もし本気で中国権益において日米の衝突を避けようものなら、日露戦争直後に満鉄経営でハリマンの出資を受け入れることしかなかったかもしれません。っていか、この出資拒否こそが日米戦争の根源たる原因だったと私は思います。

ポイント3、ソ連と開戦していたら
× 漁夫の利を得るタイミングで米国は参戦してくると思える
 日米開戦以前、具体的には独ソ戦開始と共に日本が日ソ中立条約を破ってソ連と開戦していたらという仮定です。仮にこのタイミングで日本がソ連領内に進撃していたらさしものソ連もスターリングランド戦はおろかモスクワまでドイツに占領されていたと断言してもいいでしょう。ただこのような状況になればさすがに米国もドイツを叩かねばと腹をくくる可能性が高く、何らかの口実でもって連合国側として参戦してきたのではと私には思えます。でもってソ連もモスクワを奪われた後も結構しぶとく戦ってきそうですし、大戦の結果も大きく変わらなかったのではと思えます。

ポイント4、軍部の暴走を抑え政党政治が続いていれば
× むしろ政党議員の方が好戦的だった
 はっきり言ってこれは論外もいい所ですが、軍部が台頭せず政党政治が続いていたとしても日米戦は確実に起こっていたでしょう。というのも当時の政党は贈賄が横行するなど激しく腐敗していた上に、下手な軍人よりも外交において好戦的で米国にも勝てると信じ込んでいた議員が多かったと聞きます。結局、手をかけるのが軍人か議員かの違いだけになるでしょう。

ポイント5、日独伊三国軍事同盟を結んでいなければ
△ 断言こそできないものの回避できた可能性がある
 当時の外交で一番致命的だったと言えるのがまさにこの日独伊三国軍事同盟で、ファシズム国家のドイツ、イタリアと結んだことによって英国やフランス、米国との関係を日本は一気に悪化させています。仮にこの同盟が結ばれず米英との関係を多少なりとも維持できていれば国民感情も違ってたでしょうし、場合によっては欧州の大戦勃発を受けて軍需による経済恩恵を日本が得ることも出来たかと思えると、日米戦は回避できたのかもという期待はもてます。
 ただ日本の中国への侵略はこの時既に始まっており、米国にとっては日本のこの行動は許し難い物であったことに間違いありません。そのため回避できたかどうかに関しては半々ではないかというのが私の見方です。

ポイント6、日本がハル・ノートを受諾していれば
〇 開戦する理由が日米間でなくなる
 敢えて象徴的な意味合いを汲んでハル・ノートという言葉を使いましたが、要するに日米交渉が妥結していればという仮定です。通商や中国問題を巡って日米間で協議が持たれ、最終的にこの交渉が決裂というか日本が投げるに至って真珠湾奇襲が行われることとなりますが、仮にこの交渉が妥結していれば日米の通商も復活し、また欧州大戦の特需も受けられて日米開戦は回避できた可能性が高いのではと思います。
 だた妥結した場合、日本は侵略した中国の領土、及び仏領インドシナからすべて撤退せざるを得なかったのは間違いありません。これは当時の日本から見れば大きな損失で、そのような条件を呑んだ場合は書く量の一人や二人は確実に暴動や暗殺によって死ぬこととなったでしょう。しかしそれでも、日米戦によって失われた損失に比べればそれは本当に小さな小さな損失でしかなく、日清戦争後の三国干渉を受け入れる度量があの時の日本にあればとつくづく思えます。

 以上が私が考えられる、主だった未来改変に至る重要なポイントというか歴史の分岐点です。いろいろ意見はあるでしょうが日本がもう少し粘り強く米国と交渉していれば、大局を見て中国から撤退していればあの戦争は起きなかったのではというのが私の見方です。
 ただこれらとは別に、大きな歴史の分岐点がもう一つ存在しています。

ポイントX、ヒトラーがいなければ
◎ 日米戦どころか二次大戦も起こらなかった
 また山田風太郎からの引用ですが、「東条はいなくても戦争は起こったが、ヒトラーがいなければあの大戦は起こらなかった」というのは恐らくどの歴史家の間でも一致する意見ではないかと思います。それほどまでにヒトラー一人の歴史における影響力は桁違いに大きく、彼一人の存在の有無だけで当時いた数千万、下手すれば億単位の人間の生き死にが変わったことでしょう。ヒトラーの代わりはおらず、ヒトラーはヒトラーでしかなれなかったと考えるとまさしく魔人といってもいい人間といえ、あれほどまでに世界史に影響を与えた人物はほかにはチンギス・ハンくらいかもしれません。
 となると私がタイムトラベラーとなる場合、なるべく早い時期にヒトラー暗殺をもくろんで過去へと渡ることになりそうです。なんかターミネーターっぽくなるけど、そもそもドイツ語出来ないから行くの面倒くさいなぁ。

2015年5月29日金曜日

食品ブランドに見るジェンダー

 今日帰宅中に何故か、雪男と雪女はいるのに何で雪オカマはいないんだろう、ジェンダーフリーじゃねぇのかよちくしょうという考えがよぎり、カウンセリングでも受けた方がいいのではと自分で心配になってきました。

 ここで出てきたジェンダーですがつい先ほど友人と話をしていたら食べ物のジェンダーの話になり、具体的に言えばお米のブランド名はどうして女性名が多いのかというの疑問が持ち上がってきました。実際に私が日本でお米を買う際は山形県の「つや姫」、秋田県の「あきたこまち」を選ぶことが多いのですが、どちらも女性を表すブランド名となっております。なお「つや姫」は以前に山形県知事から猛プッシュされてから選ぶようになりました。

ブランド米一覧

 上記リンク先で主要なブランド米の名前が載っていますが、こちらの一覧を見ても「ふさおとめ」、「きぬむすめ」、「ひとめぼれ」など女性をイメージさせるような名前がやはり多いです。もっとも、熊本県の「くまさんの力」、「森のくまさん」など異彩を放つブランド名も散見されますが……。
 業界の慣習なのかどうなのかまではわかりませんが、少なくともこうして眺める限りだとお米のブランド名には女性をイメージさせる名前をつけることが多いようです。しかしここは敢えてジェンダーフリーの精神でもって、どっかしらで男臭さ満点のブランド名をつけるところがあってもいいんじゃないかと思え、ないなら俺たちで考えようと友人としばし提案し合いました。

 まず真っ先に出てきたのは九州産のお米に「九州男児」。九州に関連するものだったら「九州男児」って付けとけば大丈夫だろうという安直さです。同じ九州なら私の生まれ故郷である鹿児島であれば「西郷札」にならって「西郷米」もアリではないかとも思えます。こっちも鹿児島なら西郷さん付けとけばとりあえずOKだろうって感じです。
 歴史人物で名前を付けるとしたら、迫力ある名前としてはお米の産地でもある新潟県出身の山本五十六が使いやすそうに思え、ここからもじるなら「五十六米」というなんか読み間違えそうな感じの配列になってしまうので、そのなんま「五十六」でいいんじゃないかとも思えてきました。この案を提示した所友人からは、「それだとむしろ日本酒の名前になってないか」とツッコまれました。

 この友人のツッコミからさらに発展したのですが、お米とは逆に日本酒には男性をイメージする商品名が付けられることが多いように思えます。いちいち名前までは挙げませんが地名を絡めるパターンが多いのですが「鶴」とか「鷹」って文字が加わる当たり、そこはかとなく男臭い加齢臭を感じる名前です。購買層が男性メインということからこれはこれで自然でしょうが、もうちょっと女の子らしい名前もあっていいように思えます。
 じゃあつけるとしたら何か、有名な女性名をつけるとしたら何かと話しになって真っ先に出てきたのは、「清酒 小保方 アルコール度数30%ありまぁす」だった当たり、あまり真剣ではなかったのでしょう。その延長で友人からは「佐村河内」という名称が挙げられ、ラベルにはもちろん「私が作りました」というメッセージをつけようということで一致しました。

 久々にふざけ切った記事内容ですが、要するに食べ物のブランド名にはそこはかとなくジェンダーイメージが固定されているということが言いたかっただけです。アメリカの台風は女性のヒステリーな性格と絡めて以前は女性名を付けることが慣習でしたが、ジェンダーフリーな世の中なんだし誰も想像できないような斬新なブランド名もあっていいかと思え、こうしたジェンダーの壁を越える思想実験もたまには悪くないと思えました。

2015年5月28日木曜日

千葉のマッドシティ~創学舎

 昨日の記事の流れというべきか、今日は大学受験時に私が通っていた「創学舎」という予備校について紹介します。

創学舎ホームページ

 この創学舎というのは松戸市や柏市などの地域に教室を置く、言ってしまえば地方予備校です。今は恐らく柏教室で行っていると聞きますが、以前は高校生向けの授業は新松戸教室で行われており、私もこの新松戸教室に大学受験時は通っておりました。
 そもそも何故この創学舎に入ったのかというと、高校に進学して親から予備校は入れ、ここなら近くて比較的安いと言われたので言われるがままに入りました。自転車で通える範囲内だったし。

 講義科目は高校生向けに限れば高一と高二は英数の二教科、高三からはこれに現代文、古典、漢文、日本史、物理、化学、小論文が加わってきますが、私の時代もこれと同じでした。私は高一から入学して最初は英数、でもって高三からはたしか国語系科目と日本史、それと小論文を取っていた気がします。
 授業はここもお手製のテキスト、っていうかコピー機で印刷したものを無理やり閉じた手作り感溢れるテキストが使用されてましたが、テキスト内容は今思い返してもよく整理されていた内容で、大学に進学した後も英語なんかは折に触れて読み返したくらいです。また市販されている受験参考書についてもどれを使うべきか講師に相談すると熱心に教えてくれて、その参考書でわからない点があるとこちらもすぐ相談に乗ってくれました。

 私個人の主観で述べると、地方予備校とはいえなかなかしっかりした指導体制で、こと受験に臨むに当たっては信頼が置けるいい予備校だと思います。どの講師も毎年有名大学の受験問題を研究しており、また癖があるというかかなりキャラが濃い面々ですが、一人一人の生徒に対して非常に熱心に受験指導や相談に乗ってくれて、むしろここまで肩入れすると精神的に疲れないのかと逆に心配になるくらいの熱意でした。
 私もご多分に漏れず色々指導してもらい、特に京都の大学に通いたいと相談した所、「お前の場合は確かに一回家を出た方が良いかもな」と背中を押してくれて、決断に当たって大きな要因にもなりました。

 で、そんな創学舎ですが、多分私の本名を言えば何人かの講師は確実に私のことを覚えていることでしょう。別に目立つ気は全くなかったのですが、生来の性分というか何もしなくてもやたら目立つ傾向があり、通っていた頃はこの予備校でもかなり有名人になっていたと思います。
 具体的にどんなことをやらかしていたのかというと、授業中になんかのきっかけでプライベートの趣味はそれぞれなんだという話になり、「小説を書くこと」と自分が話したらじゃあその小説持ってきてと言われ、翌週の授業にでっかいケースの中びっしり原稿用紙積めて持って行ったら、しばらく講師の間で私の小説なりエッセイが回し読みされたそうです。なお読んだ講師の感想はというと、「どことなく坂口安吾のような雰囲気が感じられる」だそうです。多分斜に構えた態度だったからだろうな。

 こうした小説の話だけでなくてもどうも普段の授業態度や行動が目に留まっていたらしく、ある日ある講師から、「ついさっきも職員室でお前のことが話題になっていた」と言われ、どんな内容だったのかと聞いたところ、「あいつは頭がいい、でもノートに何も書かないっていう点で一致した」と言われました。
 これも私の行動の中でかなり顕著な行動で、授業中で教えられた内容はおろか、数学の途中計算式をやたらと省いてノートに書こうとしない所があります。具体的には数学の問題で出された式の後、途中式はなるべく暗算してすぐにイコールで回答を書こうとします。
 このような行動を見られて何度も講師からは途中式を書けと言われましたが、はっきり言ってその度に無視してました。別にその講師が嫌いだったわけじゃないのですが、なんかだらだらと計算式を書くのが面倒くさくて、「結果があってればそれでいい」とばかりに抵抗をし続けました。

 そんでもって極め付けは日本史の授業です。知ってる人には有名ですが私は日本史、というより歴史科目は昔からやたらと強く、小学校からずっと歴史だけは何も勉強しなくてもいつもハイスコアを叩きだしていました。多分日本史、世界史の両方をまとめていいなら、この予備校の中でも通っていた高校の中でも成績は私が一番よかったと思います。
 なもんだから、日本史の授業では実質的に私がペースメーカーとして扱われました。具体的にどんなかというと講師が授業中に誰かを当てて何か質問すると、

講師「○○、この時の人物は誰だ?」
生徒「わかりません」
講師「じゃあ××はどうだ?」
生徒「わかりません」
講師「よし、花園答えてやれ」
花園「□□です」

 という具合に、大体前二人が答えられなかったら私が最後に正しい答えを言って授業は進む形で、一種の進行役みたいな役割を演じてました。なお聞かれた質問には一回も打ち洩らさず、全部正しい答えを言っていたと記憶しています。
 またある日の日本史授業の際にも、一回だけおかしなことを言ったことがあります。

講師「このような過程を経て、アジア初の憲法である大日本帝国憲法が生まれたわけだ」
花園「先生、アジア初の憲法はオスマントルコのミドハト憲法です」

 というように、妙な釘刺しを一回やりました。後で講師も、「今まで日本史の授業を行ってきて一番ビビった」と言っていました。

 こんな具合で、割と好き放題にやらせてもらったこともあってか、まぁ楽しい予備校生活を送らせてもらいました。そういう恩もあってか大学に合格した後は購入した赤本を全て寄贈して、新年度の生徒募集を呼び掛けるチラシにも「お前の文章力が必要だ」と言われてこっちもやる気で宣伝文というか合格体験記を書いてよこしました。

 最後にちょっと本題とは外れるかもしれませんが、この創学舎ではどの講師にもとても親身に接してくれてこちらとしては本当にありがたかったのですが、こちらからしたら大学受験は一回こっきりの経験であっても、講師の側からしたら毎年のイベントで、その度に各年度の生徒たちに親身に接するとなると身が持たないのではないか、燃え尽き症候群にならないのかなと、大学に進学してから思うようになりました。親身に接してくれるのは確かにありがたいですが、生徒の側もそれに甘え続けてはならないのではないか、相談は受けつつも頼り過ぎてはならないという事実に、大学合格後に気が付いたのが私の失敗です。


 上のバナー広告の本は仲の良かった講師が書いた教育理念本です。私も読みましたが興味があればぜひ手に取っていただきたいのと、改めてみると男臭いタイトルだなぁって気がします。

2015年5月27日水曜日

千葉のマッドシティ~青沼英語塾

 地元民以外はすべて切り捨てているこの連載ですが、今日もまたマッドシティの周辺住民なら「ああ、あそこね」とわかるもののそれ以外だとちんぷんかんぷんな所を取り上げようと思います。そんな今日取り上げる場所というのも、松戸伊勢丹近くにある青沼英語塾という私塾です。

入っているビルとその周辺 


アップ写真

 青沼英語塾というのは松戸駅から徒歩数分の距離にある英語科目専門の予備校です。この塾は松戸市とその周辺では非常に有名で、以前見たネットの掲示板だと松戸周辺の現役生は市進予備校とこの青沼英語塾を掛け持ちするのが手っ取り早い受験攻略法だなどとか書かれてもいました。

 具体的にどういう塾かというと、今は増やしているようですが昔は講師が塾長ともう一人の二人だけしかおらず、受け入れる生徒数も定員が決まってて先着順でした。でもって授業はどんなかというとはっきり言えばスパルタ形式で、非常に厳しい言葉でガンガン授業を進めていくようなやり方で、質問に答えられなかった生徒に対しては「なんで答えられない!」と本気で怒鳴ることもありました。
 あと特徴的なのは使用する教材で、どれもこの塾オリジナルの教材が使われているのですがその中でも特に英単語帳は異彩を放っています。詳しくはこのリンク先を見てもらえば早いのですが、書名が何と「Final weapon」という若干中二病めいた名前で、中の内容もゴロ合わせの紹介が多かったりします。今でも覚えているのだと「Merge」の説明で、「合併?マジかよ」というフランクな言葉が確か載っていました。

 ここまで書けば見てわかる通り、ご多分に漏れず私もこの塾に通っていた時期がありました。ここは高校二年生から生徒の募集を行うのですが、英語が苦手だった私を慮ってかうちのお袋が朝一で並んで願書を出して入塾したのですが、私だけでなく同じ高校に通う近所の同級生も数人入塾してました。
 当時、クラスはAクラスとSクラスがあり英語がそんな好きでもないし得意でなかった私はAクラスを希望して入って授業にもそこそこついていけてたのですが、確か6月になって講師の塾長が授業開始と共に現れると、

「大変申し訳ないのですが、私の体調不良により今年度の授業を休講とします」

 という、かなり衝撃的なアナウンスと共に解散させられました。
 なんでも神経症の病気にかかって外に出るのも大変な状態だったそうなのですが、もう一人の講師が受け持つSクラスは通常通りに授業が進行されたのを考えると、クラス選択でミスったのかなと当時は思ったものです。ただ次年度、高校三年時は無条件で入塾できるようにするとも言われ、多少は納得いかないもののその場はそれで済ませました。

 ただ、面倒なことはこれだけではありませんでした。授業が休講となってから約二ヶ月後、確か8月だったと思いますが、青沼英語塾から休講となった代わりに市進予備校で代替の授業を行うという連絡が来ました。その連絡では市進予備校にいる講師に生徒を受け入れてくれるよう話しを済ませており、中断した箇所から英語科目を教えるよう特別クラスを作ってもらったと書いてありました。講師も適任となる人物を選んでいるということで休講中はここに通うようにと言われたので、既にほかの塾にも通っていましたが黙って市進予備校に行くことにしました。
 それで9月から通い始めたのですが、はっきり言って最初の連絡はでたらめもいい所でした。入塾料自体は連絡通りに無料でしたが、肝心の授業は中断した箇所とは全く関係なく、講師も大学生のアルバイト講師でした。別に悪い講師ではなかったものの教えられる内容はほかに通っていた塾で履修した内容がほとんどで、真新しく学ぶ内容はほぼ皆無と言ってもよかったです。そのため真実を知ってか毎週行くたびに授業に来る生徒は減っていき、私も2ヶ月くらい通って学ぶものはないと判断してやめました。

 そして翌年、高校三年となって前年の休講を詫びる手紙と共に入塾の案内が届けられました。内心この時点で結構胡散臭いと思うようにはなっていたものの親が通えと言うのでとりあえず入塾しましたが、私が入ったクラスを受け持つ講師は新しく入ってきた講師でした。
 授業自体は前年受けた塾長の物と比べるとピリピリした空気はなかったものの、何度も書いている通りによそに通っていた塾で履修済みの内容がほとんどだったためあまり学ぶものはありませんでした。そしたら一ヶ月後の確か5月、授業開始時間になったらそれまで受け持っていた講師ではなくいきなり塾長が来て、

「あの講師の授業進行は遅れが目立つのでやめてもらいました」

 と話し、別クラスを受け持っていた講師がこれからこのクラスも受け持つという事だけ伝え、新しい講師にバトンタッチして去っていきました。

 はっきり書きますがこの時点で心底見下げました。病気のため仕方がなかったとはいえ一年間の授業を休講し、通う必要のない予備校へ通わせた挙句に新クラスを受け持つ講師をいきなり引き摺り下ろすなど、なんで自分の通うクラスにばかりトラブルを起こすんだという具合に。
 何度も書きますがほかに通っていた塾の方が履修内容は既に大きく進んでました。しかし青沼英語塾の授業日とその塾の英語科目Sクラスの授業日が重なっていたため、その塾の英語科目で別の授業日にあるAクラスに私は在籍していました。塾内のクラス分けテストでは上位にいたためSクラスに行く資格は得ていたものの、このような理由から下のクラスに居続けなければならないのはおかしいと判断し、やたら引き留める親を説得し(さすがに殴ったりはしなかったが)て青沼英語塾を退塾することとしました。

 その後、私は別の塾、というか塾長とは今でもマブダチ(だとこっちは思っている)なのでもう名前出しちゃいますが「創学舎」で英語はSクラスに移籍し、そのまま大学受験を終えるまでそこに在籍し続けました。創学舎についてはまた今度記事を書きますが、青沼英語塾に関しては少なくとも私はあまりいい思い出がありません。むしろ当時はもっと怒ってもよかったかなと今でも思います。
 ただ通っていた生徒の話を聞くと英語の実力が上がったという人は多いので、通いたい人は通えばいいと思います。通いたければね。

 これで締めると愚痴っぽい内容で終わるので最後に英語教育について少し話すと、日本人が英語を苦手とするのは日本語と英語が明らかに相性が悪いということも大きいですが、それ以上に英語教育自体に問題があると私も感じます。たまに中学生向けのテキストを見るとかえって文法理解で混乱を引き起こしかねない説明の仕方がされているのを散見され、真面目に外務省と文部科学省がタッグを組むなどして英語教育の指針やノウハウを作るべきでしょう。まぁそんなこと言ってる暇あったら、自分ももっと勉強するべきなのでしょうが。

2015年5月25日月曜日

インパール作戦から帰還したプロ野球選手

 先週日本に一時帰国していた際にたまたま「報道ステーション」を見ていたところ、安倍政権への皮肉なのかインパール作戦の特集が組まれていました。これまた偶然ですがちょうどその頃、うちの名古屋に左遷された親父が持ってきた本の中に野戦指揮においては旧日本陸軍最強の呼び声高い宮崎繁三郎の本を読んでいたこともあり、インパール作戦についてネットで再び調べてみました。
 最初に呼んだのはWikipediaの記事だったのですが、その中でこの作戦に従軍していたプロ野球選手がいたと知り、興味を持ったことからそのまま調べてみたところかなり面白い人物だったので今日はこの方を紹介しようと思います。どうでもいいですが「知ってるつもり?!」のようなナレーションの仕方であるものの、そもそもこの番組を覚えている人は今どれくらいいるのやら。

川崎徳次(伝説のプレーヤー)

<来歴>
 川崎徳次は1921年に佐賀県で生まれ、高校を出た後はその野球の才能を高く評価した満州撫順炭鉱から誘われ、この会社が保有する社会人野球チームで投手として選手生活をスタートさせます。このチームで活躍したことから1940年には南海へと移籍してここでも剛速球を武器に活躍しましたが、1943年には陸軍に徴兵され、上述のインパール作戦に従軍する形でビルマに渡ります。

<インパール作戦への従軍>
 インパール作戦についてはほかの記事でも何度も紹介しておりますが、補給を完全に無視した無謀極まりない作戦で、膨大な数の死者が出ていますがその死亡原因の大半は銃弾によるものではなく餓死だったとされ、撤退路には死体が連なり「白骨街道」とも言われたほど悲惨な戦闘でした。この戦闘で部下を最後まで見捨てずに善戦したのが先程の宮崎繁三郎です。
 川崎もこのインパール作戦に従軍していたそうですが、戦地では偶然にも巨人の正捕手をかつて務め現役時代に川崎と交流のあった吉原正喜という人物と再会することとなります。階級が上だった吉原は川崎に食料や薬を優遇するなどしていたそうですが、彼は川崎とは異なり戦死し、遺骨も発見されませんでした。
 激しい戦争を生き抜いて終戦を迎えた川崎は戦後約1年間はビルマの強制収容所で過ごし、1946年に日本へと帰国します。帰国した川崎は当時の巨人の監督から誘いがあったことと、上述の吉原への恩義などから巨人への入団を決意し、プロ野球の現役にも復帰します。

<戦後の現役復帰>
 現役復帰した川崎は戦場でのブランクを感じさせないほどの活躍ぶりを見せ、1948年には最多勝利のタイトルを獲得し、翌1949年の戦後としては初めての巨人優勝にも実質的なエースとして大きく貢献します。巨人で優勝を決めた翌年の1950年にはプロ野球が2リーグに分裂したことを受け西鉄へ移籍し、ここでも名選手として活躍して1953年には5年ぶりの最多勝+最優秀防御率のタイトルを獲得しました。
 当時の川崎のピッチングは球速の速さもさることながら現代においても使い手の少ないナックルボールを使用していたそうです。ナックルを使い始めたのは西鉄に移籍してからだそうですが、それでも仮に戦時中の徴兵が無ければ生涯250勝も達成していたとまで言われています。

 その後、川崎は西鉄でプレイし続けましたが登板機会は徐々に減り、1957年に現役を引退します。引退後は西鉄でコーチや監督を務めたほか、阪神の投手コーチも務めたこともありこの時には当時新人だった江夏豊氏も指導したそうです。
 球界を離れた後は東京でうどん屋、ついで故郷の佐賀県鳥栖市で喫茶店などを経営し、2006年に福岡県内の病院で84歳の人生を終えておられます。

<珍記録満載の野球人生>
 以上の様に川崎は一選手として傑出した活躍ぶりを見せておりますが、彼の本領はそういったこととかではなく、とにもかくにもおかしな記録を数多く残していることです

 もっとも有名なのは1949年4月26日の巨人対大映戦で、この試合は小さい球場でなおかつ風が強かったこともあって両チームでホームランが量産されたのですが、飛び交ったホームラン数は両チーム合計で13本塁打にもなり、得点結果も15対13(巨人勝利)というハイスコアゲームでした。
 この試合で巨人から先発したのはまさにこの川崎なのですが、川崎がこの試合で打たれたホームラン数は8本で、失点数は13失点にも上ります。にもかかわらずなんと川崎はこの試合を最後まで投げ切り完投しており、この時の「13失点完投勝利」という記録は未だ誰にも破られていない日本記録で、恐らく今後も破られることはまずないでしょう。
 しかもこの試合にはもう一つおかしい点があり、というのも投手の川崎が4安打中3本塁打9打点を打ち出しており、自分が打たれた分だけ自分で見事に打ち返すという離れ業も決めております。川崎は元々、投手にしては打撃にも秀でた選手ではありましたが、このシーズンで本塁打を打ったのはこの試合だけで、なんていうか神が乗り移ったかのような記録を残しました。

 このほかにも日本プロ野球史上初の「1球での敗戦投手」にもなったかと思えば、同じく日本プロ野球史上で二番目となる投手によるサヨナラホームスチールも記録しています。なお史上初の投手によるホームスチールは阪神の御園生崇男が1942年に記録していますが、この時にホームスチールを決められた投手は川崎でした

2015年5月24日日曜日

取引先で出されたお茶のマナー

 最近記事に書きたい話が非常に多く溜まっており、ハイペースで書き綴っているものの準備しているネタをなかなか表に出せない状態です。この記事も今日二本目ですが、なんか最近一日二本書くのがやけに多いような。

取引先で出されたお茶、飲んではいけない? ネットで大激論(痛いニュース)

 そんなわけで本題ですが、ちょっと上記リンク先の話が気になったので私も一言書こうと思います。上記リンク先のまとめ掲示板では何が書かれているのかというと、訪問した取引先で出されたお茶を飲むか飲まないか、マナーとしてどうなのかというのが議論となっています。
 結論から言うと、出されたお茶はちゃんと飲むのが当たり前だと思うし、そもそもお茶程度でマナー云々を持ち出す時点でいろいろとどうかと思います。

 そもそもお茶が出されるということはホスト側からのもてなしであって、それをきちんと受け取らないというのはやはり避けるべきでしょう。第一、飲まなかったお茶はどうせそのまま捨てられることになるんだし、それであればちゃんと飲んであげる方が茶葉を作ってくれた農家に対しても礼儀を果たせるってもんでしょう。
 それこそお茶でなく手作り料理だった場合、それに手を付けずに帰るっていうのは逆に失礼なようにもみえます。もっとも、訪問先で手作り料理出されたらちょっと引くけど。

 その上で根本的な話をすると、こんな飲むか飲まないか些細なことでマナーを引っ張り出すなんて、疎外もいい所です。疎外とは簡単に言えば生活を便利にするために人間が作ったシステムがかえって人間の生活を縛って不便にさせるという概念ですが、マナーというのは本来、コミュニケーションを円滑にするために作られたシステムです。しかしこのお茶の議論だと本当に細かいどうでもいいような点で「マナーだからこうしなければならない。逆の行動を取る人間は駄目な人間だ」とすら言わんとする主張は、かえって人の行動を縛り付けなけない言い方で、はっきり一言で言えば聞くだけに不快です。

 なお私は以前いた会社で上司などと食事する際、出された料理は上司を差し置いて真っ先に箸をつけることでちょっと有名でした。「なんでお前そんな急いで食おうとするんだ?」と聞かれたこともありその際には、「単純に腹減っているのと、冷めないうちにすぐ食べることが作ってくれた人への礼儀になると思うからです」と言って不問にされました。
 まだ理解ある上司で助かったのと、自分の敬意の向け先はいつも遠いなって気がします。

取引先で出されたお茶飲んだ結果wwwww(アルファルファモザイク)

 ちょっと本題とは違いますが、たまたま今日上記の記事も見つかったので一応リンク付けときます。上でも書いている通りに出されたお茶は飲むべきだと私は思いますが、職業が忍者、もしくは以前に忍者の修行をした人なら飲まないのもまだ理解できるなと、この記事読んで思いました。

個人への債務責任が極端に重い日本社会

 今日の記事はタイトルどうつけるべきかやや悩みましたが、ちょっと説明臭くなるけどこうせざるを得ないと思ってこういう形になりました。結論から述べますが、日本社会は他国と比較しても極端に個人への債務責任が重いと思え、それが故に本来なくてもいいひずみが社会のあちこちで起こっているのではないかと思います。そしてその原因は現行の民法にあると思え、前からも主張していますが憲法などよりもまずこっちの民法を急ぎ改正するべきがあると考えます。

<連帯保証人制度>
 日本のいびつな債務責任として最も代表的なのは言うまでもないでしょうが連帯保証人制度で、書類一枚で保障相手の債務に対して永久にかつ無限に返済責務を負わせる法律なんて、少なくとも私が知る限りだとほかの国にはないように思えます。実際にこの連帯保証人制度で、真面目に生きてきたにもかかわらず保証相手の不手際からある日突然破産せざるを得なくなる人も少なくないと聞き、言い方は悪いですが不心得者と債権者が不当に得する制度にしか見えません。

<賃貸契約の保証人>
 またこの連帯保証人制度に影響されてなのか、日本では個人で契約を行う際になんでもかんでも保証人を立てなければならない妙な習慣があります。一番代表的なのは住宅の賃貸契約で、基本的には自分以外の親類を保証人として立てなければ部屋一つ借りることもできません。その上で保証人となる人間がいない場合などは保証会社と契約してその分の保証額を家賃に上乗せしなくてはなりません。
 私がこの賃貸補償を疑問に思うようになったのは中国に来てからで、中国の場合は基本的に大家と一対一の契約となり、家賃一ヶ月分の保証金を支払った上で毎月の家賃は前払いが原則です。このやり方であれば支払いが一ヶ月遅延したとしても保証金でカバーできる上、前払いでもあるからとりっぱぐれることもまずありません。そのため日本みたいに保証人を立てる必要もなく、外国人の私でもすんなりと賃貸契約を結ぶことが出来ます。まぁ実際の所、中国人と比べて日本人は部屋をそんなに汚したりしないので大家受けがいいってのもありますが……。

<住宅ローン>
住宅ローンに対する個人的な不満

 以上のような保証人制度と共に日本の制度で腑に落ちないのが住宅ローンの制度です。上記リンク先は以前に私が書いた記事ですが、この記事でも書いてあるように私は日本以外の国に住宅ローンの二重払いが発生するという例は聞いたことがありません。詳しくは元の記事を読んでもらいたいのですが、なんで担保となる住宅を銀行に返したとしても残っているローンは支払い続けなければならないのか、不幸にも天災などで住宅を失った場合も二重ローンに見舞われなければならないのか、不合理もいい所ではないかとつくづく思います。

<有限責任じゃない法人> 
 ある意味今日の本題ですが、日本では自分が作った会社が借金を抱えて倒産した場合、社長である本人が何故か銀行などから借りた会社の借金を返済する義務を負うことになります。もしかしたら、「え、そんなの当たり前じゃない?」と思われるかもしれませんが、そもそも会社こと法人は債務において個人と会社とで責任のラインを切り分けるために存在しており、法人が抱えた借金は法人が抱えるものであって社長個人は本来返済義務を負う必要がないはずです。
 しかし日本では個人の会社が倒産した場合はその会社が抱えていた借金を社長本人が返済するよう迫られ、実際に自宅から何から何まで銀行に差し押さえられるパターンが多いです。それでも返し切れなかった借金は自己破産でもしない限りは延々と付きまとい、再起しようとしても抱えている借金によって身動き取れないなんていうパターンが多いです。

 米国の場合、会社が倒産したとしても会社が抱えた借金は銀行也ファンド也のリスク範囲であって企業家自身に責任が求められることはないと聞きます。そのため会社を潰した元企業家はまた新たなビジネスプランを編み出してそれが評価され資金調達に成功できれば再び会社を立ち上げることが出来るし、またファンドなども一度失敗した経験のある企業家であっても、むしろ失敗を経験しているからこそ評価することもあります。
 それに引き替え日本の社会は企業家は一度失敗したら完膚なきまで叩かれるため、事実上再起は不可能という場合が多く、失敗から立ち上がるというケースはほぼ全く有りません。失敗から学べること、特に経営において多いと思うのに、そうした企業家が再チャレンジできないような制度になっているとしか言わざるを得ません。

<個人の債務責任が極端に重いのでは>
 以上までで様々な例を紹介しましたが、総じて言えば日本において債務に関連する責任が極端なくらい個人に偏っているのではと思えます。それによって誰が得しているかというと債権者こと銀行で、特に住宅ローンに関してはほぼノーリスクで貸した分だけ確実に儲けられる構造となっており、リスクを取らない連中が何故暴利をむさぼるのだと強く不満に感じます。
 また最後の法人関連でも、以前に取り上げたバイオ企業の林原の社長一家は自宅内のありとあらゆるものが銀行によって差し押さえられ持って行かれたと話しており、会社を潰したとはいえ個人の生活まで完膚なきまで破壊する権利が何故銀行にある、そもそも金を貸すと決断したのはお前たち銀行たちだろうと腑に落ちませんし、こんな制度だと日本では企業家がなかなか育たないと断言できます。

 このように日本で個人の債務責任が極端に重いのは間違いなく民法が原因です。更に言えばこうした社会制度に影響されたのか日本では何か問題があると個人に責任を問うという考え方が強く、その一方で社会に責任というか問題があると考える人間が他国に比べて少ないのではとも覚えます。
 というのもこれは友人らから聞いた話ですが、日本よりも何倍も若年失業率が高い欧米諸国では職のない若者は昼間からプラプラ外に出て、公園で楽しくランチなどを取ることも多いそうです。なぜなら彼らは自分たちが失業しているのは自分たちに責任があるのではなく、経済をきちんと回せない社会に問題があると考えるため、日本みたいに失業しているからと落ち込んで家に引きこもったりすることがないそうです。

 個人の責任というとイラク人質事件時に言われた「自己責任」という言葉が有名ですが、あの事件に関しては私もいろいろ思うところがありますがそれはこの際置いて話すと、やはり現代日本は本来個人が抱えなくてもいい、社会が受け持つべき責任までも個人が背負わされているように思えてなりません。だからこそ自殺も多いのではないかと思えるし、行政も怠慢こかすし、不心得者が得するし、これのせいで悪い方向に行ってしまっている点が多々あるのではないかと思えます。
 ではどうするべきか。やはり何よりもまずやるべきことは民法を早急に改正し、その上で銀行をはじめとした金融業界で規制緩和をすべきでしょう。少なくとも今の日本の銀行は守るに値せず、外資に負けるくらいならむしろ外資に来てもらった方が日本人の生活や社会にはプラスになるのではないかとすら覚えるというのが、今日の私の意見です。

2015年5月23日土曜日

作品に宿る「負のオーラ」


 上記の画像はまたネットで拾ってきた画像ですが、これ見てグラフィッカーさんも大変なんだなぁとしみじみ感じると同時に、やや不遜ですが「俺と同じだ!」と思いました。結論から述べますが、絵画や文章などといった芸術によって自己表現を行う場合、フラストレーションがたまっている状態であるほどいい作品が生まれやすいです。少なくとも自分の場合には。

 このブログの記事なんかその辺が素直に出ていて、人知れずプライベートで腹立つことがあった直後に書いた記事はあとから自分が読んでもよく書けてると思うし、閲覧数もほかの記事より伸びる傾向があります。そう言った記事は主に社会批判系が多いのですが、法律の問題点などやはり見ていてイライラする内容ほど書いてるこっちもやる気が湧くというかモチベーションも違い、何が問題なのか、誰が被害者なのか、対策はあるのかなどについてこうした記事では我ながらまずまずの形でまとめられているように思えます。
 では何故、フラストレーションが溜まっている状態だといい作品が書けるのか。いくつか理由はありますが自己表現という行為であるだけに、ムカついた思いをぶちまけたいという欲求は表現する上で単純にプラスでしょう。ただそのムカついた思いこと上記画像の中にある「どす黒くてドロドロしたなにか」をそのままの形で出してしまうと仕上がりが悪くなる傾向があり、多分このブログの読者ならわかるでしょうが私もそういう失敗記事を何本も出してしまっています。やはりいったん「悟り」を経ないといい記事には昇華できません。

 こうした「ぶちまけたい思い」に加えもう一つ理由を挙げると、これはフラストレーションというよりかはストレスというべきでしょうが、適度なストレスはかえって心身のバランスを取る上でプラスだとも私は考えています。もちろん過度なストレスは体に悪いですが、多少の緊張感を持たせるようなストレスは生物としての身体能力を高めるという結果が数多くの実験で出ており、自分の知っている実験だと天敵となる魚と捕食される魚をガラスの水槽に入れ、その水槽を隣り合わせでくっつけたまま放ってみると捕食される魚は平均寿命の数倍長く生き続けたというデータがあります。
 これまた上記の画像から引用すると、「締切」、「理不尽な修正」、「アホな営業」、「睡眠不足」、「安月給」という要素はどれもストレスの元で通常の価値観なら存在しないに越したことがない要素でしょうが、こと自己表現するに当たっては作品の質を高める要素になっていると思える節があります。

 こうしたことは私自身も体験があるというか、小説を集中的に書く時間がほしいから高校二年時に入っていた運動部をやめたところ、何故か入っていた高校一年時より原稿の執筆量が減ってしまったということがありました。また新聞記者時代も、「なんで俺、三ヶ国語をフルに駆使して働いてんのに年収200万円切ってるんだ?」という深く考えてはいけないような疑問を感じつつも、この時期は自分の能力の高まりを確実に感じられたし、また体力的にもハードな面であってもそれほど苦には感じませんでした。
 またこれは漫画家の例になりますが、デビュー作は高い評価を受けたにもかかわらず、ある程度収入が入ってアシスタントも満足に揃えて始めてみた二作目は全く評価されずに打ち切られる作家もおり、仕事環境的には以前より確実に改善されているにも関わらず作品の質が落ちるなんていうことがままあるように見えます。でもって打ち切りが決まってから急激に面白くなり始めるパターンもあったりと。

 以上の様にこと自己表現に当たっては、人気漫画「ジョジョの奇妙な冒険」にでてくるジョニィ・ジョースターの言を借りるとすれば「餓えなきゃ勝てない」というのが真実であると私は思います。もちろん天才なり凄い人は何不自由ないストレスフリーな環境でもすごい作品を作り出してきますが、やはりいい作品を生むに当たっては何かしらの不自由なりストレスの種は強い追い風になると考えられます。
 こうしたことを「ハングリー精神」と呼ぶ人もいますが、私はどっちかっていうとこの表現だとしっくりこず、負の感情が昇華され作品に帯びるという意味合いで「負のオーラ」という言葉でもって普段表現しております。そんでもって背水の陣じゃないですけど「逆境は人を強くする」という妙な信条を持ち合わせていることから私の座右の銘は高校時代からずっと「死地に生あり」で、多分これが私の極端に特徴的な自己破滅型の性格を成す要因になっているとも分析しています。

 まとめになりますが自己表現をするに当たっては怨み、つらみ、嫉妬、焦り、嘆きといった負の感情は大きなプラスになることがあり、表現者はいい作品を作るに当たって多少なりとも逆境といえるような環境に身を置くことも一つの手段です。そうすることによって一種悲壮感めいた「負のオーラ」が作品に宿るので、死なない程度に苦しむことも捨てたものではありません。
 と言いつつ、自分の人生の波乱万丈ぶりにはいい加減辟易してきましたが……。

突然の依頼

 今週木曜の夜、久々に昆山の潜伏地に戻った夜、ブログの更新もサボっていたので軽いネタを仕上げてこの前買ってきた「シュタインズゲート」というゲームで遊んでいようと思っていたところ、私の携帯が突然鳴り出しました。表示を見ると中国版LINEこと微信に着信が入っており、以前に日本のヤクザ記事を取り挙げた際に日本のヤクザ事情について教えてほしいと連絡を取ってきた中国の記者からでした。連絡の内容はというと彼の知り合いが私に日本社会について聞きたいことがあるとのことなので、「おう、なんでも聞いてくれや( ゚д゚)ウム」と返信した所、グループチャットでその依頼者から下記のような申し出を受けました。

「日本社会のあるテーマについて記事を書いてもらいたい。要点を送るから900字程度、中国語で

 向こうは私が以前に記者をしていたことを知っているのでそれでこういう申し出をしてきたのだと思いますが、いくら記者をしていると言っても中国語で記事を書いたことは今までありませんでした。しかしその辺は私というべきか、「面白いきっかけだ」と思い、これを二つ返事でなんと引き受けてしまいました。でもって締め切りを確認した所、

「じゃあ原稿は今度の土日辺りに出せばいいかな?」
「いや、出稿が土曜の朝だから金曜の夜までにお願い」

 金曜の夜って、実質1日だけじゃんΣ(゚д゚;)
 ちょっとこの辺で一瞬断ろうかとも思いました。というのも、金曜の夜は飲み会の予定が入っていてとても記事なんか書ける日程じゃなかったからです。しかし、その辺はやっぱ私というべきか、

「金曜の夜は予定があって書けない。なら、今日(木曜)の夜にこれから書いてすぐ送る」

 というわけで依頼を受けてから即、私にとって人生初めての中国語記事の執筆に入りました。最も今回の依頼のテーマは運転マナーで、日中両社会の違いを私の視点で自由に書いてもいいというコラム的な記事なので余計な取材とかは必要なく、まだ書きやすいテーマでした。
 なもんだからまず記事に盛り込む内容というかトピックを列記し、その後で記事の構成をさらさらと立て、最初に日本語で記事全文を書き上げました。書き上げた日本語文は1350字程度でしたが、中国語にすると同じ内容でも文字数は少なくなる傾向があるので、900字くらいに納めるとしたらこんなもんだろうと考えてこの文字数に仕上げています。

 準備万端整えて中国語の記事執筆に入りましたが、中国語でメールを打つのなんかはもうほとんど苦もないのですが、やはりこういう文章は経験が浅くてそこそこ苦労しました。その結果、日本語文章が出来るまでは1時間かかったのに対し、中国語で記事を書き上げるのには2時間、計3時間をかけて依頼の記事を完成させました。もっとも書き上げた翌日に見直すと、「需要」って単語の所は「必須」にすべきだったとか、もっと禁止を表す「別」って単語を有効に使えばよかったなどと反省の残る内容でしたが。
 文字数は900字をややオーバーした1000字強でしたが、書き上げた原稿を依頼人に送った所、「こんなに早く仕上げてくれてありがとう」とお礼を言われ、添削を受けた後に使ってもらえるようです。報酬は最初拒否しましたが、自分の労働に対する正当な対価だとして説得されたので受け取ることにしました。

 今回の経験は自分にとってなかなか興味深く、中国語で記事を書いてみて気が付くところも非常に多かったです。やはり言語は話す、聞く、読む、書くの四要素だと思え、ややリーディングに特化している私からすればこうした経験は必要とされるものかもしれません。
 それともう一つ、今回は依頼から依頼完了までわずか4時間程度で終わりましたが、こういうところを見るにつけやっぱ中国はスピーディーだなぁとつくづく思います。多分日本だったら原稿料をどうするかとかで下手したら一週間くらいかかるだろうけど、私が自己の収益拡大に異常なくらい無頓着な所もありますが話しが早くてやりやすいと感じます。依頼人からは「また今度もよろしく(^ω^)」と言われたけど、第二弾もあるのかな?

2015年5月19日火曜日

維新の党の今後

 今日はやることなかったのとちょいちょい疲労がたまってたのでマッドシティの潜伏地内で相撲見ていましたが、グルジア人の臥牙丸が日馬富士を倒した後の殊勲インタビューで物凄くうれしそうに、インタビューアーの質問を受けることなくその喜びを流暢な日本語でしゃべり続けてたのですが、見ていてこっちもうれしくなってきそうな位の話しぶりでした。

 そういうわけで本題に入りますが、このところ意識的に時事ネタを増やしている関係から今日は維新の党の今後についてです。先日の大阪都構想を問う住民投票の結果を受けて橋下大阪市長は次回の任期切れを以って政界を引退する旨を発表し、また江田憲司氏(名前で検索かけたら「江田憲司 かつら」って検索候補が出てきた)も党代表職を辞任すると併せて発表しました。
 維新の党の二枚看板が同時にその職を退くという発表を受け、同党では緊急に対応する形で松野頼久幹事長が江田氏に代わって党代表に就任することを発表しています。ただ名実ともに維新の党の顔ともいえるこの二人が去るとなると影響力の低下は必至で、私の予想を述べるならそう遠くないうちにほかの政党と合併するなどして維新の党は消滅することになるでしょう。

 そもそも維新の党自体が橋下市長のワンマン政党といってもよく、橋下市長がいなくなるならその存在意義から何から何まですべて喪失してしまうことになります。というのもこの政党は橋下市長以外に政策を作る人間がおらず、また現時点においても掲げている政策分野は地方再生と憲法改正だけしかなく、外交から経済対策、労働問題などにおいては門外漢もいい所で、柱の一つである地方再生においては今回の住民投票を受けて交替するとなると事実上憲法改正しか主張が出来なくなってしまうわけです。もっともそっちの方も聞いててピンとくるような主張は何もないけど。

 となるとこの後はひたすらフェードアウトしていくよりほかなく、同じくフェードアウト気味の他の政党と合併して消えてなくなるのが関の山でしょう。いつくらいにそうなるかという時期に関しては橋下市長が完全に政界引退した後、といいたいですが、本人が早くにやる気なくしてたら下手すりゃ来年くらいにはもうなくなっているかもしれません。
 ただなくなると言ってもほかの野党も現在フェードアウトが進行中で、場合によっては自民党と反自民党勢力だけの妙な形の二大政党制が実現するかもしれません。そうなったとしても今後10年くらいは自民党優位の状況は揺るがないかもしれませんが。

 何故そう思うのかというと、どの野党もまともな政策が作れる人材が泣きたいくらいにいないからです。自民党の議員が優秀だとは言うつもりはありませんがほかの野党の議員は一体何なんだよといいたいくらいにひどい人材ばかりで、特に維新の党に至っては橋下市長の勝ち馬に乗ろうってだけの問題ある人物が多く、上西議員を始めとして「絶対政治家にしちゃいけない人間」をわざと選んでいるのかといいたくなるほどのひどい状態です。

 そう考えると案外、従来とは異なる組織や団体から新たな野党勢力が今後生まれてくる方がマシかとも思えてきます。もっともそんなのなかなか生まれないだろうし、自分もなんかいろいろこうやって書くことにも限界を感じてきてますが。

2015年5月18日月曜日

これからのシャープはどうなるのか

「資本金がシャープでしょ」

 上記の言葉は資本金額を一億円にまで減資するとシャープが発表した直後にネットで書かれた一言ですが、個人的にツボにはまったのと同時に今は何をしてもシャープは皮肉られるものかと当時思いました。
 この資本金を減資して負債返済に回す案など、シャープは先日支援を行う銀行団と共に中期再建計画を発表しました。しかしこの再建計画に対する市場の反応はというと 芳しいものではなく、計画発表直後は不正経理が発覚した東芝(何気にこっちの方が闇が深い)と仲良くダブルストップ安を決め、シャープに至ってはここ数日も株価が下落し続けるなどなかなか底が見えない状況となっております。

 こうした経緯も相まってかこのところ誰かと会うと「これからシャープはどうなるんだろうね」という話題を話す機会が多く、先日もリアルマッドシティ市民の友人、そして左遷先の名古屋での生活がオーバー10年の親父とともに「レッドロブスター新松戸店」でタラバガニを食ってた際もこの話題が盛り上がりました。なおこの時の食事代は全部親父の負担です。
 そこで今日はこの時に話したシャープの今後の予想について書こうと思うのですが、結論から述べると、あくまで私の目から見た予想ですが現時点で既に身売りこと会社ごと売却されることを前提にして物事を進めているのではないかという疑念があります。それを主導しているのは誰か、どこがシャープを買うのか、これが真に大きな論点でしょう。

 私が何故このように思うのかというと、シャープと銀行団が発表した再建計画の中身に実効性があるとは全く感じられないからです。最初に断っておくと別に私は経済アナリストでもなければ電機産業に詳しい専門家でもないただの元経済ライターでしかありませんが、そんな拙い私の目から見て再建計画におけるシャープの太陽電池事業の扱いはやや目を疑いました。
 再建計画の中では太陽電池事業を将来の成長部門として今後も強化していく方針が謳われていましたが、太陽電池は現在世界中で大不況もいいところで、中国最大手だったサンテックパワーが破綻したことといい今後も需要が伸びるかどうかといったら正直言って非常に怪しい分野です。私はシャープが経営再建を手掛けると聞いて真っ先にこの太陽電池部門が切り離されるだろうと予想していたのですが実際はむしろ逆で、再建の柱とするなどと聞いてなんだそれはと正直思いました。

 太陽電池部門と同じく再建の柱として強化が掲げられたのはシャープの顔とも言うべき液晶部門です。はっきり言えばこの液晶も再建どころかとっとと切り離した方が良いとは思うものの、シャープのお家芸ともいうべき部門であることからここはまだ太陽電池と比べれば多少はしょうがないかという気はします。
 しかし以前にも記事を書きましたが既に競合先となるジャパンディスプレイが従来型と比べて極端に消費電力を減らした液晶パネルの量産を準備していると発表しているだけに、シャープの液晶部門が今後収益構造を改善できるかといったら果たして疑問です。あまり書いているメディアはありませんが、既に中国の家電量販店へ行くとシャープ製のテレビと、スカイワースなど中国ローカルメーカー製のテレビには価格に差が全くなく、サイズ別による価格差しかありません。

 ではどうすればシャープは再建できるのか。もはや再建とは呼べないかもしれませんが私は太陽電池や液晶といった部門は丸ごと他社に売却して、まだ収益を稼いでいる複合機部門などを残してシャープの看板を守るしかないと考えていました。ただ再建計画ではリストラ策は盛り込まれたもののこうした不採算部門の切り離しは明言されず、むしろやる価値あるのかと疑問に思う資本金を1億円とする減資が大々的に発表されましたがこっちは政府から突っ込まれると5億円に金額を変更するなど一貫した態度もみられません。

 こうした点を見るにつけ、もしかしたら銀行団はシャープを別の企業に売却することを前提でこういったわけのわからない再建策を作ってきているのでは、そのような疑いが私の中でもたげてきました。特に減資とそれに伴う負債の償却などは売り飛ばす前の露払いにしか見えず、太陽電池部門を切り離さないのも何らかの思惑があっての様に見えます。
 ただ売却すると言っても、有名なコピペが作られている程シャープは国内の同業他社とは明らかに関係が悪く、三洋電機の様にパナソニックなど国内企業が買収に名乗り出る可能性は少ないでしょう。買収するほど魅力的な技術や部門もあるか怪しいし。
 となると可能性があるとすれば外資系企業で、最有力候補はやはりフォックスコンことホンハイ精密です。彼らは既にシャープの堺工場で業務提携しており、シャープのブランドも彼らからすればまだ利用価値があるでしょう。ホンハイ以外となると同じく中国系企業が候補で、携帯電話の小米精密はないと思うけど美的、ギャランツ、ファーウェイ辺りは資金力に物言わせて買いそうな気がします。

  最後に、もし日系企業でシャープを買うとしたらと考えた際に唯一出てきた候補を挙げると、ズバリ日本電産です。元々意欲的に買収を繰り返す会社ですしシャープと同じく関西圏にあるので、もし日系の中でシャープを買収するとなるとこの会社はやりかねないのではと思います。もっとも、仮にそうなったらシャープの社員はきついだろうなって気がするけど。

大阪都構想の住民投票結果について

 本日はどのニュースも一色といっていいほど大阪府で行われた大阪都構想の賛否を問う住民投票の結果をどこも報じており、相も変わらず日系メディアは同じ内容を各社で垂れ流すんだとやや呆れながら見ています。

 そんな長く書く話題でもないのでちゃっちゃと内容をまとめると、まず今回の結果は反対派が賛成派を僅差で上回る結果に落ち着きましたがこの点に関しては各メディアの事前予測とほぼ一致しており、きちんと予測を的中させたメディア各社はもっと褒められてもよいでしょう。ただ予測と結果が一致したということは言い換えるなら選挙戦中盤から後半にかけて有権者の意思にほとんど変化が起きなかったとともいえます。

 次にこの大阪都構想を主導した橋下大阪市長についてですが、かねてからの宣言通りに次回の任期満了に伴って政界を引退する旨を明らかにしています。私としては今回の投票では反対派が上回ると見ており橋下市長の動向だけがどうなのかと気になっていたのですが、この辺は筋を通したというか、このまま政界に居残ってもあまり益がないというのも見えているだけに悪うない選択じゃないのかと個人的に考えています。

 最後に世の中のこの投票結果に対する報道を含めた受け止め方ですが、はっきり言って強い違和感を覚えます。たまたま自分が見たニュースやネットの掲示板がそうだっただけかもしれませんが、どこも有権者のどの層、どの地域で賛成・反対が多かったのか、高年齢層で反対が多かったのかなど世代間闘争を煽るようなしょうもない内容ばかりで、肝心の大阪都構想の中身については全く触れていないというか議論が起こってないからです。
  大阪都構想については以前に私も記事にまとめていますが、結論から言えば実行した所で大阪市の財政は改善するどころかむしろ支出が増える可能性が高いだろうと見ています。本来ならばこの点、大阪都構想のメリットデメリット、予想が正しいのかどうか政策の中身が議論されなければならないのに、選挙中はもとより選挙後に至ってもその内容の検証が全く行われないというのはなんやねんと違和感を覚える限りです。イメージだけでこの投票は争われたのか、誰もこの点を突いていないのがおかしいでしょう。

 確かにこの投票ではイメージ先行で具体的な政策中身については各政党もあまり話題にしてこなかったというのは間違いありません。特に旗振り役の維新の党でこれが顕著で、なんでかっていうと細かく検証するとあまり目に見えたメリットが出てこないということが有権者にわかってしまうと本人らも自覚していたのではと思える節があります。
 ただイメージ先行とはいえ、ちゃんと中身を比較しながら投票に行った有権者も少なくなかったのではないかとも思えます。何故かというと逆説的ですが投票の理由について、大阪都構想の中身がよく理解できなかったと話しており、自分なりに比較した私もそう答えるのが自然だと思えるほど中身のない構想だからです。

 では中身がないのに何故維新の党は大阪都構想を推し進めたのか?誰も言わない意見ですが私個人の推論で述べると、大阪市を大阪都に変えたという実績を作った上で橋下市長は国政選挙に出て、政界でのし上がるという野心を描いていたのではないかと思います。本人も多少なりともこの政策実現によってメリットが得られると考えていたことは間違いないでしょうが、それ以上に野心による動機がこの政策を推し進める理由の中心だったのではないかと見ていて感じます。
 それだけに、そうした野心が案外透けてみていたからこんな結果になった、そう私に思わせる結果でした。

2015年5月17日日曜日

ホテルレビュー:上海楽途静安国際青年旅舎

一昨日、日本へ一時帰国する飛行機が上海から出る関係から上海に前泊した際、個人的になかなか楽しめるホテルに泊まったので今日はそのホテルを紹介します。

上海楽途静安国際青年旅舎

  その日私が泊まったホテルは「上海楽途静安国際青年旅舎(Le Tour Hostelling International)」という名前で、名前の見た感じ同様にユースホステルのような形式のホテルでした。
 

 ホテルがあるのは上海市のオフィス街ともいえる「静安時」という地下鉄駅から北に歩いて15分程度のところですが、ちょうどこの辺りは非常に道路が入り組んでいる所でもあるので初めてくる場合にはご注意ください。
 道路が入り組んでいるってだけあって、ホテル前の道も結構不思議な所にあります。上記の写真がそれですが見る人によってはスラム街っぽい印象を覚えるかもしれませんが、このように照明が少ない細い道路は上海であっても珍しくありません。にしてもいい感じにゴミ清掃のおじさんが写ってくれた。


 そんなびっくりどっきりな道(しかもかなり雨降ってた)を経て辿り着いたホテルロビーが上の写真です。道は暗かったけどホテル内は明るく、誰も写っていませんが時間帯によっては欧米系の外国人がロビー前で数多く集まって談笑するなどインターナショナルな雰囲気がいい感じに出ていました。またフロントも英語には堪能で、パスポート(中国のホテルでは宿泊するのに身分証が必要)から自分の国籍が日本だとわかるときれいな発音の英語で対応してくれた。
 ぶっちゃけ中国語の方がこっちは助かるんだけど。
 

 チェックインを終えて3階の部屋が宛がわれたので廊下に出ると、結構シックな雰囲気の廊下が出てきます。壁には一面落書きがされており、また洗濯物を受け付けるコーナーもあったりと無国籍な臭いで満点です。

  
 壁の落書きはこんな感じ。基本英語。


 この落書きにピンときたらまどか☆マギカ。ってか誰描いたんだこれ?



 部屋番号が書かれた張り紙。ほかにも食堂前には朝食メニューと料金が英語、中国語が併記された張り紙もありました。紙質は敢えてこういうのを選んだのかな。
 

 部屋へと至る廊下。見ようによっては収容所っぽい。


 廊下の奥には何故かこのポスター。魔女、好きなのかな。


 上の写真が一人部屋の写真です。このホテルでは一人部屋のほか3人部屋もあり、長期滞在も可能なシステムとなっております。一人部屋は見ての通りにベッドとテレビ、あとテレビの奥に机があるだけで、写真で見切れている左側にはホテルとシャワーがあります。


 これがそのトイレとシャワー。はっきり言えばかなり貧相な設備で、アメニティもシャンプーとボディーソープ、タオルは置いてますが、歯ブラシや櫛は置いて無く、あとティーパックと飲料水のペットボトルもありませんでした。ただ床のタイルは割ときれいだった。



 こちらが部屋の奥にある机。椅子に至ってはパイプ椅子。テーブルの上のサンドイッチは自分が外で買ってきた翌日用の朝食で、12元(約240円)でした。



 最後の写真がこれで、これは一階ロビー奥にある多目的室です。見ての通りに卓球台もあれば自転車置き場もあり、如何にもバックパッカー向けな施設であることがわかります。

 今回泊まったこのホテルの宿泊料は340元(約6800円)で、ビジネスホテルチェーンの宿泊料が通常200元(4000円)強であることを考えるとやや割高です。しかもアメニティを始め施設は決してレベルが高いとは言えないのですが、私個人の感想を述べると雰囲気がたまらなくよかったので比較的満足しました。
 何度も言いますが施設は建物ごとやや古びていて設備も決して優れてはいません。しかしその古びた感じに無国籍でバックパッカー的な雰囲気が非常にフィットしていて、泊まった感じとしては気分は悪くありませんでした。教訓めいた言い方をするならば設備が古いから新しくするのではなくそのシックさに合わせて雰囲気を作ることでこういうホテルも作れるのかとなかなか感心させられました。

 ただ個人で泊まるならともかく、家族で泊まるとなると部屋も狭そうだしはっきり言ってお勧めできません。 やっぱりバックパッカー的な出会いを求めてくるか、もしくは複数人で泊まるかとして使うべきで、興味のある方は一回行ってみることをお勧めします。

2015年5月16日土曜日

特殊清掃業の耳を傾きたい仕事内容

 何人かにはアナウンスしてますが明日免許の更新のため日本に一時帰国するので、今日は明日のフライトに備えて上海のホテルに宿泊してます。なんか展示会でもあるのか今日はどのホテルも満杯だったため空港からやや離れたホテルを予約することになりましたが、なかなか面白いホテルで当たりだったので近く紹介しようと思います。

パワハラとか殴る蹴るは当たり前ですとか書いてる会社見つけたのだがwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww(アルファルファモザイク)

 そういうわけで本題に入りますが、ホテルの回線でネットを閲覧していたら上記の掲示板まとめ記事が目に入りました。「またブラック企業のブラック自慢かよ」とやや呆れ気味にページを開いてみたのですが、この記事で紹介されている会社は「メモリーズ」という会社で、どんな会社かというと特殊清掃業と呼ばれる通常の清掃とは異なる、具体的に言えば死体をどかした後の清掃などを請け負う仕事です。

 実際にどういう仕事をされているのかは是非リンク先の会社ホームページをご自身で閲覧してもらいたいのですが、一言で言って壮絶極まりありません。まとめ記事に引用された「仕事中に殴るけるは当たり前」という文言が書かれたページはまだ見つけられませんが、これほどまでに壮絶な仕事現場であれば本当に殴る蹴るくらいの気迫を持って仕事しないと絶対無理だろうと思うし、実際にこの会社自身も「いい加減な気持ちでやると人が死ぬため」と、パワハラがある理由を説明しております。変な言い方ですがその主張はもっともだと思えるし、事前にこういうことがあることを明確にしている点では良心的な会社ではないかとすら思います。

 この会社のホームページ内には実際の特殊清掃業の現場内容として清掃員の仕事体験談が数多く載せられているのですが、読んでいるだけで背筋が凍るというか心身全てが震わされるような話ばかりです。紹介されている現場は孤独死を迎え長期間死体が放置されていた部屋の清掃が多いのですが、中には死体が長期間浴槽につかっていた現場とか、期間が夏場だったためいろんなものが湧き出ていた現場など想像を遥かに超えた、日常からは考えられない世界が広がっております。
 断言しますが、下手な小説なんかより読んでてずっと面白いです。ただかなりショッキングな内容が多いので、閲覧する際は自己責任でお願いします。というより、心臓の弱い方は絶対に見ない方がいいです。

 そうしたショッキングな内容とともに、孤独死の悲惨な現状についても丁寧に記述されておりこれもなかなか考えさせられます。遺体が腐敗するまで誰にも気づかれなかったり、一日に二件の自殺現場で仕事が入ったりなど、現代社会のひずみというか問題性について下手な政府広報よりもずっと胸を打ちます。非常に大変な仕事でしょうが、この会社の人たちにはぜひ頑張って活動を続けてほしいと心の底から応援したいです。

 最後にいくつかの現場体験談を読んでみて思ったこととして、「山下君」と呼ばれる作業員の方がどの記事でも、「本当によく頑張ってくれた」と褒められているのが印象に残ります。出てくる現場も異常に壮絶なものが多いだけに、この人はきっとすごい人なんだろうなと文脈からでも十分に感じ取れます。

2015年5月14日木曜日

日本国憲法はド素人が作ったのか

 自衛隊の関連法案が審議に上ってきた(ほんとはこっちより派遣法を話題にしてほしいが)ことからこのところ憲法に関する、それも起草当時について触れる記事を見る機会が増えてきました。そう言った記事の中でちょっと気になったのが、「占領軍の素人が数日間でつくり、押しつけた憲法」という主張で、これは今年3月に安倍首相が議会でこれと同じ内容の発言をしたことからやや独り歩きしている節があるのですが、これにはやや異論があるというかちょっと黙ってられないので個人的な意見を書いていくことにします。

極秘で起草、徹夜の議論=敗戦が生んだ「革命」憲法【戦後70年】(時事通信)

 現在の日本国憲法はどのようにして誰によってつくられたのか、結論から言えば日本政府が出してきた草案に満足しなかったマッカーサー率いるGHQの職員チーム25人で作成されたということは紛れもない事実です。また戦争放棄をうたった憲法九条については日本政府から提案されたとかねては伝えられていたものの、現代ではマッカーサーが九条を追加したが敢えて日本政府からの提案を受けたふりをしていたという意見が強いです。半藤一利氏によると、「マッカーサーは嘘つきだからなぁ」だそうです。

 話しは戻って憲法起草のメンバーについてですが、参加メンバーで最も有名なのは当時22歳だったベアテ・シロタ・ゴードンで間違いなく、法学部における憲法学の授業でまず出てくる名前でしょう。彼女、というより彼女の父親のレオ・シロタについては以前に評伝を書いておりますが、よく彼女の存在を取り上げては、「まだ22歳で、憲法についてド素人である小娘に作らせた」などという揶揄を見たりしますが、正直に言ってこれらの意見は私にとって不快です。
 実際には彼女は英語、日本語に堪能であるだけでなくロシア語にも精通していたため、憲法の起草に当たっては国会図書館に通ってドイツやロシア、フィンランドの憲法条文を参考にしてきては日本語の独特なニュアンスをほかのメンバーに伝えるという才女ぶりを見せています。憲法学のバックグランドこそなかったものの、それを持って「ド素人」などと批判するのはやや筋が違う気がします。

 ほかの起草メンバーに関しても同様で、確かに憲法を専門に学んだことのあるメンバーはいなかったものの何人かはアイビーリーグの大学で法学を専攻しており、三人ほど弁護士資格保有者もいたそうです。 実際に起草された日本国憲法は少なくとも日本政府が最初に出してきた前時代的でほとんど何も変化のなかった草案よりもずっと内容が充実しており、特に女性の権利保護については、女性の普通選挙参政権がほとんど認められなかった時代でありながら本国アメリカ以上に先進的な内容を取りこんでおりました。そのほかの内容に関しても、戦後70年以上何の変更も加えられないながらも機能している点を鑑みると大した憲法だと私は考えています。
 確か田原総一郎氏だったと思いますが、「少なくとも戦後、日本は一度も戦争に巻き込まれることがなかったのは間違いない」という評価を下しており、この一言に尽きるでしょう。

 私自身は憲法自体はそろそろ変えるべき点も出てきたし、硬性憲法だと弊害が大きいとも考えるため改憲派でありますが、起草メンバーを「ド素人」とするこの意見に関しては生理的に怒り、言い方を考えると聞いてるだけでなんか腹立ってくるのでここで強く異を唱えます。第一、法律に対する価値観でアジア人が欧米人に文句言うってのもちょっとなと思えるし。
 真面目な話、日本の法整備は憲法以上に喫緊の課題です。民法の保証人制度なんて気違い極まりない法律だと思えるし、住宅ローンに関しても日本では時と場合によっては二重ローンがあるというと外国人みんなに驚かれます。はっきり言いますが日本には本当に法律の専門家がいるのか、それこそド素人ばかりなんじゃないかと密かに考えてます。

2015年5月13日水曜日

近距離間国家連合の先行き

 もうずっと専門とする国際政治の話を書いてない、っていうかただ単に勉強してないだけですが、久々に好き勝手な推論でもいいから何か書こうと思います。まぁ勉強しなくなった言い訳をすると、日系メディアだと国際報道がちょっと少ないんだよなぁ特に最近。

 先日英国で総選挙が行われ、選挙前の予想報道とは大きく結果が異なり与党保守党が大勝する結果になったそうです。一方で野党の労働党は議席を減らすこととなり、この選挙結果について東洋経済の記事では英国は今後ますますEUとの距離を置くだろうとの見方を示しており、私も基本的に同感です。
 もともと英国は大陸嫌いというかフランスやドイツといったヨーロッパ諸国とは距離を置きたがる傾向があり、特にその傾向が激しい保守党が買ったことが何よりも大きいです。ただそれ以上にEU自身が目下、結束を保てるかどうか怪しい状態が続いていて果たしてこの距離的に近い国同士の国家連合はどうなってゆくのか今試されているでしょう。

 EUの結束が何故ゆるんでいるのか一言で言えば欧州の問題事故とギリシャの負債問題からです。この負債をどう処理するか、言ってしまえば国家破産か他国からの資金援助の二つに一つしかないのはわかりきっているものの、前者ならEUは身内を助けないと結束にひびが入り、後者なら資金を負担する国民が納得いかないということになるため、EU賛成派にとってはなかなか頭が痛い所でしょう。また資金を融通する国にとっても、ドイツなんかはまだ金があるらしいですがイタリアやスペインも案外ギリシャを笑えない財政状況だと聞きますし、地味にフランスも日本じゃ報道されてないだけでかなり問題を抱えているといううわさを聞きます。

 何故EU諸国でこのような状態が続いているのかというと単純に不況だからという理由のほかに、EUは域内通貨をユーロに統合しているため、国別に財政は異なっているのに為替が変動しないため市場での為替価格の自動調整、言うなれば「神の見えざる手」が機能し辛いことが指摘されています。簡単に説明すると、市場競争力のない国は普通なら自然と為替価格が下がって人件費が落ち、輸出競争力が増していくのですが、ユーロの場合は通貨が共通するためそうしたことが起こらず国別で弱者と強者の差がどんどん広がりやすいそうです。この辺はマネタリストがもうちょっとわかりやすく説明してくれたら助かるのですが。

 元々EUはヨーロッパ大陸で市場を統一化して大きな経済力を持とうという目的で発足しましたが、皮肉なことに同じ市場の中で強者が弱者を食うような事態が今起こっています。EU参加国はヨーロッパの文明を共通していることはもとより、距離的に近距離にある国同士がくっついたという背景がありますが、こうした地政学的価値観に基づく連合国家はやっぱりうまくいかないのではと現時点で私は思えます。

 仮に日中韓の東アジア三カ国でEUのような組織が出来たら、共通通貨がもたれたらどうなるかですが、政治的な衝突が起こらないという前提であってもやっぱりうまくいかないのではないかと思います。何故うまくいかないのかというとやっぱりギリシャみたいにサボった方が得だと考え動き出す国が出てきそうだからです。

 このように考えると世界はまだしばらくは国民国家制度を維持するのが無難ではないかとも思えてきます。EUの思想は一種、経済を媒介とした連合ですがこれだとやっぱり金の切れ目が縁の切れ目で、ちょっとしたことで分裂なりが起こりかねません。じゃあ世界政府ならどうなのか、よっぽど喧嘩と悪の強い皇帝みたいなのが出てくるなら話は別ですが、世界政府となると民主主義はまず成立しないでしょう。

 本当にまとまりのない内容ですが、「国家を越えた枠組み」の1バリエーションとして実現したEUの行く末は非常に大きな試金石です。ただ私自身もあまり期待はしておらず、今後どのようになっていく過程にだけ注目する必要があるというのが今日の私の意見です。

2015年5月11日月曜日

創業家列伝~井植歳男(三洋電機)

 昨日は三洋電機破綻後の三洋電機元社員を追った「会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから」の書評記事を書いたので、折角だから今日はその三洋電機を創業した井植歳男の評伝を書くことにします。別に計算していたわけではなく、なんとなく今日は記事執筆に当たって余裕あるから創業家列伝と思ってネタ捜してたらこうなりました。

井植歳男(Wikipedia)

 三洋電機を創業することとなる井植歳男は1902年に淡路島で生まれます。生家は自作農で比較的裕福だったのですが、歳男の父は船乗りを目指し、田畑を売って船を購入すると回船業を営み始めました。ただその父は歳男が13歳の時に急死し、後を継いだ歳男は乗組員が四人だけの船を回すこととなったのですが、船乗りの仕事は今も大変ですが昔はもっと大変だったらしく、歳男自身も当時を過酷な時代として後年に振り返っております。
 しかしそうして家族を養っていた歳男に災難が降り掛かります。港近くで火事になった倉庫の火が燃え移り、仕事で使っていた船があっさりと燃えてしまったのです。生業の手段を失ってしまった歳男ですが、ここで思わぬところから大きな転機が生まれます。

 この辺の話は有名なので皆さんも知っているかと思いますが、歳男の姉は松下電器創業者の松下幸之助に嫁いでおり、1917年に大阪で独立した幸之助は親類縁者ということもあって歳男を従業員に誘い、これに歳男も応じます。当初でこそ工場作業を手伝うなどしておりましたが次第に営業方面の仕事が多くなり、まだ十代であった歳男のセールストークは営業先でも、「この人の話方はとてもうまいからみんな見習いなさい」と他の従業員の前でわざわざ披露させられたというエピソードまであります。ただこの時の営業先は何も買ってくれなかったそうですが。
 その後も歳男は文字通り幸之助の片腕となって八面六臂の活躍で創業時の松下電器を支え続けます。歳男が松下電器に在籍した期間は30年にもおよび、実は三洋電機の在籍期間の22年よりも長かったほどで、32歳時には松下電器の専務職に就任しています。

 時代が戦時色を深めるようになった1930年代にもなると歳男は軍需産業への進出を目指しグループ会社の松下造船を設立すると、木造船を八段階の工程に分けて同じレールの上で作業するという、いわば造船の流れ作業を考案して戦時中には100隻を越える船を造船したと言われます。元々船乗りだったこともあり船には造詣が深く、また本人も単純に好きだったためか後年にも淡路島と本州をつなぐフェリー会社も設立してたりします。

 このように幸之助の元で商売の才能を発揮し続けた歳男でしたが、戦後になると松下電器はGHQから財閥指定を受け、旧役員は一人を残して全員追放されることとなり、義理の兄である幸之助だけが残る形で歳男らほかの役員が去ることとなりました。歳男はこの時、戦前に軍需系企業の株(戦後はもちろん無価値に)の購入費用として借りた350万円の借金を抱えていたため文字通り途方にくれていましたが、住友銀行で後に頭取となる鈴木剛という人物は歳男の人物を買って、新たに50万円の融資を自ら持ちかけてきました。これに応じる形で歳男が設立したのが、三洋電機でした。

 独立に当たって義兄の幸之助からは自転車用発電ランプの製造特許を譲渡され、このランプを作るためまずは兵庫県加西市の北条工場で生産に乗り出します。続けて生産拡大を図り今度は大阪府の守口市に工場を設立しますが、ちょうどこの時に製品に欠陥がでて回収・修理(リコール)をする事となった上、設立したばかりの守口工場も漏電が原因の火災で完全に焼失してしまいます。
 このように順風満帆のスタートではなかったものの立ち直り方は早く、火災から一ヶ月後には工場再建を果たし、創業二年目で三洋電機は発電ランプの国内シェア6割を獲得するにまで至ります。その後も生産品目を増やし、後に三洋の代名詞ともなる「噴流式洗濯機」を国内で始めて製造するなどして会社は拡大を続けました。
 なお三洋電器は洗濯機にはやっぱりこだわりがあったらしく、ドラム式洗濯機も国内で初めて作ってます。

 歳男は66歳でこの世を去りますが、三洋電機自体は歳男の創業時の精神を強く持っていたようで、破綻に至るするまで「主婦のための家電」を合言葉に新機能を追加した洗濯機や冷蔵庫、また末期のヒット商品であった「ゴパン」など新奇性に富んだ家電を生み続けました。

 昨日の記事でいくらか書きそびれたことをここで書くと、パナソニックは三洋電機を買収してからすぐ、「SANYO」ブランドの使用をやめると発表し、それを実行に移しました。しかし私見ながら申すとこの決断は実にもったいなかったと思え、というのも「SANYO」ブランドは日本国内では「ナショナル」や「SONY」と比べるとブランドイメージがやや弱かったものの、東南アジアなど新興国市場ででは早くから進出していたこともあってその認知度や評価は高かったと聞きます。現在の世界市場は新興国市場が中心といっても過言ではなく、国内の使用をやめるだけならともかく、新興国では引き続き利用しておけばよかったのではないかとつくづく思えてきます。
 もっともそれ言ったら、ソニーの「Aiwa」ブランドも全く同じこと言えますが……。

  おまけ
 ちょっと記憶があやふやな所もありますが、確かうちの実家の洗濯機も90年代後半は三洋製だったような気がします。それ以外だと三洋製の家電はあんま使ったことはなく、テープレコーダーにAiwa製、MDウォークマンにパイオニア製を私は使っていました。当時はソニー全盛期だったから、「ソニー製じゃねぇ、だっせぇ」と言われながらもテレコで磁気テープで音楽聞いてました。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行

2015年5月10日日曜日

千葉のマッドシティ~東葛飾旅券事務所


 千葉県松戸市ことマッドシティネタでリアル松戸市民の友人に材料となる写真を要求した所、今回紹介する東葛飾旅券事務所の写真を意気揚々と送られてきました。
 この東葛飾旅券事務所とは読んでその名の如く、パスポートの申請、交付手続きを受け付ける事務所です。この事務所が申請手続きを受け付ける住民のエリアは比較的広く、隣の市に住んでた私も自転車で近くの伊勢丹に着けて、ここの事務所で手続きを行って交付してもらいました。

 と、正直なところこれくらいしかこの事務所について書くこと出来ないのでちょっとどうでもいいネタを明かすと現在私が持っているパスポートは2008年に発行してもらったのですが、その発行日はなんと2月29日、そううるう日だったりします。
 別に狙ってこの日に申請して取ったわけではなかったのですがたまたまこの日の発行となってしまったため、十年後の更新日は2018年2月28日という風に発行日の日付とずれてしまっております。そりゃうるう年じゃないんだから当たり前ですが、我ながら奇妙なパスポートを持ってしまったとやや反省しています。

書評「会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから」

 以前に書いた林原の倒産記事が読者からそこそこ好評だったと友人に伝えたところ、「次は三洋だ!」と言って、紹介されたのがこの「会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから」という本でした。

 この本はかねてから家電メーカー大手、三洋電機を長期間取材してきた日経記者の大西康之氏による、三洋電機がパナソニックに買収されてからの各関係者の状況を取材してまとめた本です。出版された直後から好調な売り上げだったようで私の周りでも既に読んでいる人間が多かったのですが、私も読んでみた感想としては確かに面白く、文章のリズム感の良さはもとより丹念に取材して書かれているということが読んでてよくわかります。
 中身はどういったことが書かれているのかというと、冒頭では三洋の創業者である井植歳男の息子であり三洋電機の社長、会長職も務めた井植敏氏へのインタビューに始まり、パナソニックによる買収前後の社内状況についての説明を経て、直接取材した元三洋社員たちの現況を紹介しております。

 この点は友人と意見が分かれたのですが、この本で一番面白かったのは冒頭の井植敏氏への取材でした。アポなし取材だったらしくインターホン越しに最初は「話すことなんてない」と断っておきながら家に上げると聞いてもないのに、「最近淡路の玉ねぎ栽培事業に関わってんねん」などと言ったり、部屋にホリエモンの書いた本が転がっていたり(はまって読んでたらしい)と饒舌に話し続けたそうで、読んでていかにもな関西人の姿が目に浮かびました。ただ三洋電機が買収されることとなった経緯に対する質問については一貫して口が重く、著者が何度も質問を繰り返すものの、自らを含めた経営陣の責任だとしか頑として述べずに沈黙を守り続けていました。
 この井植敏氏の態度はどうやら現在も続いているようで、さきほど軽く検索を書けて出てきたインタビュー記事でも、「銀行にだまされたって言わせたいんやろ。だまされていないし、だまされたとしても、だまされた方が悪い」と述べ、やはり自らに経営責任があるという主張を続けています。

 そのインタビュー記事に出ている、「銀行に騙された」という下りですが、これはこの本の主題ともいうべき内容で、著者は三洋電機が買収されるに至る経緯で最も核心的な役割、言い換えるなら経営破綻へと至らせる引き金を引いたのは、2006年の経営改革時にスポンサーとなった大和証券SMBC、ゴールドマン・サックス証券、三井住友銀行の金融三社であるという主張をはっきりと名指しで展開しております。著者がそのように述べる詳しい論拠は是非この本を手に取って確かめてもらいたいのですが、大まかに述べるとパナソニックが不振が続く家電部門に変わる新たな成長部門として目をつけたのが三洋電機のお家芸だった電池部門で、この部門を獲得するために一旦金融三社が入って下ごしらえした上で三洋電機を買収し、ほかの余計な部門は一切切り捨てたという推理がされています。言ってしまえば、パナソニックが三洋電機の電池部門を買収するため仕組まれた破綻劇だったというような話しです。

 この著者の主張に対する私の意見を述べると、さすがにはっきりとした証拠はないので断定こそできませんが、有り得なくはない話だしそのように考えると確かに筋が通るなという風に思います。ただ一つ苦言というかこの本読んで感じたこととして、著者はこの本全体を通して徹頭徹尾にパナソニックを悪者として描いており、ちょっとその書き方が中立を外れてやや感情的に書かれているのではと思う部分もありました。実を言うと私も昔からパナソニックは誉められるような会社ではないと思っててあんまり評価してないのですが、その私の目からしてもちょっと書き過ぎではと思うくらいにパナソニックへの批判が続いており、その後の元三洋電機社員らの現況についても、「パナソニックから出ていって良かった」という話しか載っていません。

 もちろん買収後に三洋電機を出て行った後、元社員らは何をやっているのかという話はどれも面白いのですが、三洋電機を出ていって幸せな感じの人ばかりで、逆にパナからリストラされて非常に苦しいって立場の人が一人も出てこないのは「あれぇ?」って具合で、期待してただけに少し残念でした。ちょっと穿った見方をすると、パナソニックを悪役にするためわざとそのような人ばかり選んだんじゃないかなという気もしないでもありません。
 ただその出て行った社員の話はどれも起伏に富んでおり、異業種の西松屋チェーンに転職して幼児用バギーを設計するようになった下りとか、リストラを手掛けた人事部社員が「人を切るノウハウ」を買われてあちこちからオファーがきたりとか、どれも読んでて引き込まれる話が多いです。

 最後にこの本の中で特に面白いと感じた部分を紹介すると、冒頭の井植敏氏が語る内容の中に日本の一族経営の問題点がなるほどと思わせられました。井植敏氏曰く、日本は相続税率が高いために会社を興して成功した創業一家は自己の財産を所有し続けるため経営能力が無くても会社を経営し続けなければならなくなるとのことで、米国の様にオーナーが会社を所有し、プロの経営者を雇って会社を経営させるという方法が採れないと指摘しています。言うなれば所有と経営が分離せず、そのため非常にいい要素を持つ会社でも無能な創業一家の経営によってむざむざ破綻してしまうこともあると、自戒を込めたような言い方でしんみり語っているところが一番私の胸に刺さりました。

 ちょうど最近、大塚家具の騒動といい一族経営による企業が話題に上がることが増えている気がします。既に記事を書いている林原もそうでしたが、これを日本式経営ととるべきかどうとるべきか、その上で今後どうやっていくべきなのかは案外今考えるべき時期なのかもしれません。


2015年5月9日土曜日

今日の衝突事故

 今日は朝から友人の「ネットでこういうの作れば儲かるんじゃね」という提案に対して、「どうやってアフィリエイトを投稿者に分配すんだよアホ(# ゚Д゚)」というやり取りを終えた後、昼食を取るため自転車に颯爽と乗って毎週通っている日本食屋に向かいました。距離は大体3キロ程度の道のりでいつものように自転車レーンを走っていたら、電動三輪自転車が逆走してきて見事に正面から激突しました。

 激突直前にブレーキをかけ速度は大分落としたもののロードレーサーということもあり急な方向転換が出来ず(つま先が前輪にぶつかったりしてこける可能性大)、ちょうど前輪タイヤと向こうのバンパーがぶつかる感じで当たりました。幸いというかこけるほどの衝撃はなく、自分の体よりも「フレームは!?(;゚ Д゚)」という具合に自転車本体の方が心配でした。でもって逆走してきた相手に対しては、「大丈夫、問題ない?」と聞いたところ、「いや、そっちこそ(;´Д`)」とちょっと不思議そうな感じで聞き返してきました。
 正直な所、「なんで逆走してくるんだよ」と問い詰めたかったものの道の真ん中であーだこーだ言ってもしょうがないし、自転車のフレームも曲がっておらず目に見える亀裂や傷もなかったので、「おっけおっけ、いっていって」と言ってそのまま別れました。結構大きな音だったもんだから、周りの視線は全部自分に向けられてたけど。

 その後日本食屋についたのですが、ぶつかった衝撃で外れたチェーンを付け直したため両手は油で汚れており、お手拭で拭いていたところ右手小指関節付近の皮膚が切れて血がダラダラと流れてました。見かねた店員がバンドエイドくれたので老なく止血できましたが、電動三輪自転車とぶつかっていながらこの程度で済ませる当たり、つくづく我ながら無駄にタフだなぁとちょっと呆れます。
 昼食を終えて帰ろうとしたところ右足膝付近が打ち身のせいか痛みだし、重いギアだとペダルを踏むのがやや辛かったですが、帰途は特に誰とも衝突することなく安全に帰って、その後はダラダラと過ごして右ひざの痛みも時間と共に解消されました。

 最後に一つ教訓ですが、海外で生活するに当たって何が重要かって言ったら語学や見識ではなく、一に現金で二に体力だと断言できます。現金は言わずもがなの生命線でカードでキャッシングできるよう準備しておくのがベターですが、体力に関しては精神的な面でも、多少交通事故とかに遭っても這いながら自宅や知り合いの家にたどり着けるくらいはあった方が良いです。
 それと同時に私の様に、勤務先に問題があって現地ですぐに再就職先を捜して行動できるような体力も必要です。決して身体面で恵まれているわけではありませんが、なんかこの方面で最近後輩からはやたらと、「花園さんの体力ってパネェっす」と褒められてます。実際、中国来てから病気らしい病気一度もしてないしなぁ……。

2015年5月8日金曜日

クローズアップ現代のやらせ問題について

 今日は特に書くこともないので適当に時事ネタでかわそうとニュースを検索したら、先日番組でやらせがあったと報道されていたNHKの「クローズアップ現代」がBPOで審議入りするというニュースが出ていました。別に無視してもいいっちゃいいのですが、そろそろ時効だしこのクローズアップ現代のやらせ体質について実体験者でもある私の口から一つの事実を明かそうと思います。

 何人かの友人には明かしておりますが、実は私はかつてこのクローズアップ現代の取材を受けたことがあります。どういう経緯での取材を受けたのかというと、2010年に初めて中国への転職を試みた際、当時使っていた人材派遣会社の方から「中国に転職しにいく若者を取り上げたいとNHKから要請があったので紹介しても構わないか」という連絡が来て、別にかまわないと返事したことから正式に取材を受けることとなりました。
 受けた取材の回数は合計二回で、一回目は渋谷前で待ち合わせNHKの記者と喫茶店でどうして中国で仕事を探すのか、将来をどう考えているのかなどを話し、その後上海に渡って転職活動をしている最中にスカイプで二回目の取材を受けました。一回目と二回目の取材で聞かれた内容にはそれほど大きな差はなく、担当記者が途中で変わったこともあって一から説明するような感じで二回目の取材は行われています。

 二回目の取材を終えた後にNHK側からは、中国で転職を果たすこと(既に現地日系企業の内定を得ていた)について私とこのところ頻出な私の親父で自由に話し合ってもらいその場面をカメラに撮って番組で使いたいという要請があり、撮影日もとんとん拍子で決まりました。過去に梅田駅前でMBSの該当取材を受けた際にテレビデビューは果たしておりますが、NHKの番組でるのはこれが初めてだなと内心ワクワクして撮影日を待っていたところ、当時日本で開かれていたAPECの取材で急遽カメラマンが足りなくなったので撮影日を延期する、また別日程を追って通知するとNHK側から連絡ありました。
 少し残念な気持ちと共に次の撮影日を待っていたところNHK側から今度は、「大変申し訳ありませんが花園様の取材は今回の番組では使用しないことを決定いたしました」という、妙なお祈りメールが送られてきました。一体何故私に対する取材部分を使わなくなった理由はというと、

「花園様は日本で正社員として勤務され、また過去に中国留学をして中国語も始めから話せる状態で今回中国での転職を行っています。番組としては今回、中国語が全く使えないにもかかわらず中国での仕事を求める別の方を取材して番組に使うことを決定しました」

 暗にですが、私の代わりに番組で使われた方は恐らく正社員ではなく派遣やフリーターの立場だったのではないかと思います。要は、日本でまともな仕事が見つからないので中国語もわからないが仕方なく中国に仕事を求めにいくという、如何にも社会に抑圧されているようなステレオタイプな人物を番組に求めたというか使用したかったのでしょう。その点では私の経歴はむしろ順風満帆過ぎて、一言で言えば絵にならないと判断されたのだと思います。

 まぁ向こうのやることなんだから私がどうこう言うのは筋ではないと思うものの、NHKは中国に転職しにいく人間の実態よりも「絵」を取るのかと、皮肉っぽく思ったもんです。周りの反応も似たようなもんで、案外民放と変わらないじゃないかなどという意見が多かったと記憶しています。

 こうした実体験があったので今回のクローズアップ現代のやらせ問題を見て、私はそれほど驚きを感じず、むしろ報道されていないだけでこの手の小細工はほかにもいっぱいあるんじゃないかとも考えています。それにしてもNHKは取材の着眼点がやっぱり違うんじゃないかと今現在になって思えます。そんな中国での就職を希望する若者なんかより現地採用勤務者の実態とか、中国留学経験者がほとんど中国語を使わない仕事についている実態とかの方が私の中ではもっとニュースです。

 最後に紙幅が余ったので余計なことを書くと、NHKのグループ会社で人材派遣業務を行っている「NHKビジネスクリエイト」は派遣のマージン率をインターネット上で公開しておりません。事業所ごとのマージン率公開が義務付けられたもののほとんどの派遣会社が公開に対して消極的であるということを報じるためにも、NHKは身近にいい例があるんだからもっと取材に力を入れるべきではないかとこの分野の第一人者であると自負する私からアドバイスしておきます。

2015年5月7日木曜日

旧日本陸軍四天王

 本題とは関係ありませんが一昨日、自宅内でパソコン使って作業していたら以前に日本語を教えていた中国人労働者が中国版LINEこと微信で連絡してきてそのままチャットへと発展しました。作業中ですが片手間で返信する位ならどうってことないとそのまま続けていたら、今度は大学の後輩がSkypeでチャットしてきて、二人同時にチャットする位ならまぁなんとかなると思ってたら、今度は大学の先輩がSkypeでアニメの「シュタインズゲート」がどれだけ素晴らしいか力説してきて、さすがに三人同時に文字チャットで対応するのは難儀でした。チャットしながらブログ書くってのはよくあるんだけどね。

 そういうわけで本題に入りますが、よく二次大戦中の旧日本陸軍で誰が指揮官として最も強かったのかが議論となります。正直なところどの指揮官も戦った場所や条件が異なるため厳密には誰が最強だったのかを比べるとなると難しいのですが、少なくともトップ4ならばほぼこの人たちで間違いないと確定しているように思えるので、私の目から見て「旧日本陸軍四天王」とも言うべき指揮官四人を今日紹介しようと思います。

1、宮崎繁三郎
 歴史家などからは彼こそが野戦最強の指揮官だと言われる宮崎重三郎はノモンハン事件、インパール作戦など日本軍が大敗した戦いに従軍し、圧倒的に不利で過酷な条件の中で驚嘆するほどの善戦ぶりを見せています。ノモンハン事件では日本軍部隊の中で唯一の局地戦勝利を遂げており、実質全く補給のなかったインパール作戦では敵軍から食料を奪いながら進軍し続けコヒマという地を占領し、撤退となった際も見事な戦術で友軍の撤退を助けています。特筆すべきはこのインパール作戦でどれだけ苦しい戦いにおいても部下の兵士を見捨てず、自ら背負って撤退したという人格者ぶりは後世にまで語り継がれております。

2、山下奉文
 通称「マレーの虎」。太平洋戦争序盤のマレー作戦では文字通りに連戦連勝を傘ね、驚異的な進軍速度でイギリス軍をマレー半島から追い払っております。その後もフィリピンでの防衛戦で善戦するなど戦上手ぶりを発揮し続けましたが二・二六事件での対応を巡って昭和天皇からは強く嫌われていた節があり、戦時中はその功績に比べやや報われない扱いを受けることとなりました。

3、今村均
 太平洋戦争の激戦地の一つであるラバウルを守備していた今村均は、早くからこの地域が米英軍によって孤立させられると読み、戦地で兵士に畑を耕させるなどして持久戦に備えました。その読み通りにラバウルはあらゆる補給船から断絶させられるものの今村の対策もあって陥落はせず、ついには終戦まで持ちこたえることに成功しました。
 こうした戦略眼の卓越ぶりはもとより占領地域で抜群の治政ぶりをみせたほか、わざわざ東京の監獄から部下たちが収監されていた環境の悪いマヌス島の監獄へと移送するよう志願するなど、万事において人格者たらん行動を実行に移している点も見逃せません。

4、栗林忠道
 二次大戦も終盤に入った硫黄島の戦いにおいて、補給も支援も全くないにもかかわらず米軍を最も苦しめた戦いぶりは桁違いもいい所でしょう。それ以前の戦闘での経験、そして硫黄島の地勢を鑑みて地下要塞を作り、徹底したゲリラ戦を敷いて米軍に日本軍を上回る戦傷者数を出させたという点をみるにつけ戦略、戦術共に頭抜けた実力者の持ち主以外の何物でもありません。
 その激しい戦いぶりに隠れていますが、戦地から家族へ宛てた手紙や辞世の句として有名なあの「散るぞ悲しき」など、もとよりジャーナリスト志望だったという文才も見逃すことはできません。

 あくまで私個人の目線ですが、旧日本陸軍の中で最も優れた指揮官としては上記の四人が確実に上がってくるのではないかと思います。四人のうち、宮崎繁三郎今村均に関してはこのブログを始めた当初に「猛将列伝」の連載記事で取り上げていますが、いま読み返すと非常に拙い文章で「もっと修行しろアホ!」と昔の自分に言いたくなります。
 逆に、山下奉文と栗林忠道の二人について私はまだ評伝を書いていないのですが、栗林に関してはほかの人がたくさん書いているので私から書く必要はないかなと考え、山下に関してはあんまりマレー作戦については知識がなく勉強不足なので書いてないだけで、別に嫌っているというわけではありません。

 むしろこの四人の中で最も凄まじさを感じるのは栗林で、あの絶望的な戦況においてよくぞあれだけ戦い抜いたと尊敬を通り越して畏怖すら覚えます。宮崎繁三郎も同様にその強さには恐れを感じるほどですが、山下に関しては開戦序盤でなおかつ比較的装備や補給の整った状態でマレー作戦を指揮しているため、他の三人と比べると条件面でやや異なっているのではとも考えています。

 あまり他では言われていないことを書くと、この四人のうち山下を除く三人が陸軍幼年学校を卒業しておらず、陸軍士官学校からその軍歴を開始しております。幼年学校を出ずに陸軍幹部となる人物は当時としては非常に少なく、その少ない人物の中からこれだけ多くの名将を輩出していることを考えると、幼少から少年期までとはいえ外の世界を知っているか否かというのは案外大きな要素だったのではないかと思え、歴史家の半藤一利氏や保坂正康氏もその点を指摘しております。
 また四人とも戦地で大きな戦果を挙げていたにもかかわらず何故か中央本部での勤務に付されることはなく、むしろ使い捨てにされるかの如く激しい戦地から戦地へ何度も送られ、逆に失敗を繰り返す将軍ほど中央本部に回されておりました。山下に関しては昭和天皇に嫌われていたことが大きいと思われますが、ほかの三人は幼年学校を出ていなかったためではないかと思える節もあり、昔も今も日本の人事は妙な倫理がまかり通るとつくづく呆れるばかりです。

2015年5月6日水曜日

空飛ぶ霊媒師、ダニエル・ダングラス・ホーム


 上記の画像は以前に「不死身の弁護士」という記事で紹介した滝本太郎弁護士の写真です。滝本弁護士は別に霊感があって空中浮遊をしているわけではなく、地下鉄サリン事件以前のオウム真理教信者の救済活動に携わっていた際、麻原彰晃が空中浮遊できるほど霊力があると信じ込んでいた信者らに対し、「空中浮遊ならやろうと思えば俺だってできる」と言って、自ら体を張って空中浮遊の写真がトリックであると証明するためこの写真を撮影したそうです。詳細はリンク先の過去記事に詳しく書きましたが、この写真といい何度狙われても生還したことといい非常に頼もしい弁護士だと思うと同時に、なんでこんな写真を私もいつまでも保存しているのか少し悩むところです。

 ここで少し話が変わるというか本題に移りますが、いわゆる霊能力や超能力があるということを証明するのによく使われるパフォーマンスと言ったらスプーン曲げや予知と並び、先ほど出てきた空中浮遊も挙がってくるでしょう。しかし先の二つと比べ空中浮遊ができるという人はそれほど多くはなく、また誰もが「あいつはマジで浮かんでた!」と証言するような見事な空中浮遊を見せる人物となるとほぼ全くいないどころか、浮遊するシーンを撮影した動画なんてものもこれだけネットが発達した時代でも出回っていません。何故そうなのかというと単純に空中浮遊はトリックとして難しく、超能力があるように種や仕掛けを用いてやろうとしてもあっさりばれてしまうことが多いため、スプーン曲げなどと比べるとややレアになっているのだと推察します。

 しかし、やや時代は古いですが「あいつ、マジで浮かんでたよ!」と言われた超能力者がかつて存在していました。驚くべきことにこの超能力者というか霊媒師は生前、ただの一度として彼の見せる奇跡がトリックだと見破られることもなく現代においても彼が見せた不思議な現象を説明できておらず、彼は本物だったのか否かは今でも大きな議論のネタとなっています。

ダニエル・ダングラス・ホーム(Wikipedia)

 その霊媒師の名前はダニエル・ダングラス・ホーム(ヒューム)といって、19世紀にスコットランドで生まれました。ホームは生まれてすぐ子供のいなかった叔母夫婦に引き取られますが子供の頃から彼の周囲ではラップ音やポルターガイスト現象が起こっており、ホームが17歳だった頃に生みの母が死去するとそうした心霊現象は以前にも増して増えていったそうです。またホーム自身も心霊現象を見せることができ、イギリスを始め欧州各国で多くの人間が彼が起こす超常現象を目の当たりにしてその名声も存命当時からも論争になるほど大きなものでした。

 ホームが見せた超常現象はどんなものだったのかというと、一言で言って桁外れに説明のつかないものが多いです。冒頭に書いた空中浮遊はもちろんのこと、その場で手足を数十センチ伸ばしたり、燃える石炭で顔を洗う、触るだけで楽器を鳴らす、空中から誰のものでもない霊の手を出現させ列席者と握手させるなど、並み居る列席者の目の前で常識では考えられない現象を実に多くの人間に見せています。

 しかもホームがほかの超能力者と大きく異なっている点は、これらの心霊現象でお金を稼ぐようなことはほとんどせず、それどころか時間さえあれば一般市民にも無料で見せていた点です。さらに列席者に対しては、「部屋が暗くちゃ見え辛いよね(´・ω・`)」などと言っては自ら照明を明るくするなど、トリックを隠そうとすような素振りを見せるどころか逆にオープンすぎる姿勢を貫いていたそうです。それだけオープンだったにもかかわらず彼の存命中、誰一人として彼が見せる心霊現象をトリックだと証明できるものはおらず、ハーバード大学の研究者だけでなく「クルックス管」の発明で有名なウィリアム・クルックスすらも「疑わしい点はない」と彼の力を認める発言を残しています。

 彼の心霊現象を見た人間は著名人にも多く、時のローマ教皇であったピウス9世、フランス皇帝のナポレオン3世、ロシア皇帝のアレクサンドル2世などもわざわざホームを呼び寄せています。もっともホームを詐欺師呼ばわりする人間も当時からたくさんいたようで、そうした声に巻き込まれる形で生活が困窮するような事態にもなんどか陥っています。しかし彼を糾弾する人間からは誰一人として彼が起こす不思議な現象を説明出来るものは出て来ず、そうこうしていたらホーム本人が48歳ごろに引退宣言をして表舞台から姿を消してしまいます。といっても、親しい人には「今回だけだからね(´・ω・`)」といってちょくちょく見せてたそうですが。

 ホームの特徴を一言で述べるなら、非常に多くの人間を前に心霊現象を披露しながら存命中に足を見せることが一度としてなかったということに尽きます。だからと言って彼が本物の霊媒師だったと言い切れるわけではありませんが、彼自身が見せていたオープンな姿勢といい、ほかの超能力者たちとは明らかに一線を隠す人物であったことだけは間違いありません。
 私自身はそれほどスピリチュアルに傾倒しているわけでもなく超能力や例現象に関してもやや懐疑的な立場を取ることが多いですが、このホームの話は聞いてて素直に「なんじゃこりゃ」と思う話が多く、スウェーデンボルグ並に聞いてて面白いと思ったのでここでも紹介することにしました。

 このブログは一応政治系ブログを標榜していますが、意外とこの手の記事の方が人気あるんだよなぁ……。

2015年5月5日火曜日

昭和天皇崩御時の社会の反応

 今でこそ「激動の昭和」というフレーズは世の中に定着しておりますが、この言葉が出来上がったのは昭和が終わり平成となった直後で、昭和天皇の崩御に合わせて放映された昭和を振り返る番組の中で何とも連呼されて定着したと聞きます。
 昭和天皇とくれば日本人なら誰もが知っており、また誰もが歴代天皇の中でも特別な存在だと認識している天皇だと思います。その崩御当時はメディアなどが発達していたこともありますが全国で大きく取り扱わられたと言われているものの、私自身は当時まだ幼児だったため全く記憶がないというのが本音のところです。
 つい最近、この昭和天皇崩御時の社会の様子についてある証言者から詳しく話を聞く機会があり、なかなかに興味深かったので今日はこの話を紹介することとします。

 昭和天皇の崩御時についてこれまでに私が伝聞で聞いた内容としては、追悼番組が延々と流れ続けたためレンタルビデオ店が繁盛したとか、崩御翌日の新聞朝刊どれも一面で崩御を伝える中で東スポだけが「ブッチャー流血」を一面見出しにしていたなど、どちらかといえばマクロな話ばかりで当時の人たちはどのような反応をしていたのかミクロな視点での話しはほとんど聞いたことがありませんでした。特に気になっていたのは当時の一般社会はどうだったのか、企業などはどのような反応をしていたのか、こういった点について実は前から話を聞いてみたいと考えていたわけです。

 その証言者は崩御当時、というより前日から仕事が忙しく、会社に泊まり込んで仕事を続けていたそうです。夜が明けた早朝に仕事がひと段落したので社内で仮眠を取ろうとしていたところ、会社ビルの警備員から昭和天皇が崩御したとここで第一報を受け取ったそうです。
 崩御の第一報を受け取った証言者が何をしたのかというと、まずは同じ会社の人間へ崩御の事実を電話で伝え回ったそうです。証言者は昔も今も広告業界で働いており、あらかじめ崩御した際には各スポンサーのテレビCMを自粛する方針で決まっており、関係する人間同士でテレビ局やスポンサーに対して連絡する手筈となっていたとのことです。なお崩御の日については内々に「Xデー」と呼んでおり、CM放送自粛も既に段取りが決まっていたため感覚的には、「用意されたボタンを押すようなもので大きな混乱というものはほとんどなかった」と話しています。

 では証言者の周り以外ではどんな反応だったかと聞いたところ、よそも大体似たようなもので、そもそも崩御した1月7日の一ヶ月前に当たる年末からXデーは近いと目されており、どこも準備を万端にして整えていたため企業業務では大きな混乱はどこもなかったという見解を示しました。ただXデーがあらかじめ予想されていたためか、この年の正月は例年と違って非常に淡白な正月で、テレビ番組なども殊更におめでたいとは言わずバカ騒ぎするような番組もなかったそうです。

 そのほかに何かエピソードはないのかと続けて尋ねたところ、証言者が当時担当していたスポンサー企業からお悔やみ文をもらったことがあったという話が飛び出してきました。そのお悔やみ文は非常に体裁の整った古文のようなお悔やみ文だったそうで、来るXデーの際にはプレスリリースのような形で発表するよう指示を受けていたそうですが、その際にXデーの前にはお悔やみ文の存在を絶対に外に洩らさないよう要求されていたそうです。というのも、まだ崩御していない段階でこのような文章を作っていたとなると体裁が悪く、批判を受けかねないと考えたためだったそうですが、結局このお悔やみ文は日程の都合から使われることはなかったそうです。

 その次に、崩御後の日本経済はどうだったのかと尋ねました。東日本大震災では震災後に自粛ムードが広がり国内はおろか上海の日本食店すらも売り上げが落ちるほどだったので、それほどの自粛ムードなら陰りが見えたのではと想像したのですが、これに関して証言者は「影響はほとんどなかった」と否定しました。当時は末期とはいえまだバブルの最中で、また各企業で電子システムを導入するなどIT化の波が広がるなど投資も盛んで、テレビ番組では自粛が広がったものの実体経済自体は好調のまま推移していたとのことです。

 大体ここまでくればわかると思いますがこの証言者というのはうちの親父です。案外こういう小さな個人の視点での現代史記録は残されていないもので、1995年以降であれば私も多少は世の中わかるようになって自分の記憶で書けますが、それ以前となると年齢が上の人間に頼らざるを得ず、思わぬところで親父の話が聞いてて参考になりました。
 私は昭和59年(鼠年)の生まれですが、昭和という時代には全くと言って記憶がありません。たまに自分らの世代のことを「昭和ラストエイジ」と呼んだりすることもありますが、実質的には私は平成の時代の人間です。だからこそってわけじゃないですが、なるべく昭和から平成にかけてのこう言った証言は自分の生きてる間に後世へ残せるような証言を残しておきたいとも思えます。

2015年5月4日月曜日

我が一族と猫



 上記の動画は以前に見つけた猫動画ですが、やけに二本足で立つのが得意で妙な踊り方を見せる「桃太郎」という名前の猫が紹介されています。ほかにもこの猫にはいくつか動画がアップされていますが、どれもなんか猫らしくないというか、独特な表情と相まってやけに印象に残ります。
 知ってる人には早いですが私自身が猫を見るのが好きで、このような猫動画を暇さえあればよく検索して見ております。なんで猫が好きなのかというと単純に子供の頃から実家で飼われていた影響が何よりも大きいのですが、それ以前にうちの一族は猫と因縁があるというかちょっとしたエピソードがあります。

 これはうちの親父が生まれる以前の私の祖父の話ですが、祖父は戦時中に努めていた会社に派遣される形で上海に滞在しておりました。本国を離れての生活ながらも戦時中の上海は物資が豊富だったそうで、食料が不足していた内地とは対照的に祖父は毎日ステーキ食って毎日中国人と麻雀を打ったりして楽しく過ごしていたと話していました。しかし敗戦と共に祖父は日本へ帰国したのですが敗戦後の日本は全国どこでも物資が不足しており、戦時中の上海での生活とは打って変わってその日の食事にすら事欠くほど困窮していたそうです。

 日本帰国後のある日、いつものように祖父一家では食料がなく腹を空かせていたところ、当時飼っていた猫がなにやら袋包みを口にくわえて家に帰ってきました。一体何を持って帰ってきたのかと包みを開いてみると、中身は当時としては有り得ないくらいに貴重だった牛肉だったそうで、しかもきちんと切り分けられた状態で包装されていました。何故猫が牛肉を、しかもどっから持ってきたのかなどといろいろ突っ込みどころが満載ではあるものの、祖父一家は食べるものが無かったということもあって猫が持ち帰ってきた牛肉を、食中毒とかそういったことはあんま考えずに鍋かなんかで煮て食べちゃったそうです。後年この時のことを語るにつけ、「ほんまあの時は助かった、あの猫はええ猫やった」と述懐していたと聞きます。

 こうした縁(?)もあってか、うちの一族は基本みんな猫好きです。恐らく祖父の代に牛肉を持ち帰る代わりに将来に渡って敬い続けるよう契約めいたものを結んだんじゃないかと勝手に想像してます。この自分の推理にうちの親父も、「せやったんか」とやけに納得しておりました。

2015年5月1日金曜日

原爆と日本の降伏

 言うまでもないことですが日本は世界で唯一の原子爆弾の被爆国であります。二次大戦中に投下された原爆については米国と日本でその正当性について意見が分かれており、米国側はあくまで抵抗を続けようとする日本を降伏に至らせるのに必要だったとしているのに対し、日本側は当時既にソ連へ和睦の仲介を依頼しており原爆が無くても降伏へ動いていたことを米国は知っていた、それにもかかわらず原爆を投下したのは原爆の威力を確かめる実験的要素が大きかったとしてこの原爆投下を不必要な虐殺行為だったと批判する意見が大勢を占めていると思われます。
 現実問題として広島、長崎への原爆は市街地に投下されており一般市民を全く考慮しない虐殺であったことは間違いない事実ですが、こと日本を降伏に追いやる最後の一撃だったのか否かについては、私は米国側の意見の方が正しいのではないかとこの頃思えてきました。今日はこのように考え方が変わった経緯とその理由を書いてみることにします。

 日本は1945年8月15日にポツダム宣言を受け入れ、連合国側に対して無条件降伏を申し出ます。この降伏へと至る過程で米国側は原爆の威力が大きく影響したとする説が強いと聞くのですが、日本の歴史家などは原爆の威力に日本側も確かに驚いたものの、本当に最後降伏を決断するに至った大きな理由は8月9日のソ連の対日参戦であると主張する人が多いです。何故ソ連の参戦が日本を降伏へと追いやったのかというと、日本はそれ以前からソ連に対して内密に連合国との和睦を仲介するよう依頼していたのですがその依頼相手がこともあろうか不可侵条約を破って逆に日本へと攻めてきたため、無条件降伏以外に戦争終結手段が完全になくなってしまったことが当時の首脳の間で認識されたためとされています。
 上記のような日本側の考えというか定説に対し、私もまさにその通りだとこれまで考えておりました。原爆よりもソ連参戦の方が日本にとってショックが大きく、原爆自体は降伏決断にそれほど影響しなかったがソ連参戦は違って、文字通り止めの一撃とも言うべき状況の変化だったというように考え、このブログでも以前にこの説を展開しております。

 では何故、私の中で降伏する要因となった推測理由がソ連参戦から原爆投下へ変化したのか。変化したきっかけとなったのは半藤一利氏の著書「日本のいちばん長い日」を読んだことからで、この本では原爆投下直前から御前会議、宮城事件を経て玉音放送に至るまでの各関係者のやり取りを丹念な取材の元に細密なスケジュールでもって描かれております。
 この本を読んでみたところ、1945年4月に鈴木貫太郎内閣が成立した時点で政府は降伏への道を探り始めて様々な工作を始めていますが、やはり8月6日の広島への原爆投下直後から官邸内の動きが激しくなり、はっきりと「今すぐにでも降伏しなければならない」という方針が首脳の間で持たれる様子が描かれています。当時の首脳の間でも原爆の威力に対する驚きは非常に大きく、このままずるずると降伏が長引けば長引くほど日本は焼け野原となり再建が難しくなるだけだという認識が持たれていたようで、陸軍の阿南大臣すらも、天皇制が護持されることを前提としながらも降伏はやむなしという見解を示しています。

 先の半藤氏の著書によると6日の投下以降、官邸内ではどのように降伏を受け入れるのか、降伏条件をどうするのか、「Subject to」の解釈問題など連合国側の意向はどうなのかについて本格的な議論が始まるわけですが、そうして議論している間に長崎への原爆投下、そしてソ連の参戦が起こり、当時の状況についてこの本を読んだ感覚としては、「降伏に向けて準備している最中にさらに事態が悪化してきた」ような印象で、こういってはなんですがソ連の参戦が降伏へと至る決定打になったとはあまり思えませんでした。無論、ソ連の参戦は首脳間にも強いショックを与えている様子もしっかり描かれてはいますが。

 この半藤氏の著書と共にこの問題に関して影響を与えたのは、まさにこの当時にいた人間の肉筆とも言うべき、作家の山田風太郎が当時書いた日記でした。山田風太郎は戦前から戦後すぐの期間に自身が書いた日記を出版しているのですが、広島への原爆投下から2日後くらいに疎開先で原爆の報を知り、周辺の人々を含めその威力に対して大きく驚く様子が描かれています。もっとも、当時愛国心の高かった山田風太郎は級友と共に原爆対策として、「山中に地下基地を作るよりほかない」などとちょっと無理なことを当時言ってはおりましたが。
 私はこの日記を読むまで、原爆の威力や事実、被害などは国民には秘匿されていたのではないのかとも考えていましたが、実際には大半の人間が「広島に新型爆弾が使われたようだ」、「一瞬で街が吹っ飛んだ」という事実を知っていたようです。そして、その爆弾に対してまともな対抗手段が当時の日本にはなかったということも。

 以上のような理由から私は、日本が最終的に降伏へと至るきっかけとなったのはやはり原爆ではないかと考えるようになりました。この記事の内容に関しては反感を持たれる人間も多いのではないかと思いますが、それでも敢えてこうして記事に残すのかというと、やはりこの点に関してはもっとオープンにかつ様々な視点で議論すべきではないかと思ったためです。そして当時の状況を知る上ではやはり、きちんと当時の資料に基づいて物を見なければと改めて反省する限りです。


  

2015年4月30日木曜日

安倍首相の米議会演説について

 本日未明、米議会で日本の安倍首相が演説を行い、その内容について日系、海外系を問わず多くのメディアが大きく取り上げています。主な論点は安倍首相の歴史認識、というより二次大戦中におけるアジア諸国へ日本が行った行為の反省と謝罪があったのかなかったのかという点ばかり取り上げられているのですが、良くも悪くも首相演説がここまで大きく注目されるというのは珍しく、私の覚えている限りだとこんなの小泉元首相以来じゃないかと思います。
 ではその安倍首相の演説内容はどうだったのかですが、さすがに全文は確認せず各メディアで報じられている内容でしか確認していませんがその上で私の感想を述べるとするなら、なかなか悪くはない演説だったのではないかと考えています。

 まず一部日系、韓国系メディアが主張しているような従軍慰安婦などに対する言及がなかったことについては、そもそもこれは米議会での演説であって、韓国くらいしか問題視していない従軍慰安婦問題をわざわざここで話題に挙げるのはナンセンスでしょう。二次大戦全体については「痛切な反省」という表現を用いたとのことですが、まだこれなら日本と米国がこの戦争で戦ったことを考えると適当な表現だと思え、現在の日本の大戦に対する歴史認識を表現する上ではおかしくない気がします。米議員を前にしているのだからこそ、日米関係を中心にして演説することこそが筋でしょう。

 その日米間系に関する内容に関しては、なかなか見事だと感じたのはかの有名な硫黄島の戦いを引用したことです。硫黄島の戦いは日本人の間では映画「硫黄島からの手紙」が公開されてからその内容を知る世代が広がりましたがが、米国にとっては太平洋戦争で最も手こずったというか損害が大きく、また海兵隊がその軍としての存在価値を大きく明確化させるに至った戦いともあってその記憶に強く刻み込まれています。
 今回、安倍首相はこの硫黄島の戦いに参加した元マリーンと、硫黄島の戦いで日本軍を指揮した栗林忠道の孫である新藤義孝前総務大臣を招き、あの戦いに関係する両者がこうして同じ場に立てるほど日米の紐帯は強まったというパフォーマンスを行いました。私個人的な見方で述べるとこの演出は見事に感じられ、この一点をとっても今回の演説は非常に効果的だったと思います。

 こうした演出などが効を奏したのか、演説中に安倍首相は何度もスタンディングオベーションを受けるなど現地ではなかなか好評だったそうです。それに対し最初に述べた従軍慰安婦に関するやっかみが来たのはある意味、安倍首相が嫌いな連中からしたら目障りな演説のように見えたからこそではないかと思えます。逆を言えばそういう連中と明確に対立路線を打ち出している安倍首相にとっては一種好都合かもしれませんが。

 最後にどうでもいい豆知識ですが、「栄光ある失敗」で有名なアポロ13号の乗組員が地球へ帰還した際、この脱出艇を回収したのは「イオージマ強襲揚陸艦」で、この名前の由来は言うまでもなく硫黄島からです。そして映画「アポロ13」でこのイオージマの艦長役を演じたのはアポロ13号の実際の乗組員だったジム・ラヴェル本人で、映画を見る度に、「乗っとったのはお前やんけ」などと毎回心の中でツッコミを入れています。

2015年4月29日水曜日

ブログテンプレートを変更

 今日こちらのサイトを見て、「あれっ?」って思った方は多いのではないかと思います。見てわかる通り、このブログのレイアウトテンプレートを昨日までのシンプルなものから背景付きのテンプレートに変更しました。
 なんで変更したのかというと今日何気なくテンプレートの種類を見ていたらちょっと良さそうなのがあり変更してみたところ、一見して悪くないと感じたからです。元々以前のテンプレートは自分のソウルカラーであるオレンジ色した背景だったため嫌いではありませんでしたが、さすがにシンプルすぎやしないかと少し懸念もありました。

 今回のテンプレート変更に当たって気を付けた点としては、一にも二にもテキストが読みやすいか否かです。通常のブログと異なり私のブログはテキスト量が半端なく多く読む側にも相当な負担がかかっていると思われ、文字は可能な限り読みやすいようシンプルイズベストを心がけています。幸いこのテンプレートだと記事部分は白い背景がつくため文字はフォントサイズにさえ気をつければ割かし読みやすい形態です。あと今度のテンプレートだとリンクの付いたテキストは暗めの赤色で表示されるため、以前の明るみが入ったオレンジ色よりはなんぼか見やすくなっているかと思われます。

 テンプレート自体は既存の物であればすぐに変更できるので、しばらく使ってみて気に入らなければまた変更するかもしれません。今のところは気に入っていますが、こればっかはある程度時間かけてみないとわからないもんですし。

2015年4月28日火曜日

創業家列伝~長瀬富郎(花王)

 今更ながら恥ずかしい話ですが私は2005年に留学のため中国で生活していた際に初めてP&Gが日系企業じゃないということを知りました。ただ同じような間違いをしていた人はほかにも多くおり、何故それほど自国の企業だと誤解する人が多いのかというと単純にP&Gが世界市場で圧倒的なシェアを誇ること、各地域の市場に根差していることが要因ではないかと思われます。
 実際に石鹸やシャンプーといった一般消費財市場は世界規模でP&Gが大半のシェアを持っており、中には同じ業種で対抗する企業がほとんどないという国や地域もあると聞きます。そんなP&Gという巨人に対し、日本国内市場では花王という会社が「調査兵団」みたいな感じで割と頑張って抵抗してたりします。

花王(Wikipedia)

 後に花王を創業することとなる長瀬富郎はまだ江戸時代だった1863年に現在の岐阜県福岡町にある酒造業者の次男として生まれます。富郎は小学校を卒業すると親戚の商家に奉公へ出て下積み時代を過ごし、22歳の頃に自らの独立資金を貯めると奉公を終えて上京し、独立資金を増やそうと米相場の先物取引に手を出します。
 この時投じた金額は150円という明治初期としては非常に大きな金額ですが、案の定というか富郎はこの資金を全てすってしまいます。本人もこれには大分懲りたのか、「もう投機的なことは絶対しない」と言っては自分の信念にしていた節があります。

 独立資金を失った富郎は再び奉公に出てお金を貯め、25歳の時に再び独立して東京の馬喰町に洋小間物を取り扱う自分の店を構えます。この時はいろんな商品を取り扱っていたようですがその中でも富郎が目をつけたのはほかならぬ花王の代名詞ともいえる石鹸で、洗浄用としては幕末に海外から輸入され明治期には一般市民にも大きく普及していたものの当時の国産石鹸は海外性と比べて品質が著しく悪かったそうです。
 富郎本人も客からのクレームを受けながらまともな品質の国産石鹸を探しあぐね、以前の奉公時代に知り合った村田亀太郎という石鹸職人が独立して石鹸作り始めると聞くや富郎は専属契約を結み、村田と一緒に石鹸の品質改善に取り組むことになります。

 二人は薬剤師の親戚から石鹸に必要な知識や技術を学ぶと試行錯誤の末に一年半後、ついにこれはと言えるような石鹸を作ることに成功します。この石鹸を売り出すに当たって化粧用石鹸のことを当時は「顔石鹸」と読んでいたことから音を取って「香王」と名付けて商標を登録しますが、売り出し前に思い直し「花王」と改め、こちらの名前で売り出すことにしました。
 こうして売り出された「花王」石鹸は他者と比べて高い値段設定であったものの評判が評判を呼び、売り出しはじめから割とよく売れたそうです。しかし売れ行きが良くなるにつれて模造する業者が続出し、最初に商標登録までした「香王」や「花玉」などと似たような名前の石鹸が次々と売り出されたそうです。あながち昔の日本人も中国人を笑えんな。

 こうした模造品に対して富郎は何度か告訴したりもしましたが終いには「品質では勝ってる。ほっといてもパクリメーカーは潰れる」などと無視する方向に舵を切ります。その一方で自社製品の宣伝には当初より力を入れており、鉄道沿線に宣伝看板を設置するのを始め全国の新聞にも積極的に広告を掲載していきました。
 この間、品質の向上も怠らずに続けており、その甲斐あってか1904年に米国セントルイスで開かれた万国博では花王の石鹸がその品質を評価され名誉銀杯を取得しています。その後もシアトルやロンドンの博覧会でも賞を取り、国内外でその品質への評価は日増しに高まっていきました。

 このように書くと富郎の人生は順風満帆のようにも見えますが途中途中で何度か痛い目にも遭っており、いくつか例を挙げると資金余裕を持って工場の拡張に取り掛かろうとしたところいきなりメインバンクの東西銀行が破綻して多額の出費を迫られ計画を延期しています。ただ最初の米相場の失敗経験から堅実経営は貫いており、この時の出費で会社を致命的な所まで追い込んでいない辺りはさすがというべきでしょう。

 世界各国で石鹸が高く評価され始めた頃に富郎は病にかかり、晩年は割と寝たきりの生活が続いてたと言われます。病床で富郎は自分亡き後の会社について遺言状を下記、当時まだ小学一年生だった三男を後継者に指名した上で弟二人に後見人となるよう指示します。こうした備えを終えてから富郎は1911年、48歳という年齢でこの世を去ります。時代的にちょうど明治期を貫通するような生没年だったりします。

 長瀬富郎に関しては経歴以外はあまり書くネタを持っていないのが実情ですが、特筆すべきはやはりその品質へのこだわりでしょう。当初から高級路線で石鹸の製造を志していたことは間違いなく、それが発売当初から評価され現代に続く日系消費財メーカーの雄として活躍する下地はここにあると言えるでしょう。
 多少国策的なことを言えば、日系企業を応援するという意味ではP&Gよりも私は花王やライオンの消費財を敢えて選ぶようにしています。P&Gが嫌いというわけでもなく品質に疑いを持っているわけではありませんが、一応地元を応援するって意味合いで。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行

千葉のマッドシティ~ラーメン屋「兎に角」


 また松戸市民以外には全く需要のないこの連載ですが、今日は一部のラーメン好きにも見てもらえるかのようなラーメン屋紹介記事です。
 上の写真は松戸駅から徒歩数分のところにある「兎に角」というラーメン屋の入り口前の写真です。このラーメン屋は私の松戸潜伏場所からもほど近い所にあり、駅から潜伏場所に帰る際は必ずここの前を通過していたのでそこそこ思い入れのあるお店であったりします。それで通過する際はいつも、「おっ、今日はこのくらいで済んでるんだ」などと店の外まで続く長い行列を見てはよく感想を洩らしてました。

 この「兎に角」というお店ですが、ラーメン通にはそこそこ有名なお店らしく休日ともなるとほぼすべての時間帯でお客が列を成して待っている姿を見ることが出来ます。実際にここの近くにあって私が通っているカレー屋の店主(元ラリースト)も、「この周辺だと兎に角さんが一番ですね」と断言するほど昔から高い集客力を誇り、現在もなお繁盛し続けています。
 私も過去に、たまたま松戸に来ていた大学の先輩と一緒に行列に並んで食べに行ったことがあります。看板に書かれている通りにつけ麺が人気商品なのでこれを注文して食べましたが、口うるさい先輩曰く「まぁまぁうまい」と太鼓判を押し、私も人気店なだけあって確かにおいしいというため息が洩れました。味はやや濃口で、スープも割と濃厚だったと記憶しています。

 味覚は人によって異なるので誰もがおいしいということは恐らくないでしょうが、ひとまずほかの人にもおいしいお店だよと勧められるラーメン店ではあるので、興味のある方は寄ってみるのもいいかもしれません。

2015年4月26日日曜日

教員免許の国家資格化案に対する意見

 政治系ブログなのにゲームやマッドシティばかりこのところ取り上げていますが、今日は久々に政策に対する意見のような考察を書くことにします。

<教員免許>国家資格に 自民提言へ、資質向上図る(毎日新聞)

 上記リンク先の毎日の報道によると、自民党内で教員免許を現在の都道府県ごとの教育委員会による任命方式から、中央政府による一元的な任命方式に切り替える提案を準備しているそうです。切り替えに当たっては統一国家試験を設けるほか、1~2年程度の学校での研修期間も作ることなどが検討されているそうで、「教員の質の向上」をお題目にしてこれらの改革を行うなどと書かれてあります。
 この政策案に対する私の意見を最初に述べると全く以って反対で、現行制度が正しいわけではありませんがこの改革案だと何も改善が期待できず、また別の問題を噴出させる可能性もあると考えております。

 従来制度とこの国家資格化案とで最も大きな違いはなにかとなると、免許取得までの流れです。従来制度であれば大学で必要な単位を取得することで自動的に教員免許が得られますが、国家資格化案では単位を取得して大学を卒業した後に国家試験があり、その試験通過後にも数年の研修が課されることとなります。仮に報道の通りであれば新制度になると正式な教員として教壇に立つまで現行より数年遅くなることなり、そのかわりにしっかり研修なり教育なりを施すことで教員としての質を高められると考えているのでしょう。

私がこの国家資格案に対して反対する理由はいくつかありますがまず第一に大きいものとして、そもそも数年の研修でそこまで教員の質が上がるのかという疑問です。現在でも40代や50代といった教員として長い経験を持った教師ですら指導能力が著しく低くて問題となるケースを聞きますし、一年やそこらの研修で指導力が上がるかと言ってもそれ以前の問題のような気がしないでもありません。
 そもそも同じ「質の向上」というお題目で始まったものに弁護士資格のロースクール制度がありますが、少なくとも私が効く限りだとロースクール制度が始まってから弁護士の質が向上したなんていう話は一度として効いたことがありません。むしろこの制度で弁護士が量産された末に資格は取得したものの仕事がなく食っていけない弁護士が増え、行きつく先はグレーゾーン金利の取り立てばかりでむしろ前より質が低下していないかと思える状態です。

 話しは戻って国家資格化案に反対する二つ目の理由ですが、これもロースクール制度と被りますが、教員になるまでの期間を延ばすことによって教員志望者の懐というかお金の負担も大きくなる懸念があります。
 知ってる人には有名ですが現在、司法試験合格者は平均で数百万円の借金を背負っているという塔系が出ています。ロースクールに通って試験に合格するまでは全くの無収入で、そこからさらに司法修習生として研修を矯正されるため弁護士として独り立ちする頃には身動き取れないくらいの借金漬けな人が多いそうです。
 仮に教員試験も研修期間を設けるとしたら、その期間の収入はどうするのか。政府が出すのか出さないのか、出さないとしたら奨学金で借金を背負わせるのかという疑問があります。だったらあまり効果があると思えない研修なんてやめてとっとと現場に送る方が社会全体で効率がいいように思えます。

 最初にも書いた通りに現行制度も果たしてどうなのか、教員免許を取る人には効率のいい指導方法を学ぶ機会がちゃんとあるのかという疑問もありますが、少なくとも今回出てきた国家資格化案は何も改善がなく新たな問題を作る懸念が大きいとして今の状態であれば私は反対です。そもそも国家資格として定めることで資格取得者が保護できるか、質を上げられるかとは全く別問題でしょう。
 そもそも近年の日本の士業は先ほどの弁護士、公認会計士、行政書士など、どの資格も取得はしたもののほとんど仕事が出来ない、収入アップにつながらないなど権威の失墜が激しく進んでおります。そういう意味では教員免許だけとは言わず、日本の資格制度を根本から考え直すべき時に来ているのかもしれません。

2015年4月25日土曜日

国家への依存を高める傾向

 知ってる人には有名ですが故ケネディ大統領は生前、「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるのか」という言葉を含む有名な演説を行っております。この言葉自体がアメリカのマッチョイズムを強く体現している言葉ですが、私は敢えてこの言葉を現代の日本人にぶつけてみたらどんなもんだろうとこの頃よく考えます。
 結論から言うと、現代の日本人は少なくとも戦後以降としては過去最高と言ってもいいくらいに国家(=政府)に対して強く依存していると私は考えています。

 国家に依存するとはどういうことですが、先ほどのケネディ大統領の言葉を借りるならば、「国が自分に何かをしてくれることを期待する」ような状態の事で、具体的に言えば日々の生活や将来の社会保障などにおいて政府の支援を期待する意識が強い状態を指します。断言してもいいですが今の日本人の8割超は老後の年金を政府はきちんとしてもらわないと困ると考えていて、年金なんて当てにしないから自分自身の力で死ぬまで生きてやると割り切っているのは確実に少数派になるでしょう。ましてや、国家の年金を支えるために自分が頑張らないとと思う人間となると皆無になります。

 つまり国家への依存とは「国に何とかしてもらう」という意識の事で、私見ながら現代日本人はかつてないほどのこの依存心を今高めているのではと密かに考えているわけです。こうなった最大のきっかけとして思い浮かぶのは2011年の東日本大震災で、今思うとどうもあの後から風向きが変わったというか復興を始めとして社会保障、経済問題などで国の支援を強く当てにする声がそれ以前と比べて強まってきているように思えます。
 もちろん被災地の復興や経済対策などにおいて国家の役割は最も重要です。しかしその国家を当てにせず独力でも頑張ろうとする人たち、もしくはそうした対策を行おうとする国家を支えようとする動きや声はどうもそれ以前と比べると小さくなっているというか、「俺が国を引っ張ってやるぜ!」というようなちょいちょいウザいと思える熱い人間が実は減ってきているのではないかと思えてなりません。それどころかむしろ、少々乱暴な言い方かもしれませんが国家の支援がなくなると困ってしょうがない、頼むから何とかしてほしいというような請願のような態度すら見える時もある気がします。

 こんな風に思うのも私自身が極端に国家の保護を当てにしないどころか、「てめぇの助けはいらねぇ」とばかりにやたら反発したがる性格だからというのが大きいでしょうが、それにしたって今の日本人は政府の支援を少し盲目的に信じ過ぎなのではと危惧を覚えるほどです。歴史的な視点で述べるとするならば国家の前で個人なんて言うのはほんの小さなチリのようなもので、国家によって簡単に翻弄されることもあればあっさり見捨てられることも珍しくはありません。国家に抗うのは決して楽なことではありませんが、何もそこまで距離を縮めることはなく、適度に距離を置くだけでもそうした荒波から避けるのにいい手段ではないかと個人的に思います。

 この記事で私は国家に逆らえとまで言うつもりはなく、また同時に国家に尽くせと言うつもりもありません。ただ「国家がきっと何とかしてくれる」なんていう期待に関しては非常に危険な考え方であり、そうした思想を日本は全体で深めつつあるのではという危惧を誰かに共感してもらえれば幸いです。

2015年4月24日金曜日

「ファイナルファンタジー零式」をクリア!

 先月、プレイステーション4などでHD版が発売されたスクウェア・エニックスの「ファイナルファンタジー零式」というゲームですが、私は何故か最初に発売されたPSP版を自慢のPSVita(ソニー製なのに丈夫で有名)にダウンロード購入して遊んでいます。このゲームはタイトルからわかるように日本、嫌恐らく世界で一番有名なRPGゲームシリーズの「ファイナルファンタジーシリーズ」の一つで、携帯機向けタイトルとしてオリジナルのPSP版は2011年に発売されております。

 ゲーム内容を簡単に紹介すればアクションRPGといったところで、アクションが異なる各キャラクターを場面ごとに使い分けながら敵を薙ぎ倒していくゲームで、FFらしくレベルアップもあればブリザドやブリザガもあり、また戦闘シーン以外にもRPGらしくアドベンチャーシーンも多くてゲームのボリュームとしてはそこそこの量がありました。

 それでこのゲームですが、つい先日にようやく一週目を終えてクリアすることが出来ました。その上で感想を述べると世間の評判通りに傑作と言ってもいい作品で、遊んでいて結構楽しかったです。
 ストーリーは割とガチな戦争が舞台となっており、オープニングからして人がバタバタと撃ち殺される上にこのシリーズのマスコットキャラであるチョコボまで容赦なく撃たれるシーンは、「自分の知ってるファイナルファンタジーとちゃう」などと、一発目から度肝を抜かれました。元々FFシリーズ自体が人間の死をやたらクローズアップしたストーリーが多いのですが、このFF零式においては死ぬシーンがやたらとハードに描かれている上に最終的に名前付きで生き残る人間の方が少ない、というよりほぼ全員が皆殺しに遭うという「冨野版ファイナルファンタジー」みたいな結末になるので、合わない人にはこのストーリーは合わないと言われてもしょうがないでしょう。

 しかし私個人の印象で述べると全体的にストーリー展開は悪くなく、特にエヴァンゲリオン並に賛否両論が相次いでいるあのエンディング直前に関しては私は高く評価しております。詳細はネタバレになるので敢えて語りませんが、ラストバトルに至るまで展開はそれまでの世界観が一挙に崩れて進むほどかなりアップテンポな展開になっており、この展開が急すぎるという声をいくつか見る一方、私自身はストーリー中にそれとなく「そうなる」暗示めいたヒントが結構転がっていたので、急展開であることには間違いありませんがまたく意味不明でああした展開になるわけではないので内心アリだという風に考えております。あくまで個人的意見ですが。

 ただし、全体のストーリーでやや気になった点も少なくありません。一番気になった点を挙げると、このゲーム全体で「責任感のある大人」が誰ひとりとして登場していないことに強い違和感を覚えます。主人公たちを始め出てくるキャラクターはほぼ全員がやたら若いイケメン&美少女キャラばっかで、敵側には1人だけ混ざっていますが威厳があって渋さを覚えるような大人なキャラクターが全く出て来ず、こういってはなんですが「子供だけのピーターパンの世界かよ」という印象を覚えました。
 一応味方にもおっさんキャラが少しは出てきますが、どいつもこいつも嫌味しか言わないハゲばっかで大人の威厳なんてありゃせず、そのくせやたら若いイケメンが活躍したりとキャラを美化するのは勝手だけど年齢層的に少々薄っぺらくはないかこの世界はとやっててつくづく思いました。主人公たちが全員高校生くらいの年齢にするのは別にいいんだけど、こういうのをちゃんと引っ張る大人の姿ももう少し描けばよかったのではと苦言を呈しておきます。

 ゲーム性については言わずもがなですが、ほかのレビュアー同様に個性がしっかりと別れたキャラクターのアクションは使っているだけで楽しいし、敵キャラとのゲームバランスも非常に良好で、また各戦闘も難しすぎず優しすぎずで、それでいて戦略性を持って臨めば楽にクリアできたりといい仕上がり具合です。

 最後、これはこのゲームを遊んだ人間すべてに共通する意見だと思いますが、エンディングで流れるテーマソングが素晴らしくよかったです。そのテーマソングはBUMP OF CHIKENの「ゼロ」という曲でこのゲームのために書き下ろされた曲だそうで、ゲーム製作者もこの曲があって初めて完成したと言うだけあってゲームのストーリーと歌詞がよく噛み合っており、それでいて歌い方というか耳に入る言葉一つ一つがこのゲームにおけるたくさんのシーンを思い起こさせる歌い方になっています。このテーマソングだけでなくゲーム中に流れるBGMはどれも情景に合ってて格段に優れていますが、最後のあのエンディングでこのテーマソングは卑怯だよと言いたくなるくらいに心に響きました(ノД`)

Wordpressでのテキストエディタの切り替え不良問題

 今日は勤務している工場のある一帯が停電のため臨時休業となり自宅で過ごしてましたが、折角だから姉妹サイトの「企業居点」でポチポチと更新していました。そしたら作業中、突然記事投稿画面でビジュアルエディタとテキストエディタの切り替えが出来なくなるという妙な問題が起こって「こは如何に」と妙な古語が口から出てきました。

 そもそもビジュアルエディタとテキストエディタとはなんなのかですが、大抵のブログソフトの記事編集画面には実際にホームページで公開された状態、言い換えるとHTMLが反映された状態で編集する画面と、HTMLを直接打ち込んで編集する画面の二種類を自由に切り替えられるようになっており、Wordpressの場合は前者がビジュアルエディタ、後者がテキストエディタだと呼ばれます。
 私が記事を編集するさいは両画面を切り替えながらリンク貼ったり改行弄ったりするのですが、それだけに切り替えが出来なくなると記事編集自体が出来なくなるので非常に困ります。思い当たった原因としては最近、ベースとなるWordpressのソフトが新バージョンに更新されたのでその影響で追加ソフトに当たる「プラグイン」と呼ばれるソフトの中で新バージョンに対応していないのもあり、それが悪さをしているのではないかと推測しました。

 なわけで早速プラグインをしらみつぶしに一つ一つ無効化させて不具合が直るか直らないか試した見たところ、意外とあっさり犯人は見つかりました。今回の私の場合、「Jetpack」という、閲覧数の統計やスパムコメントのブロックなどWordpressに様々な機能をまとめて追加してくれるプラグインでした。これ一つを止めたところ先程の問題はピタリとなくなり、こちらが驚くほど万事丸く収まってしまいました。
 しょうがないのでこの「Jetpack」はしばらく封印せざるを得ないですが、なくてもいいといえばそれまでなのでもしかしたらこのまま削除することになるかもしれません。

 ちなみに今日はまた150件ほど海外拠点データを打ち込んだ後、このブログで連載している「創業家列伝」をそのまま向こうのサイトにもコラムとしてアップロードしました。同じ経済系のネタだから相性いいだろうという判断からですが、アップロードに当たって以前に書いた安藤百福に関する記事を読み返し、「俺もええこと書いとるやないけ」と自分で書いた記事を自分で読んで感動してました。

 そもそもあの創業家列伝自体、安藤百福について記事を書きたいと思ったことがきっかけで作った連載であって、正直な心境を話すとほかの人物については小倉昌男を除いてやはり熱意が一段低くなっております。この辺は佐野眞一氏も書いておりますが、経歴が怪しかったり物凄い決断をするような人間的魅了に溢れた人物はルポ記事を書く側にとっても魅力的で、書き手からしても「この人物を書きたい」という気持ちにさせられます。安藤百福然り、中国史の猛将然り、紹介したいと思う人物に対しては全力疾走で記事が書けますがそうでもない人となると引き上げられる熱意にも限界があります。
 もちろん、この連載で取り上げている人物はどれも面白い人たちだし、そこそこ熱意を盛って書いてはいるつもりです。しかし安藤百福と同程度にまではモチベーションを上げ切れず、多分記事を読んでいる方にしてもそういう温度差が感じられるのではと推測しています。この前書いた樫尾四兄弟の記事なんかいい記事にしようと執筆前に集中しながら音楽聞くなどしてややトランス入った状態にしてから書きましたが、悪くはない仕上がりだけど他を圧倒するかのような記事にはとうとうできませんでした。好き嫌いで仕上がりに差がつくというのはよくないんだけどなぁ。

2015年4月22日水曜日

創業家列伝~鈴木道雄(スズキ)

 軽自動車大手であるスズキの経営者ときたら現会長の鈴木修氏が非常に有名ですが、その創業者となるとトヨタの豊田喜一郎やホンダの本田総一郎と比べると印象が薄い気がします。案外ほかで紹介されていることが少ないような気がするので、いい機会なので今日はそのスズキ創業者である鈴木道雄を紹介しようと思います。

 スズキの創業者となる鈴木道雄は1887年に静岡県浜松市にある農家の次男として生まれます。知ってる人には有名ですが浜松市は豊田佐吉や本田総一郎など著名な日本人発明家が数多く生まれており、知る人ぞ知るパワースポットだったりします。なんでここに発明家が集中しているのかいくつか仮説はありますが、一番大きいのは恐らく繊維産業の中心地だったということに尽きるでしょう。

 話は戻りますが道雄の家は貧しかったために道雄も14歳から大工へ奉公に出ております。道雄を雇った大工は当初は通常通りに普請を手掛けていたそうですがある時期から木製の足踏み織機の製造販売を始め、弟子でいた道雄も一緒になって織機を作り始めたそうです。
 奉公に出てから7年後、21歳となった道雄は大工の親方から独立して織機職人として活動を始めます。道雄は自ら設計した織機第一号「鈴木式織機」を自分の母親へプレゼントするのですが、この織機が他の織機と比べて能率が格段に優れていると評判になり道雄の元にはたくさんの受注依頼が舞い込むようになります。こうした追い風を受けた道雄は従業員を雇い入れるなど事業を拡大し、1920年には「鈴木式織機株式会社」を設立して経営者としてのスタートを切ります。

 道雄の会社は大正の大戦景気後の不景気にも揺さぶられることなく順調に拡大していき、昭和に入ると娘婿で後に二代目社長となる鈴木俊三がアジア各国を回って織機を売り歩き、インドネシアに至っては約2万5000台の織機を出荷するにまで至ったそうです。こうして織機メーカーとしてその名をとどろかせる一方、道雄は日本にも欧米のようなモータリゼーションの時代が来ると考え、そもそもの発明家としての気概からか戦前の時代から自動車の開発を手掛け始めます。
 道雄はこれまた別の娘婿でありエンジニアでもあった鈴木三郎にまずオートバイエンジンの試作を行わせ、これに成功してから四輪自動車の試作車開発にこぎつけます。ただその後、二次大戦の本格化に伴って自動車開発は一時ストップし、会社も軍部から指定を受けて軍需品の生産を引き受けることとなります。

 終戦後、軍需工場がたくさんあったことから浜松は戦火に焼かれて道雄の会社も大半の工場が消失する憂き目に遭いました。しかし比較的被害の少なかった工場で鍋釜などの生産から再開したところ政府から大量の織機の注文を受けたことで再び息を吹き返し、新規開発にも取り組めるだけの体力を戻すに至りました。
 この時に先程出てきた娘婿の俊三(後の二代目社長)から提案されたのが、自転車に原動機を付けた製品、ってかそのまんま原動機付自転車こと原付でした。待望のスズキ製原付第一号は「バイク・パワーフリー号」という名前でこれが大いに評判となり、道雄たちはこの後も続々と二輪車の新製品を市場へと売り出していきます。

 道雄自身はこの時代からかねてから夢だった四輪の開発に従事したかったもののまた時期尚早と考え、この時期は二輪の開発に従事し続けたそうです。その甲斐あってか1954年には4サイクルエンジン二輪車の「コレダ号CO型」が富士登山レースで優勝し、「二輪のスズキ」という名を全国に轟かせ、それに合わせてか同年には会社名を「鈴木自動車工業株式会社」に変更しています。

 会社名の変更とともに道雄はいよいよ四輪車の開発を社内に指示します。しかし社内からはまだ四輪について何のノウハウもなくまだ時期尚早だという声が強かったそうですがそこは道雄が押切り、社内から設計が出来る人間を選抜して開発チームを組織します。もっともこの時に選抜されたメンバーは3人とも運転免許すら持っておらず、運転免許を持っているという理由だけで途中から静岡大を出たばかりの新人2人を追加するという状態だったそうです。勢いだけはよく感じる。
 開発チームはまず既に発売されている他社の自動車を購入し、分解するところからはじめ、比較的構造が簡単で模倣がしやすいという理由からロイトLP400をベースに試作車の開発を始めます。この開発の間、道雄は多忙にもかかわらず朝早くから研究室に入って開発メンバーを激励し続けたと言われており、やはりというか自動車に対する並々ならぬ情熱があった模様です。

 試作車開発に当たって様々な困難はあったものの今も動き出したら結構早い鈴木なだけに、開発開始からわずか8ヶ月で試作車は完成しました。出来上がった試作車2台は輸入自動車販売大手のヤナセの二代目社長である柳瀬次郎に実車を評価してもらうため浜松から東京へと試運転を行いましたが、最大の難所である箱根越えで1台がトラブルを起こし、仕方なくマフラー外して無理矢理運転することでどうにかこうにか東京へと持っていくことが出来ました。
 到着時刻は既に夜11時を過ぎていたものの柳瀬次郎はスタッフ一同共に工場前で出迎え、持ってこられた試作車を夜中ずっと乗り回してその性能を確かめたと言います。その上で道雄に対し、「認めてやろう。いい車だ」と、「頭文字D」の須藤京一のようなセリフを言ったかどうかは定かではありませんがとりあえず高評価を下し、道雄も俄然自信をつけたと言われます。それにしてもこの柳瀬次郎も面白い人だな。

 この後もありとあらゆる改良がくわえられ、翌1955年に満を持してスズキ初の自動車、そして世界初の軽自動車である「スズライト」が発売されることとなります。なおWikipediaの記述によるとスズライトの初代ユーザーは女医で、当時は軽自動車なら二輪免許だけで運転できるということで往診の足として購入したそうです。

 このスズライトが発売された2年後の1957年に道雄は社長職を引き、1982年まで長生きした上で往生を遂げています。彼について私の評価を述べると、戦前の代から自動車開発に強い情熱を持ちつづけスズライトの開発を主導した経緯を考えると、非常に粘り強い精神の持ち主だなという印象を覚えます。特にスズライト開発に当たっては本当に何もノウハウがない所から、日産やトヨタの様に資本にも余裕がない状態にもかかわらずかなり体当り的に作り始めたことを考えると今も昔もスズキはワンマントップのバイタリティが半端なく高い会社と言えそうです。

 そんなスズキの代表的な特徴といったらなんといっても代々の経営トップがその前のトップの娘婿が就くという点にあります。道雄→俊三→修と、俊三と修氏はどちらも娘婿として鈴木家に入っていますがどちらもスズキの成長に大きく貢献しており、特に現在の修氏は金融業界から入ってきたにもかかわらず現在の日系自動車メーカートップとしては最も高い評価を受けている人物です。前にも書きましたが修氏がスズキに入社して間もなく、周囲から「銀行屋風情が」と言われながらもジムニーのライセンスを購入したという話は「慧眼まさに恐るべし」と感じるほどのセンスの良さを覚えます。

 そういう意味ではスズキもオーナー色が濃くリーダーシップが強い会社と言えるのかもしれませんが、直接の血縁者ではなく優秀な外部の人間をオーナー一家に代々取りこんでいるという点ではかなり特徴的な日系企業と言えるような気がします。まぁこの辺はほかの人もたくさん書いているので詳しく書きませんが、「葵徳川三代」みたいに「Sの字鈴木三代」ってドラマとか作ったりしたら案外面白いんじゃないのとくだらないこと言ってまとめにしたいと思います。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行

2015年4月21日火曜日

現代神話は何故作られるのか

 今日はちょっと短くこの前考えたことについて書きますが、いつの時代もというか日本ではよく「少年犯罪の凶悪化」や「子供の学力低下」の二つが取り上げられます。しかし少年犯罪は70年代とかと比べると規模も内容も現代の方が圧倒的に小さいですし、ゆとり教育の世代もよくよく調べてみると大学入試の問題は難問化していて実際は二極化の傾向が強かったりして、現代神話ともいえる先程の二つの言葉は実態を表していないどころか、むしろ内容的に間違っている可能性が高いです。では何故内容的に実態を表していない言葉が、現代社会に置いてこれほどまで広く流布されるのでしょうか。

 私の考えをスパッと述べると、「そうであってほしい」と願う人間がたくさんいるからこうした現代神話は生まれるのではないかと思います。どちらも子供関連、それも教育に深く影響する内容ですが、現代教育が間違っているということにしたい人間が案外こういう神話をはやらせているのではないかと何の根拠もなく思えてきました。
 考えてみると現代に限らず、神話というのはどの時代でも案外そのように「そうあってほしい」という願望が下地となって作られている気がします。天皇降臨節とか天地創造説とか、作った人間に都合のいいように、権威がもたれるようにして作られているのではと思えてきます。現代における神話とも言うべき眉唾な話しなども、基本はこういった願望が根拠を含まずに独り歩きするものが大半でしょう。

 なおそういう、「そうであってほしい」ことが一番感じられる神話を敢えて挙げるとすれば私の中だと「マリアの受胎」で、ダヴィンチの師匠に当たるジョットが「聖誕告知」の絵でマリアの夫・ヨセフを何やら不安そうな顔に描いた理由を問われた際、「そりゃそうだろ。妻のお腹にいる子供の父親が誰なのかわからないんだからさ」と答えているだけに、ヨセフからしたら「そうであってほしい」と強く神話を信じたんじゃないかと思います。

2015年4月19日日曜日

中国雑誌の山口組特集

 昨夜は上海に行って友人と一緒に夕食を取った際、昨日に書いたベルリン五輪の日本人選手の記事で「トレーナーにNIPPONって書いてあって時代を感じた」と話したところその友人から、「でも花園さんも夏場はよく、胸にHONGKONGって書いたTシャツ着てるじゃないですか」とツッコまれて苦笑しつつ、「俺、香港好きやねんから……」としか言えませんでした。なお「I♡上海」のTシャツもよく着て徘徊しています。
  そうした私のTシャツセンスは置いておいて本題ですが、前日に引き続き上海をうろうろしていたところ売店で気になる表紙の雑誌が売られていたので衝動買いしてきました。


 余計な説明は最早不要でしょう。何故だか知りませんが中国の雑誌に日本最大、というより構成員数では世界最大のマフィア組織である「山口組」の特集が組まれていました。なお表紙に書かれている言葉は「アジアで最も有名なマフィアの生存法則(サバイバル技術)」といったところです。

 興味津々でページを開いてみたところこの特集記事を書いたのは日本人ライター二人で、中国人から見た山口組とはどんなものかというのが見たかっただけに少し残念でしたが、記事自体は非常によくまとめられており、後述するよう日本では「週間大衆(ヤクザ業界の業界紙と個人的に考えてます)」くらいにしか書けないネタも書かれてあってなかなか興味深い内容でした。
 主な内容は神戸港の港湾運搬組織から発祥する山口組の歴史と彼らを取り巻く「暴力団対策法(暴対法)」を中心とした現況、そして日本社会のヤクザに対する見方などでまとめられています。山口組の歴史についてはネットにも詳しい記事がたくさんあるのでここでの説明は省略しますが、この特集記事ではある意味で現代山口組の祖ともいえる三代目・田岡一雄の来歴が詳しく語られており、映画の「三代目襲名」で田岡を演じた俳優の故・高倉健が田岡と並んで2ショットで写ってる写真が何故か添えられています。今だったらこんな写真は撮れんわな。

 山口組の歴史について書かれている部分で興味深かったのは、山口組が芸能事業に進出した昭和の初め頃より吉本興業と手を組んでいて、現代においても重要な傘下組織であるということをはっきり書いてある点です。山口組と吉本興業の間となると何人かの芸人が構成員と付き合いをしているという報道は日本でもたまに出てきますが、吉本興業の発足当初から会社ぐるみであるとスパッと書いてあるのは中国雑誌ゆえでしょう。なおこちらはタブーが取れかかっていますが美空ひばりも山口組傘下の芸能事務所で活動していたと触れ、あと現代では芸能事務所のバーニングは今でも付き合いがあってこのバーニングに所属する誰もが知るような有名芸能人の名前もいちいち挙げています。
 このほかの記述となると北野武氏のヤクザ映画と彼本人のヤクザに対する意見などを引用して、日本の芸能界とヤクザは関わりが深いことを比較的冷静に紹介しています。実際、否定できないし。

 それとなかなか読ませられた部分として、暴対法について書かれてあるところは面白かったです。記事中では日本の暴対法について、「このようにマフィア組織を対象とした規正法はほかの国には存在せず、ある意味でヤクザの存在を法律上で認めているような法律でもある」と指摘しており、私もこの指摘は至極その通りのように見えます。そして1992年の施行以来、この法律による摘発を恐れ庇護主を得るために山口組に参加する規模の小さい暴力団が多かったと述べ、山口組の勢力拡大の一因にもなったとも指摘しています。
 ただ規制の威力自体は高く、施行以来ヤクザによる犯罪は減少しており、またヤクザ関係者からも悲鳴にも近い暴対法の見解を引用した上で、「ヤクザをやめるか、警察に捕まるか、どちらにしろ彼らは消えていく存在だ」という警察関係者の言葉でまとめています。

 果たして、中国人はこの記事読んでどう思うのだろうな。試しに何人か読ませてみようかね。

2015年4月18日土曜日

ベルリン五輪に出場した日本人レスリング選手

 今回はちょっといつもと趣向が異なる記事で、友人から提供いただいたちょっとした記録的写真を紹介します。


 この写真はこのブログによくコメントくれる若生わこさんから提供いただいた写真です。写真に写っている人物は誰かというと若生さんの親戚で、見ての通りというレスリング選手だったそうで1936年のベルリンオリンピックに日本代表として出場した際に撮ったのがこの写真だそうです。


 如何にもベルリンって感じがするのはこっちの写真ですね。日本人でありながら体格の大きいドイツ人と並んでいても見劣りしない辺りさすがはレスリング選手だという気持ちを覚えます。ただ、「NIPPON」って刺繍のあるトレーナーはいくらか時代を感じてしまいます。


 こちらは日本国内で撮影された写真のようです。このベルリン五輪に日本はレスリング選手を明大から二人、早大から三人を選出して計五人だったとのことですから、一番右の方が監督で他の方々がその五人のレスリング選手だと思われます。


 こちらも日本国内で撮影されたものと思しき写真で、郷里の壮行会で撮られたのでしょう。この時代でありながら居並ぶ面々がスーツ姿のきちんとした身なりで、また神主さんもしっかり写っているのが印象的です。一人だけ女性も写っていますが、この人が母親なのかな。


 こちらが最後の写真となります。日本の国旗、五輪のマークの入ったバッヂがついている辺りは日本代表らしい姿で、体格ががっちりしている分スーツ姿が堂に入っています。このほか思いつく点としては髪型が比較的現代の見方でもそれほど時代を感じさせない髪型で、現代と時代が続いているんだなという気がします。

 戦前の時代の写真はそこそこ残っていますが、オリンピック選手の写真となるとこれまで案外見たことがなかったので今回提供いただいた写真は素直に新鮮な感じを覚えました。改めて写真を提供いただいた若生さんにはここで感謝を述べさせてもらいます。

2015年4月17日金曜日

創業家列伝~樫尾四兄弟(カシオ計算機)

 たまに友人から、「あの創業家列伝の連載ってもう終わったの?」って突っ込まれるほど掲載時期に幅のあるこの連載です。書けるネタ、書きたいネタはたくさんあるものの書く前にそこそこ調べものとか準備がいるので、ついつい執筆が後回しになってしまっているのが現状ですが、今の所マッドシティとかほかにもいくつか連載記事を抱えたりしているのでなかなか手が回らないのが本音です。てんかん発症気味の状態だったら無限のエネルギーで延々と書き続けられるんだけどなぁ。
 そういうわけで今日の創業家ですが、意外と書かれている評伝が少ないと思われるカシオ計算機の創業家、というよりは創業一家である樫尾四兄弟を取り上げます。

カシオ計算機(Wikipedia)

 往年の世代の方であれば「答え一発カシオミニ!」というこのキャッチコピーを覚えているのではないでしょうか。このコピーと共に一世を風靡し、それまで企業向けにしか需要のなかった電卓を一気に個人用として普及させた電子電卓「カシオミニ」は現代においても「電卓といったらカシオ」と言われるほどの大きな成功を収め、同社を優秀な電子機器メーカーとして名指しめました。そのカシオ計算機を創業したのは現社長の樫尾和雄氏(三男)、現副社長の樫尾幸雄氏(四男)の兄である樫尾忠雄(長兄)とその弟の樫尾俊夫(次男)であり、実質的に四兄弟の団結によって生まれ、繁栄した会社と言っても過言ではありません。

 長男の忠雄(以下名字は省略)は1917年に現在の高知県南国市で、農業を営む両親の元で生稀増した。忠雄がまだ幼少だった1923年に一家は関東大震災後の東京に移り住み、その翌年の1924年に次男の俊雄が生まれています。
 一家の生活は決して裕福ではなく忠雄は小学校高等科を卒業した十三歳の頃には就職し、巣鴨の榎本製作所で旋盤工として働き始めます。ここの会社の社長をしていた榎本博は忠雄の熱心な仕事ぶりを認め、自ら学費を負担する形で十六歳になった忠雄を早稲田の夜間学校へと通わせ、忠雄もまたその期待に応えギリギリまで仕事こなしつつ勉強もしっかりこなして無事に卒業を果たしました。
 しかし善人ほどとでもいうべきか、戦時色が強まっていた1936年に榎本博は軍から召集を受け、そのまま戦地で散る運命となりました。榎本の出征に伴って榎本製作所は閉鎖しましたが、榎本は出征の前に忠雄へ愛用のノギスを託したと言い、このエピソードだけでも両者の強い絆というか忠雄の将来性を深く買っていたということが伺えます。

 榎本製作所の閉鎖後、忠雄はいくつかの会社を渡り歩き1942年には間借りの工場で独立を果たします。その後、戦争が終結した翌年の1946年に東京都三鷹へと移り「樫尾製作所」を正式に発起して、この時点を現在のカシオ計算機は創業年として取り扱っています。
 ただ独立を果たしたものの当時は敗戦直後で物資は何もなく、工作機械にすら事欠く有様だったようです。どうにか中古の機械を調達する算段が出来たものの売主は長野県諏訪市にいたため、父親の茂がリヤカーを引いて往復300キロを渡り歩いてわざわざ運搬してきたほどだったそうです。それにしてもガッツのある父ちゃんだ。

 またこの時、兄同様に優秀で当時逓信省に技術者として勤めていた次男の俊雄が公務員という職を捨てた上で樫尾製作所に入社しています。少しでも兄を手伝いたいという一心からの行動だったということで、創業当初はまさに兄弟二人三脚であれこれ製品を作ってどうにかこうにか会社を回していく状態だったらしく、手元の資料によると兄弟がうどん製造機を作って、それで作るうどんを家族が売り歩くということもあったそうです。
 そんなこの兄弟の初のヒット商品は指輪に煙草を差せる突起をつけた「指輪パイプ」で、煙草をスパスパ吸う兄を見た俊雄が発案した作業しながらでもタバコが吸えるという製品でした。これが意外にヒットして1日300個も売れる日もあり、創業当初の経営を大いに支援してくれました。

 そしてこの指輪パイプに続いた商品というのが、カシオの代名詞ともいえる電卓こと計算機でした。この時既にスポーツマンで行動的な三男の和雄氏、温和で研究肌な四男の幸雄氏も入社しており、四兄弟が揃い踏んだ上で計算機の開発に心血を注いでついにソレノイド式計算機の自社開発に成功します。なお、このカシオのソレノイド式で初めて採用されたボタン配置というのが現在のテンキー配置だったりもします。
 ただこの時のソレノイド式計算機は演算速度は高かった掛け算を連続して行う連乗機能がなく、商社からは欠陥商品としてあまり相手にされなかったようです。その悔しさをばねにしてか四兄弟はソレノイド式から今度はリレー式の計算機開発に手を付け、1956年には「14-A型リレー式計算機」の発明に成功、翌年に内田洋行と販売契約を結び正式に売り出したところ市場からも高く評価され、「電卓のカシオ」という名を始めて轟かせるに至りました。

 しかしこの時のカシオの成功を見た同業他社もこぞって電卓の開発に乗り出し、電卓市場の競争は非常に激しくなっていきました。カシオもスタート当初でこそリードしていたもののあっという間に技術的差を詰められ、究極のリレー式計算機として開発していた「81型」は当時普及し始めていたトランジスタ採用の電子式計算機との比較によってほとんど評価されず、ほぼ完成しておきながら結局製品化はせずにお蔵入りになるという憂き目を見ています。
 なおこの時カシオの最大のライバルとして電子式計算機を持って立ちはだかっていたのはあのシャープです。こういういい時代もあったんだなぁ。

 この時は最初の電卓の成功でいい気になってゴルフ三昧だった四兄弟も気を入れ直し、1965年には市場の要求に追いつこうと遅ればせながら電子式計算機の開発に取り組みます。元々切り替えの早い会社でもあるようだし社員も優秀な人材がそろっていたこともあって開発開始から一年足らずでカシオ初の電子式計算機「カシオ001」を世に送り出し、一旦開いた技術的な差を一挙に埋めることに成功し、「電卓のカシオ」の名を維持し続けました。

 そしてそれから7年後の1972年、ほとんど法人向けにしか売られてこなかった電卓を個人向けに売る道はないかとカシオは動き出します。当時カシオの社員で現在はオプトエレクトロニクス会長の志村則彰氏を中心に、カシオは個人向け販売に当たって最大の障害となる生産コストの削減を様々な方法で探り、キーをリードスイッチからパネルスイッチにしたり、演算処理にLSIを導入したりなどしてついには当時の市場価格の約3分の1程になる12,800円という定価で恐らく世界初の個人向け電卓「カシオミニ」を世に送り出します。なお原価は4,500円程度だったらしく、定価の設定は社長の忠雄がトップダウンで、というか製品発表日に突然決めたそうです。

 このカシオミニは発売当初から大きな話題を集め、発売からわずか十ヶ月でで百万台を販売するなどカシオにとってかつてないほどのヒット商品となり、やはり「電卓のカシオ」と当時は言われたことでしょう。しかもこの時の日本ではボウリングがブームで、ボウリングの点数計算に当たってその使い勝手の良さが評価されたことが追い風となり、電卓を販売した競合メーカーを市場から一気に叩き落とすほどの成功を得ています。

 その後もカシオは電卓にとどまらず、電子楽器の「カシオトーン」、高耐久性電子腕時計の「G-SHOCK」など独自性の光る商品を次々と発表し、現代においても一芸のある電子機器メーカーとしての地位を保ちながら「電卓のカシオ」という看板を守っています。何気に私もカシオの電卓使ってるし、例の1・3・7・9・AC同時押しの裏技も知ってるしなぁ。

 このカシオという企業について私見を述べると、本当に創業当初から四兄弟が一緒になって盛り立てきて現在も社長と副社長が三男と四男という辺り、いい意味で「創業者が一人の会社じゃない」という印象を覚えます。しかも長男と次男は既に逝去していますが、生前もケンカがあったなどというエピソードは聞かず仲が良かったようで、比べては悪いですがどっかの化学品メーカーの兄弟がいやでも頭に思い浮かんできてしまいます。
 既に述べていますが、カシオというのは一癖、一工夫ある商品がやはり多いように思え、四兄弟のオーナーシップがその独自性を高めているようにも覚えます。その点ではこの会社も一種の家族経営企業とみても間違いではなく、その数少ない成功例として考えてもいいと私の友人は話していました。
 ただなんでもかんでも成功してきたというわけではなく、1995年には「ルーピー」という女の子向けを意識したゲームハードを発売したものの市場から認知されることもなく淘汰されています。それにしても、現代でこの名称聞くとこっちもまたある元首相が浮かんできてしまうな。

  おまけ
 先週末に自分の所属するサイクリング部のメンバーと共にボウリングをやってきましたが、みんな揃いも揃って下手で誰もスコアが100に届くことがありませんでした。しかしレベルが低い分、みんなして実力が拮抗したため結構熱くなって楽しかったです。なお昼食はサイゼリヤ。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行