これなんか私の友人は耳にたこができるくらい聞かせている話題なのですが、私は自分自身に、あまり生きる価値はないと思っています。昔から周りに迷惑ばかりかけていて、キリスト教的価値観で考えるとどう転んだって死後は地獄行き決定な人間だと思いますし、中学生くらいの頃から二十歳まで生きられればひとまず御の字かなと思っていました。そのため二十歳を超えた現在では、二十歳を超えた年数分、余分に生きてしまったと常に悔いている毎日です。
しかし、それでも私はある一点において自分の生きる価値は非常に高いと考えています。その一点というのも、私の能力です。
前回の記事でも書きましたが、人からよく指摘され、誉められるのは私の膨大な知識量です。事実私自身も自分の持っている知識の量には自信があり、自分という人間が死ぬことは全く惜しくはないのですが、自分が死ぬことでこの知識の山がこの世界からなくなってしまうというのは、どう考えてももったいないと考えてしまいます。同様に知識だけでなく、世の中を見たり、立案を行える思考力にも自信を持っています。
実は先日、信長の野望をやりながらふと思ったことがありました。こういう私の生きる価値感というのは忍者に似ていないか、何故か他国の武将の暗殺成功時に思いつきました。
もっともこれは講談の中だけの話でしょうが、司馬遼太郎氏の「梟の城」という作品で書かれている忍者のように、豊臣秀吉を暗殺しようとする忍者が、かつて織田信長によって忍者の里を滅ぼされた恨みとか天下国家のためとかという理由ではなく、自分が磨いてきた忍の技術を証明したいというためだけに警護の厳しい秀吉の暗殺を謀る、というような心理に近い匂いを感じました。。
この価値観と真逆なのは言うまでもなく、武士の価値観です。よく言われる「葉隠」の一説にある、「武士道とは死ぬことにあり」というのは事実的にも間違いで、私の見る武士の生の価値観とは、すべてお家にあると思います。如何に自分の一族を栄えさせるか伝えるか、そのお家のために自分は歯車となる、というようなのが日本の武士の価値観だと私は考えています。言ってしまえば、あくまで講談の中だけですが忍者というのは自分の技術のために生きる個人主義なのに対し、武士というのは家族主義、ひいては全体主義的な価値観ではないでしょうか。
どちらも自分個人が生存する価値観というのは希薄です。忍者は、くどいようですが講談の中では仕事を完遂することが主目的で、そのために自分の命を投げ打つ事すらあります。武士もお家のために、捨て身の奉仕を自らに要求します。
なので、今の私の価値観は忍者に近いような気がします。私も何か大きな仕事を成し遂げられるのなら、自分の命など平気で差し出すつもりです。さすがに自爆テロとかはしませんけどね。
2 件のコメント:
花園さんは自分自身にあまり生きる価値はないといっていますが、僕も自分自身生きる意味はないとそう思っています。それは僕自身がいい人間ではないというよりも、この人間社会はどうしようもないくらい腐っており、自分が楽しめないからです。
また、人間は死に向かって緩やかに苦しむものであり、死ぬときの一瞬の激しい苦しみを生きているときは緩やかに感じるものだと考えています。老後病気になって緩やかに死んでいくか、若年時に一瞬の激しい苦しみの中を死んでいくかは苦しみの絶対値としてはかわらないのではないかと考えています。
サカタさんは苦しみを起点に生を考えていらっしゃるようですね。前にもちょっと書きましたが、生を考えるのに死は必要不可欠な要素で、非常にいいポイントを突いていると思います。この辺もいつか書けたらなぁ、昔かいたエッセイをそのまま貼るだけでもいいけど。
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