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2008年11月1日土曜日

意識に対するアイデンティティ

 前回の記事で私は身体に対するアイデンティティの比重が下がって逆に意識への比重が上がり、今後身体の半機械化などが進む場合はこの潮流を守るべき……なんだけど、ってところで話をやめました。何故私がこの潮流にちょっと待ったというのかというと、身体に変わるその人物を特定する要因候補の意識に対し、私は本当にアイデンティティを証明する要素となりうるかと疑問だからです。

 これは何も私だけが問題提起をしているのではなく、数多くの作品で展開されている話です。一番複雑かつ丁寧に提起しているのはまたも「攻殻機動隊」で、その中のテレビアニメ第一作目の「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」です。このシリーズの話の中で主人公の草薙素子は、ある人物からその人物が持つ記憶をほぼすべて電気信号にて受け取り、その記憶を元にその人物に成りすまして行動するシーンがあります。そして最終話にてその時の行動を振り返り、「あの時に自分は、自分が草薙素子なのかあなたなのかがわからなくなった」と述べています。

 これなんか私が独自に提唱している絶対感覚の世界で非常に重要なテーマになるのですが、もし同じ記憶を持ちえた場合に、物の考え方や意識というのは共通されるのか、つまり同じような思考の人間になるのかということです。また思考だけといわずに同じ記憶を共通する人間が二人いた場合、果たして記憶を共通するその二人を他の人は区別することができるのかということです。

 こういう風に考えてくると、意識というのは他人と区別する上で非常にあいまいなもののように思えてきます。それこそ攻殻機動隊の世界のように記憶をデータ化してコピー、伝心することが可能になった場合、こういったことは簡単に起こり得るでしょうし、まず第一に意識意識とは言いますが、意識とは一体なんなのか、記憶なのか物の考え方の基礎となる思考なのか、こういったメタ理論的な話へも発展していきます。

 ちょっとさっきからわけのわからない話を自分でもしていると思うので、もうちょっとわかりやすい例を出します。これまた漫画でそれも絶賛連載中の「鋼の錬金術師」の話ですが、この作品で主人公の弟のアルは身体が異世界に飛ばされて現世界では鎧に魂だけを封じ込むことでとどまっており、そのため中身のない鎧の姿で行動しています。そのアルが作中にて対峙している相手から、
「お前は身体がないだけで自分自身をお前をその鎧に入れた兄の弟だと思っているが、実際にはお前をいなくなった弟と信じ込ませるような魂をお前の兄が作ったと疑わないのか」
 と言われ、自分が主人公である兄のエドの弟と思い込んでいるだけなのではないかと思い、非常にうろたえるシーンがあります。ちょっと我ながら言葉にし辛いので敢えて無理やり言葉にしませんが、このように記憶や思考だけで人物を特定する、又は自分で自分を区別するというのはとても難しいものだと私は考えています。

 ちなみにちょっと話は外れますが、この鋼の錬金術師は何気に人体損傷の描写が現代の漫画で最も激しい漫画で、身体丸ごと無しで魂だけの存在の上記のアルを筆頭に、主人公のエドは右手と左足を義手義足にしており、また作中である女性キャラは追っ手から逃れるために自らの腕を切り落としています。恐らくこの漫画の作者は確信的に私が今ここで書いている、身体なしでアイデンティティを保てるのかということを作品の中で問いているのだと思います。

 ここに至ってアイデンティティの意義について書き忘れていたことに気が付いたのですが、人間というのは本質的に、自分が他の何かと区別できないととても不安を感じる生物で、その区別された自分(人間)のモデルというのがアイデンティティという言葉の意味です。しかしその一方、逆に他人と大きく区別されすぎる特徴があると、周囲からの目線もあるでしょうがこっちでも不安を感じるようになってます。この辺を社会学ではデュルケイムが「自殺論」という話で、個人意識が強くとも集団意識が強くとも、極端に至れば自殺という行動を取りやすくなると分析しています。なお前者の自殺はアノミー的自殺と言い生活苦などの一般的な自殺を指し、後者は特攻や自爆テロなどの自殺を指します。

 ここまでわけわかんないことをいい続けて最後に何が言いたいのかというと、私は意識だけで今の人間はアイデンティティを保つことが出来ない、やはり身体による区別が絶対的に必要だと言いたいのです。だからといって男女の区別とかをもっとしっかりやるべきだとは言うつもりはなく、たとえ人体のサイボーグ化が進んだとしても、今の状態ではとてもじゃないがそのような時代に対応できないと思うのです。しかし技術的にはそのような世界が近づいてきているため、何を持ってその人物を特定するのか、記憶なのか意識なのか身体なのかはたまたそれ以外の何かなのか、本当に魂というのはあるのかというように、何が一体人間という存在を構成しているのかということを広く検討するべき段階に来ているのではないかということが言いたくて、こんだけ長々書いてみました。あしがらず。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 今の世の中では身体と精神を完全に分けることはできないかもしれませんね。以前に友人が自分の顔のことを悪く言っていて、そのとき僕が「じゃあ、整形すれば?」って言ったとき友人は「そんなこと言うの?」といってきました。僕は外見が気に食わなければ別に整形すればいいと思うのでそういったのですが、友人は顔が悪いから整形しろというように取ってしまったみたいでした。

 それと、人物を特定するのは、記憶、体、意識、(魂)の複合体としてみたときの差なのでしょうかね?花園さんはどう思いますか?

 

花園祐 さんのコメント...

 自分もサカタさんと同じように、人間を互いに区別させ合っているのは意識、身体、記憶の三条件だと思っています。今の社会保険庁の問題では保険者を名前、振り仮名、生年月日の三条件でしか登録していないために混乱がおきましたが、人間も先の三条件のうち一つでも欠けたら、途端に区別し合うことが出来なくなると思います。

 整形の話といえば漫画のブラックジャックで鯨に飲み込まれて死に掛け、溶けた顔を新たに整形したが記憶も失ってしまっていた青年が母親を見ても全然思い出せず、また母親の側もそんな息子を息子と思えず他人行儀になるという話がありました。これなんか私の言いたいことをよく表しているエピソードですね、最終的にその話では記憶が戻りましたけど。