高校生くらいの頃、流れ星が見えたわけじゃないですが星空に向かって、「理解者が欲しい」とリアルで祈ったことがあります。それくらい当時、自分は自分の理解者を強く求めていました。
現在振り返ってみても、やはり当時の自分の周りには親兄弟を含め理解者は誰もいないと言ってもいい状態でした。中学、高校時代に私の周りにいた人は私の言動を見て「おかしな奴」というくらいの評価しかせず、実際に後年になって「変な人としか思わなかった。当時からそれだけ勉強していたとは知らなかった」と言われたこともありました。
親兄弟もほぼそんな状態で、中でも今でも忘れないのが学生時代にうちのおふくろが、「(姉が)早くあんたも公務員目指せばいいのにって言ってたよ」と言ってきたことです。この言葉の背景にはおふくろ自身もそう思っているという意味が込められていますが、このブログを見ていればわかる通り、自分以上に反権力志向を持った人間なんてほぼいないくらいなテロリスト気質な自分に向かって言うセリフではなく、実際に当時から(今でも)公務員のことは「公僕」と呼んでいます。そんな自分に公務員を目指せなんて言うこと自体おかしく、作っているわけではなく、上記のセリフを言われた時は唖然として言葉が出ず、「ああ俺のことを何も理解してくれていないんだな」とはっきり悟りました。
ただ、大学に入ってからは理解者に恵まれました。具体的には友人たちですが、ある日うそぶいて「世が世なら自分はとっくにどこかの知事をやってるだろう」と言ったら、「急拡大するか破滅するかのどっちかやな」とすぐにツッコミを入れてくれました。
少し解説をすると、自分はそうでもないと思うのですがどうも周りからはおとなしそうな外見しているようで、親兄弟に限らず「如何にも公務員になりそうな顔やな」とか結構あちこちから言われてました。しかし実際の性格はむしろ真逆で、特にハイリスク・ハイリターンを好む山っ気が強いことが特徴であり、この点がよく真逆に現在進行形で誤解され続けています。上記のセリフを言った友人はまさにこの点を理解してくれていたからこそ「急拡大か破滅か」と評し、また進路についても、「君は絶対に公務員にはなってはならない。雇う側にも、君にとっても不幸な結果にしかならない」とまで言ってきました。
この友人とはまた別の友人ですが、そちらも私のことをよく理解してくれていました。特に今でも忘れられないのが、「君の言うことや考えは正しいが世間はそれを理解しない。能力は高いのだからほんの少し君が妥協するだけで楽になるのだし、もっと抑えた方がいい」と、念仏の如く一時期言われ続けました。またそのほか、「僕自身は君のことを理解しているつもりだ。僕という理解者がいるだけではまだ満足できないのか?」と、20代後半で突っ張ってた時期にこうやって言葉をかけてくれました。
正直に言って、この友人らは自分の親兄弟よりも自分のことをよく理解してくれていたと思います。同時に、最初に星空に願った自分の祈りは無事成就したのだと思え、上の友人のセリフを受けてからは、これ以上の理解者を求めるのは確かに贅沢だと思え、誤解する人に無理して理解してもらう必要はないという割り切りを持つに至りました。多分昔のままなら、自分の記事に就くヤフコメに対して一つ一つコメントを返して反論していたでしょう。
なによりこの二人の友人はともに、「もっと自分の幸せを考えろ」と、自分に対してよく言ってきていました。この辺、当初私自身もピンとこなかったのですが、やはり今この段階で考えてみても自分のホスピタリティは異常者レベルと言っていいほど高く、どこか自分を投げ捨ててまで周囲に捧げようとするところがあります。
その精神自体は崇高ではあるがやはり危険だと何度も友人から警告を受けながら現在に至っても直っていないのですが、大学在学中というかなり早い段階でこの点に気付いて私に警告してきたという点は最も早期に自分を理解してくれていたという証左でもあると考えています。だったら言われた通りにすりゃいいんですが。
おまけ
友人と共通の後輩の進路についてある日友人と話していたところ、友人がおもむろに、「彼は君に似て、生き方が不器用だからね」と口にしたことがありました。これ聞いた時最初、「こいつ、俺のことそんな風に思ってやがったのか……(゚Д゚;)」と思いましたが、すぐ「けど反論できない」ということに気が付き特に言い返したりしませんでしたが、ちょっとその夜は寂しさを感じました。
2 件のコメント:
「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」
これは映画『イノセンス』の荒巻大輔の台詞ですが、私は万事を共感ではなく理解をもって接するべきであると固く信じており、世の全ての学問は専門知識と思考によってある現象を理解する為に存在するのだと『理解』しています。
そんな理解至上主義の私がこの言葉と出会ったとき、理解という行為は果たして何なんだろうかと、自分が理解している自分や他人は結局願望に基づく理想像なのかもしれないと、大きく揺さぶられました。
自己理解・他者理解もまた、万人が認める要素というものがない(人となり、言動の印象は受け取る人の解釈に基づく)ので主観的なものであります。自分の理解者というのも、自分の理想像(欠点も含め)に合致する他者の評価を期待しているに過ぎないのではないかと考えます。
とはいえ、花園さんの中高時代の悲痛な心中を察します。完全な孤独よりも、一応の友人に囲まれながらも自分に真剣なまなざしを向けてくれる人間が誰一人いない孤独の方が、はるかに絶望的に感じますし、私自身も今の今までこの種の孤独感に苛まれています。
内省を通じた自己理解だけでは不完全であり、他者の目を通した自己理解もまた、自分の理想に合わない評価を遮断してしまうことから、結局のところ自分で自分を理解するというのは不可能であると私は考えます。それでも自己理解は自分をケアし自戒する事において、理解者は自分と真剣に向き合ってくれる友人がいることを信じられる存在、ある種の孤独を埋め合わせてくれる事において必要なのです。
自分自身の自己理解と他人による自己理解について言及されていますが、まさにこの点ですね。
自分の場合、自己研鑽の方針について自分の考えが正しいと思いながらも、中学・高校時代は家族を含め全力で否定され続けており、正しいと信じながらもずっと不安でした。それが大学以降は周囲にもその思考や能力が認められ始め、「やっぱり自分は正しかった」と安心でき、現在の自分を形作ることが出来ました。
とはいえ、結果的には良かったもののもし自分の方針が間違っていたらどうだったのか。そういう意味ではおっしゃられている通りに自分に対して真剣に向き合い、軌道修正を図ってくれる友人がいれば心強く、現在の自分の理解者はこの記事にも書いているようにまさにそのように誤った方向に向かいかけたら修正かけてくれる人たちばかりで、こうした人間に会えたことは自分はとって非常に幸福だと日々感じます。
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