前回は途中で哲学関係の事はなしてたら脱線したので、本論に戻って今日は解説します。
さて前回は日本のアカデミズムの中では西洋の学問体系が東洋より上だという前提があるのが問題だと書きましたが、その上で前回でも示唆しましたがその学問の流行り廃りから経済的価値に左右されるのも問題だという事を書きます。
これは特に経済学の上で顕著ですが、やはり教える内容の流行り廃りというか、その学問がどれだけ金になるのかで評価が決まりやすい傾向があります。たとえば90年代末期などではIT革命が叫ばれ、ほとんどの経済学者がIT関係に投資すべきだといって、2000年ごろにITバブルははじけました。あの時に散々適当なこといっていた学者達には首を吊ってもらいたいものです。ま、中にはまともな意見も少なくありませんでしたが。
しかしこれなんかは一過性の流行で終わりましたが、自分が非常にもったいないと思っているのはマルクス経済学です。最近になって自分も勉強し始めたのですが、やはりなかなか奥深いものですし、哲学分野にまで新出する疎外論などは現代においても価値の高い学問だと思います。しかし全共闘の反省やらソ連の崩壊という影響を受けて、恐らく専門的にこれを学ぼうとする学部生はほとんどいなくなったと思います。実際に大学の講義でも非常に扱いの小さいものになっているのは個人的に残念ですし、私が現在苦労しているように、一般の書籍でもこれを扱った本がほとんど作られないので、えらく古い日本語と格闘しなきゃいけないのがその動きを加速させている気がします。
そして次に信念の問題というか、まぁ森永卓郎の話です。
元神戸新聞の記者で、NHKのワーキングプアーにも度々出演している内橋克人が誰かとの対談で語った内容ですが、ある日出版社から複数人の論文をまとめて、この格差社会でどう行き抜くかという本を出すので書いてみないかと誘われたようです。しかし内橋氏は自分はこの格差社会を批判し、是正すべきだと主張しているのに、どうしてその社会の現実を甘んじて受けるような内容が書けるかといって断ったらしいのですが、出版された本を見てみると、普段内橋氏のように格差社会を批判している学者や知識人が書いていて驚いたそうです。
その上で、この格差自体が学者達にとっては金になる材料となっている事を指摘して、内橋氏曰く「商品化される貧困」に文字通り、学者達が一役買っていることを嘆いたそうです。
いきなりでなんですが、森永卓郎なんてこの典型です。なにもこのようなものは経済学に限らず、政治学やら理工学においても度々あります。政治学では外交問題を書籍やテレビなどで提起して大衆の無用な不安を煽り、講演回数を増やすといった方法があり、また異論派を叩き潰したり、問題をこじれさせたりしても解説の場所を増やす事も出来ます。佐藤優などはその著作で、裁判で自分の言葉を翻した青山学院大学の袴田茂樹教授(ロシア政治専門)をよっぽど腹に据えかねているのか、自身の著作で皮肉たっぷりに「商売がうまい」と評しています。
理工学でも韓国で起こったES細胞研究捏造などで研究費を騙し取るなどありますが、このようにして学問の価値評価というのは往々にして捻じ曲げられやすいものです。確かに評価の難しいのはわかりますが、今回私が指摘した点を留意するだけでも結構物事は変わってくるのではないかと思います。
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