かなり以前の記事で、基本的に人間は比較しないと対象を理解できないので、生死についても生の側面ばかり教えても全く効果がなく、生と死をそろって教えないと生のありがたみがわからない。にも関わらず、小中学生向けの自殺防止教育などは生の側面しか取り上げないので、今の子供達は生きる実感がわかないのではと書きましたが、ちょっと面白い続報がはいったのでそれを紹介します。
先日、この以前の記事の内容を友人らとの話の種にしたところ、友人の一人がネット界の住人こと「2ちゃんねらー」について、
「あいつらは逆に死しか見ていない」
と、評しました。
一般に今の日本社会では死という事実を出来るだけ隠そうとしており、大人から子供まで死生観というよりは、現在の生のことしか話題にしません。収入が足らず、生活保護世帯がふえているにもかかわらず、ホームレス問題が全く改善していないにもかかわらず、そのような事実が報道されないのはこういったところに原因があると思います。実際に、この哲学の根幹とも言うべき死生観について私が議論しようとすると、大抵が「そんな話はよそうよ」と言って拒否されます。
それがネット上だと、先ほどの友人の通りに逆に死の側面ばかり強調されています。たとえば、大型掲示板の2ちゃんねるだとどの掲示板に行っても「ニート」という言葉が飛び交い、「鬱だ氏のう」や「オワッタ」といった、表現が活発に使われます。まぁ「逝ってよし」という言葉は最近あまり見ませんが。
言われてみて、確かにネット上では生死の死の側面ばかり強調されているような気がします。率直に言ってこれはよくないことだと思いますが、それは強調されるのが死だからというわけじゃなく、一つに偏っていることが問題で、生の側面ばかり強調されるのと同等の意味で悪いという意味です。
私自身、思想面で捉えるなら儒学徒とも言うほど論語マニアで、世の中を捉える際にいわゆる中庸の状態、何事もほどほどな状態が最も良いと考えています。中途半端は良くないけど。
なので死生観についても、死のことばかり考えるのも良くないし、生のことばかり考えるのも良くなく、双方をバランスよく考えることが死生観を持つ上で一番正しいと考えています。逆に、生と死のどっちか一つを偏って考えてばかりいるのは、下手をしたら全く生死について考えない状態より良くない可能性すらあります。
2 件のコメント:
見ることを覚えて居たので記念カキコ。
私はタバコを吸う。と言っても依存しているわけではなく(少なくとも自分ではそう思っている)吸いたいときに吸う事が出来れば満足であり、TPOに合わせてスタンスを変えている。いわば中庸の立場であり、どちらの気持ちも理解できる……などと考えていた。
しかし最近私は昔話の蝙蝠でしかないのだと気づいた。獣で無く鳥でもなく蝙蝠なのだと。獣の世界は低すぎて、鳥の世界は高すぎて私からはハッキリと見ることは出来ない。
……なんか話がずれてる気がしないでもないが気にしないでおく。何が言いたいって俺は獣でも鳥でもなく蝙蝠だ!って言えることが大事じゃないかなこと。
ばぁむさん、コメントありがとうございます。
深い内容のコメントで、なかなか考えさせられる内容ですね。蝙蝠というのは人からよく嫌われる動物ですが、確かにこれほど「間」を表しているたとえはほかにありませんね。これからもお暇な折に助言をお聞かせください。
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