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2010年1月5日火曜日

猛将列伝~西門豹

 先月に書いた曹操の墓発見についての中国の記事にて、「曹操の墓はこれまで文献上、西門豹の墓から西にあるとされてきた」という一文があったのですが、翻訳している最中にこの西門豹の名前を見て、中国人はこの西門豹のことを新聞記事に書いてみんな理解する程度に知っているのかと人知れず感慨に耽っていました。

 そんな西門豹とはどんな人物かと言うと、時代はちょうど春秋時代が終わった直後の戦国時代の人物で、当時の魏国の官僚でした。かねてより知恵者で鳴らしていた西門豹はある日魏王に呼ばれると、国力を増強するために新田開発をする必要があり、ついては国内で開発の遅れている鄴の地(現在の河北省)でその任に当たれと命じられました。
 命じられた西門豹は早速現地へ赴任して地形を確認し、近隣の河を整備した上で干拓を行おうと計画したのですが、西門豹の計画を知るや現地の農民達はみんな震えながら反対しました。わけを聞いてみると農民達は河には水竜がおり、工事などしようものなら村全体が祟られると話した上、村は毎年水竜に祟られないためにいけにえの儀式も行っている事などを西門豹に話しました。

 最初はただの迷信かと思っていた西門豹もいけにえの儀式と聞いて詳しく話を聞いてみると、その村では毎年村の中で一番の美女を選び、輿に乗せて河に放り投げる事でその美女を水竜に捧げているとのことで、その儀式のために村中から膨大な金額が毎年集められていることがわかりました。その儀式の費用は献金すれば死刑ですら免ぜられるほどで、本当にそれだけの費用を儀式のために全部使えるのかと西門豹が尋ねると、農民らは口ごもりつつも、恐らくは大半は儀式を取り仕切る神官や土地の古老らが着服しているといい、彼らにしか水竜を沈める事ができないので仕方がないと打ち明けました。

 この話を聞いた西門豹は村の窮乏の原因はこの儀式にあり、まずこの因習をどうにかしなければ干拓工事は出来ないと考え、ひとまず工事計画を棚上げにした上で儀式の日を待ちました。そして儀式の日が訪れるや西門豹は部下の役人を引き連れて参加し、水竜に捧げる美女の元へ案内するよう命令しました。そうしていけにえとなる美女を一目見るや西門豹は、

「なんだ、とんでもない不細工な娘ではないか。申し訳ないが神官らよ、もっといい美女を送るから先に水竜のところへ行ってお断りを言ってきてくれ。そら役人どもよ、神官らを河に放り投げろ」

 この西門豹の命令に役人らも戸惑うものの筋は通っていると思ったのか従い、慌てる神官らを片っ端から河に放り投げて溺死させました。それからしばらく川岸で待った後、さらに西門豹は、

「ふうむ帰りが遅い。仕方ない、ほかに水竜と話が出来るのは古老たちしかいないので、ひとつ早く戻るように催促をしに行ってくれ」

 そうして、今度は古老らを河に突き落とすように再び役人らに命じました。この命令には古老らも震え上がり、それだけは勘弁と抵抗するも西門豹は意に介さず、

「この儀式を終えねば村は大変なことになる。わしとてお主ら老人に骨を折ってもらうのは気が進まぬが、神官のいない今はお主らしか水竜と儀式で関わったものはおるまい。お主らはこれまでに水竜に散々貢献してきたのだから悪くされるはずはないのだし、一つ村のために行ってきてくれ。ほれ役人よ、さっさとしろ」

 こう言って、嫌がる古老らをまたも片っ端から河に突き落として溺死させました。
 そうやって再びしばらく待つと西門豹は立ち上がり、村民らに対してこう言いました。

「どうやら水竜は客人をもてなして帰さぬようだ。仕方がないので、今日はもうみんな帰ることにしよう」

 この西門豹の言葉にただただ唖然として事態を見守っていた村民らは何も言えず、結局その年は儀式をせずに皆家路に着きました。そしてその日以降、儀式について口にする者もいなくなったそうです。こうして因習を根本から断ち切った西門豹は村民を動員し、大規模な干拓工事を開始するに至ったわけです。
 しかしその干拓工事中、村民らから祟りについて口にするものはいなかったものの、このような工事が果たしてなんの役に立つのか、こんなことをするくらいなら今出来ている田畑を耕す方がマシではという不平不満が絶えなかったそうです。

 それに対して西門豹は、この工事は確かに現代の人間には評価されない事業かもしれず、評価してくれるとしたら十年、二十年、下手したら百年後になるかもしれない。しかしそれでもこの事業にはやる価値があるのだと最後まで工事を行い続けたそうです。
 果たしてこの言葉の通りに、西門豹が干拓した地域は見事な穀倉地帯となり、その後の魏国の躍進につながることとなったそうです。私は西門豹の因習を打破した知略はさることより、最後の後の時代の人間に評価される事をやるのだという発言がお気に入りで、内政における唯一にして最大の心構えだと周りにも言いまわっております。

2 件のコメント:

サカタ さんのコメント...

 花園さんは政治ネタを書くときに、後のことを考えて行えという趣旨の文をお書きになりますよね。この人からの影響だったんですね。

 三国志では、魏の武将は他と比べて圧倒的に優秀な面子がそろっていたと思います。

花園祐 さんのコメント...

 まぁ魏っていっても、西門豹がいたのは戦国時代の魏国で、三国時代の魏国とは別ですけどね。時代的にはBC400~300年くらいの人で、三国時代のAD200~250と比べると500年位前の人です。
 中国は王朝がコロコロ変わるくせに同じ国名を使うから困り者です。