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2008年11月27日木曜日

絶対的に間違っていることについて

 よく世の中には、「絶対的に正しいことなどない」という言葉がありますが、この言葉には私も素直にその通りだと思い、どんな時にどこでも正しい規範なんていうものは現実には存在しないと思います。しかしその逆の「絶対的に間違っていること」というのは、私は世の中に確実に存在していると思います。

 ではどのようなものが絶対的に間違っていることなのかですが、まず一番代表的なのは私が「邪悪とは」の記事の中で書いた、他人を踏み台にして自分だけいい目を見ようとする行為です。これにはたとえどんな反論があろうと、私の中で許されざる行為であるという信念は揺るがないでしょう。
 次に言えるのは、弱者をいたぶる行為です。言ってしまえば自分に逆らうことの出来ない相手に対して知っていながら必要以上に嫌がらせや攻撃を仕掛けることで、いじめやカスタマーサービスへの必要以上のクレームがこれに当たります。

 このように、「絶対的に正しいこと」に対して「絶対的に間違っていること」というのはいろいろあり、また確信を持って主張できるものばかりです。敢えて絶対的に正しいこととは何かというのなら、それはこの絶対的に間違っていることを絶対に行わないということなのかもしれません。

6 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 花園さんの言うような、絶対にやってはいけない行為をそのまま取り入れさせてもらいます。
 僕は、その絶対にやってはいけない行為をする人だけには、その行為をやってもいいと思います。まったく同じ行為を味らわせるわけです。そうすれば、その人たちも自分がどれほどの苦痛を他者にしてきたかがわかると思うからです。それぐらいしないと、そういうことをする人間はわからないと思います。

 確か地獄少女にも同じような場面がありますよね。地獄に行くときに自分についている恨みを味わうという場面が。

花園祐 さんのコメント...

 因果応報的な話は、たいてい同じことを仕返されて終わりますね。

 ただサカタさんの言う、絶対にやってはいけない行為をする人間に対して同じ行為をしてもいいという考えは、私はよくないと思います。というのも、たとえ悪人であろうと同じことをしてしまった時点で結局その悪人と同じようになってしまうと思い、またそのような人間に対して同じ行為をしたところで、反省を促すどころか逆恨みをされるだけだと考えるからです。

 ではどうすればいいかということですが、好きな手段を使っていいのなら社会的に抹殺する方法が一番いいのですが、一番無難なのは法制化です。成文法にしなくても社会的に白い目で見られるような自然法の形で、社会全体から圧迫をかけねば意味がないと思います。

匿名 さんのコメント...

例えば、まったく食べ物がない状態で、船に乗って海洋に漂っているときに、同じ境遇の
仲間を殺して食べてしまうのはどうなんかな。これは「他人を踏み台にして自分だけいい目を見ようとする行為」には該当しないのかな。

個人的には、絶対的に悪いことも存在しないと思う。

我慢できないぐらいむかつく人間がいたら、自分の認識から消してしまえばいいのでは?

正義が貫かれなければならないという価値観をもっていると、自分が悪だと判断した人間に対して何らかのアクションを起こそうという衝動を抱いてしまうけど、それってしんどいと思う。

花園祐 さんのコメント...

 自分でも多少言い訳くさいと思いますが、継ぐ者さんの言うような餓死か食人かという状況は私の言う「他人を踏み台にする」という状況ではなく、「他人を犠牲にする」という状況でちょっと違うと思います。後者は言うまでもなくほかに選択のない極限の状況であるのに対して前者は、他に選択肢がある状況で敢えて悪意のようなものを持って自己利益の増大のために選択するという行為で、前者は状況次第では非難できないものと私は考えます。
 もっとも食人は遺伝子本能に真っ向から逆らう行動なので、たとえそれで生き残ったとしても高いストレスを抱えてその後を生きなければならず、多分今の倫理観では餓死した方がマシだと思います。まして殺人までするというのなら。
 なお、私が知っている殺人をした上での食人の一番すごい例は即墨城での篭城戦です。これも史記の中でとても好きな話なので、今度解説します。

 でもって最後の、嫌な相手に対して無視を決め込めばという話ですが、私としてもなにも根絶やしにしたいとは思っておらず、無視できるのなら可能な限り関わらずに生きていたいと願っています。しかし私の体験から言うと、そのような人間というのはこっちの都合に構わずこちらへ近づいてきた挙句に実害を与えてくるもので、卑近な例を挙げるといじめなどはこちらが距離を置いたところで学校や職場等の移動の制限がある場所では無意味だと思います。
 私がこの記事で一番言いたかったのは、もし自分がそのような人間から実害を受けた場合、また実害を受けている人間を目にしたときにどのような行動を取ればいいのか、そういった想定をしておく必要があるのではということを問いたかったのです。

匿名 さんのコメント...

例えばコーヒープランテーションから見れば、他人を踏み台にして自分だけいい目を見ようとする行為なんて、間接的に日本人は皆やっているのではないでしょうか。奴隷的に働かされている人がいるからこそ、安くて美味しいコーヒーを我々は飲むことが出来ます。自分で他人に踏み台や弱いものいじめがいかにいけない行為と主張したところで、社会のシステム上、無意識にそれらの行為に加担することになっていると思います。
ただ、自分の中でそういった信念を持つことは個人的にはいい事だと思います。そういったアイデンティティがあった方が、何事も判断に迷う場面が少なくなりますからね。

花園祐 さんのコメント...

 ロックマンさんの言うことも非常によくわかります。最近マンガ版の攻殻機動隊の一巻を読み返したのですが、大量消費社会というのは先進国では経済的に世界に良い影響を与えると聞こえはいいが、発展途上国との格差を広げるもの以外何もないと作中に書かれており、日本人として南米や東南アジアの方に対して申し訳ない気持ちが湧いて来ました。