・「生きた証し残すため」小泉容疑者が供述…強い自己顕示欲(YAHOOニュース)
上に貼ったニュースによると、厚生次官連続殺傷事件の犯人の小泉容疑者は今回の事件の動機として、「自分が生きた証を残したかった」などという内容の供述をし始めているようです。率直に言って、これを聞いて私もなんとなく納得した気持ちを覚えました。
この事件では小泉容疑者が無職だったり、エリート街道から脱落したことなどが犯行の原因ではないかと、昨日に書いた「最近の格差問題への報道について」で書いたように安直に格差を動機に結びつける報道が多くされていたのですが、私としてはこの事件で犯人は犯行前からクレーマー的な行動を繰り返したり逮捕時に主張した「愛犬の仇」の証言から、ただ単に犯人が特殊な人物であったということからこの事件が起きたと私は見ていましたが、今日のこのニュースを見て、犯人が特殊な人物であるが故に事件が起きたという事には変わりませんが、その犯人の特殊性がやや落ちて少しは普通の人間っぽいところもあったのだなと思い直すようになりました。
社会学を学ぶ者ならまず絶対に知らなければいけない人物と概念として、「エミール・デュルケイム」と彼の提唱した「アノミー論」というのがあります。このアノミー論が展開されたのは「自殺論」といって社会学の古典の中の古典に入る傑作からですが、この本では極論すると、「社会的な拘束が緩い自由な社会であるがゆえに、自殺者も多くなる」という主張がなされており、私もこの意見について異論を持ちません。
もう少し細かく説明すると、人間というのは自分に対して必ず自分の人間像を持ちます。それこそナルシストであれば自分はかわいいとか格好いいとか思い、武士の家の者なら誇りを持って恥ずかしくないように生きるべきというようにです。
しかしこうした自分像で一番大きな幅を占めるのはなんといってもやはり、お金に関するものでしょう。たとえば周りが皆バンバンお金を使っているのに自分にはお金がなくて貧しい暮らしを強いられるとすると、「あいつらはあんなにお金があるのに、何で自分にはないんだ」というように、周囲と自分との差異を感じることによって精神的にプレッシャーを覚えるものでしょう。
概して自分像というのは周囲との比較によって生まれるもので、「周りの人と比べて自分は……」といった具合に作られるもので、そうして周囲の人間の環境から作られる「本来、自分はこうあるべき」と思っている自分像と「現実の自分の状況」に違いがあれば人間は不安を覚える、というのがこの「アノミー」という状態です。
ではこのアノミーがどのようにこの事件に関係しているかですが、私が見るに近年の日本は生活的な環境や富については以前ほど価値観を見出さなくなり、その代わりに「社会的に認められる、注目されること」に異常に執着心を持つようになったと思えます。言ってしまえば先ほどの武士的な価値観で、最近の日本人は自らが幸せを感じる条件として豊かな生活を送ることよりも、社会的に認められたい、注目されたいという気持ちの方が強くなってきていると私は見ています。
何気にこの辺は今、私が手伝っている後輩の卒論にも関係しており、このように富から名誉へと欲求が移り変わっていくのもマズローって人が「欲求段階論」で説明しています。
ちょっと話がそれましたが、そんな具合に日本人は幸福追求をするため豊かな生活を得ようと遮二無二に働くことをあまりしたがらなくなり、その代わりになにかしらこう、自分の生き方や価値観に意味があったのだという意味づけを行いたがるようになっていきました。
そのような価値観の変化が起きた為、今の日本では職がなかったり人との交流がない人間にとってすれば、食うに困らない環境で生活していたとしても幸福を感じることがなく、楽観的に今の自分はいい身分だと考えることが出来ずにどんどんと気が滅入っていきます。
そういった人間は一体どうしたいかというと、ちょっと厳しい書き方になりますが、「それでも自分は生きていたのだ」と強く主張したがっているように私は思えます。実は数年前に集団自殺について調べたことがあったのですが、この集団自殺の数多くの例で自殺の決行直前に、「自分はこれから死ぬ」といった内容のメールを知人に送っている者がいました(それがきっかけで、救助が間に合った例もある)。
言ってしまえばなにもメールなんて書かなければそのまま目的通りに自殺が達成できるにもかかわらずこうした行動をとることについて、ある心理学者がこうした自殺志願者は生活の苦しさから開放されたいがためというより、注目されたいがために自殺を選ぶからだと指摘していました。つまり、練炭自殺や塩化水素自殺などが流行する背景には、それが世間に注目される自殺方法だからだという風に私は考えています。
ここでようやく元の話題に戻ります。
今回のこの厚生次官連続殺傷事件も犯人の証言通りに「生きた証が残したかった」というように、愛犬が保健所で処分されたのは所詮は口実で、実際には自らの名誉心を最後に満足させたいがために起きた事件だったと私は今回の報道で解釈しました。皮肉な話ですが、そういう犯人にとって何が一番うれしいのかというと、自分の起こした事件が大々的に報道されることに他なりません。
無論こういったことは間違ったことで繰り返されるべきではなく、忘れろとは言いませんが犯人も無事捕まったこともありますし、今後はあまり話題に出すべきではないかと私は思います。なのでこの記事も本来なら書くべきではないのですが、現代日本のアノミー化現象と異常犯罪の背景を説明するにいい好例と思い、反省しながらも書いた次第であります。
3 件のコメント:
桑田選手で記憶に残っているのは、PL学園のときに桑田がフリーバッティングのピッチャーをしていて、桑田の投げた球で金属バットが曲がったと同じチームメイトが証言したそうです。それだけ、早かったのでしょうね。それこそ、スピードガンの数字以上に。
しかし、ダイビングキャッチはなんでピッチャーがあそこまでしなきゃいけないの?と少し疑問に思いましたね。
上のコメント書くところ間違えました。すいません。
アノミー現象というのは面白いものですね。確かに、うちの親とかの意見を聞いているとお金を稼ぐことになんの違和感も感じていないようです。それでも、死ぬ気でがんばれるみたいです。でも、僕たちの世代はそうではありませんよね。何をやるにしても、何か意味がなきゃいけないとか、稼げなくてもいいから他に変わったことなきゃいけないとかそんな感じでいる人が多いと思います。僕も、そんな感じですが少し違います。目立ちたいとか、社会的に認められたいとかではなくて、最終的には自分だけが納得できればいいと思っています。今は完璧ではありませんがそれを目指しています。
君の兄さんとかはよく、自分で自分の生きる価値観や希望を見つける必要があると言っていますが、私や佐藤優氏なんかは国家がある程度、個人の目的というか神話を作らなければならないという立場です。それこそ所得倍増計画だとかで、個人で納得できる人はいいですが、大多数は自分じゃその価値観を見つける力がないと私は思っています。
じゃあ私はどうかですが、私なんかはここでも極端で、自分はどう贔屓目に見たところで生きる価値がないから、早く死ぬのが一番いいと全部投げちゃった考えをしています。
コメントを投稿