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2008年12月9日火曜日

どうすれば自分を変えていけるか

 以前に学校のある授業で先生から、「日本人は皆、青い鳥症候群だ」と言われた事がありました。

 この青い鳥症候群というのはそのまま童話の「青い鳥」のお話と一緒で、日本人は「あれさえあれば、自分は救われる」という風に、自分の現状で満足することはせず、何かしらに大きく期待してそれが得られれば自分は今よりずっと幸せになれるのにという幻想を持つという意味です。
 この話を聞いた当時は、確かに日本人はそうだろうけど人間全体でそんなものじゃないかという風に私は感じたのですが、最近いろいろと社会で言われている内容や議論に上がる話題を見ていると、もうちょっと違ったものではないかという風に改めてこの概念に着目し始めました。

 そう思う一つのきっかけとなったのは、最近買って読んだ「論争 若者論」(文春新書)の中で取り上げられている、秋葉原連続殺傷事件の話です。この事件の概要について詳しくここではやりませんが、何人かの評論家がこの事件の犯人はよく自分の容姿の悪さを卑下する内容をネット上の掲示板に書いており、コンプレックスのようなものを持っていたという記述をみて、いくつか思い出したことがあります。
 その思い出した内容というのも、数年前に友人が突然彼女がほしいなぁと言い出したことでした。私が何故と聞くと、真面目な友人なもんだから異性と付き合うことで自分がいろいろと成長できそうだからだと冷静に答えましたが、何もこの友人に限らず別の友人に至ればもっとストレートに、彼女が出来ることで自分も何か変われると思うからと言ってました。

 こう言われた当初は私も気づかなかったのですが今日電車に乗りながら考えていると、なんだか最近はこの手の、「○○さえあれば(得られれば)、こうじゃなかったのに(ああなれるのに)」といったフレーズの発言をよく耳にする気がします。先ほどの秋葉原連続殺傷事件の犯人も、「彼女さえいれば」というような内容の書き込みを繰り返し掲示板にしていますし、この犯人だけじゃなくともいろんなところで、「学歴さえあれば」、「正社員にさえなれれば」、「お金さえあれば」、「親友さえ出来れば」といった言葉が現実に取り巻いている気がします。中には、「顔さえよければ」、「金持ちの子供だったら」というように、自分の努力じゃどうにもならないことをあげつらって世の中を悲観するものまでおります。

 よくよく考えてみると、先ほどの青い鳥症候群というのは最初の定義ではなくこういうように、自分に今ないものが得られれば状況が劇的に変わると信じることではないかと、あんまり意味は変わっていませんが後半の「劇的に変わる」という文字が私の中で新たに加わってきました。そう考えてみると先ほどの発言はどれも、まるでジクソーパズルが完成するのにあと1ピース足りない、その1ピースであるお金であったり容姿であったりするものさえあれば、今の自分が認めたくない自分とは劇的に違う何かになれて万事の問題が解決できるんだというような意図があるのではないかと思えてきました。

 率直に言うと、こうした考えはやはり甘いと思います。たとえ彼女が出来たところでその相手に好かれるような人間でいなければすぐにその相手は去っていくでしょうし、たとえ容姿がよくなったとしても内面が汚い人間であれば誰からも好かれないままでしょうし、たとえ大金を得たとしてもお金は無尽蔵に使えるというわけではなくいつかはなくなってしまいます。
 先ほどの「論争 若者論」の寄稿者のトップバッターの赤城智弘氏に至ってはこの際戦争になれば、上も下も関係なくなると、抜け出せない格差の現況を変えるものとして戦争の勃発に期待しているような発言をしていますが、その戦争も終わってしまえばまた元の鞘に納まるのでは、少なくとも、現状を変える努力を自分でしないで外部要因に頼る人間では、どんな社会になったとしてもあまり生活状況は変わらないのではというのが私の意見です。

 人間、誰しも自分に対してコンプレックスは抱くものです。自分が好きでたまらない人間というのはいないわけではありませんが実際にいるのは非常に少なく、大抵の人間は現状にプラスアルファをした理想の自分像を自分に課しますが、そういった理想像にたどり着く人間はというとほとんどいません。
 先ほどの青い鳥症候群ではないかと私が言った人たちは、その理想の自分像への到達手段を外部要因にすべて求めている気がします。自分自身では努力も何もしないが、外で何かが動いて自分の状況が変わってくれることを願って待つという、北原白秋ではありませんがこうして文字に直して読んでみるとまさに「待ちぼうけ」です。

 私はそもそも、人間は何かを得た拍子に一挙に変わるということはありえないと思います。それこそ敗戦続きの劉備が諸葛亮を得るんだったら話は違いますけど、20年くらい生きてきた人間が彼女が出来たからといって性格から生活態度が急に変わるなんて俄かには信じがたいです。逆に、20年の積み重ねがあった末にその相手から好かれる人物となったために彼女が出来た、という風に考えるのが自然な気がします。

 ではどうすれば自分を変えていけるかですが、それは単純に言って努力と継続です。何かしら自分で目標なり課題なりを立てて最低でも半年、いや一年くらいの期間を設定して継続して行い、達成することによってわずかながらではありますが着実に自分という人間を変えていけると私は信じています。もちろん最初の目標設定の段階でどんなことをやるか、何を区切りにするかで成果は変わるので、中には一年やってもほとんど何も身につかないということもあり、何が何でも一年やればそれで良いというわけではありません。ですが、一ヶ月や一週間、ひどい場合は一日だけ何かをしたからといって何かが変わるということは私は絶対にありえないと思い、それならば時間がかかっても、何かしらを継続して一年くらいやり続けることの方が急がば回れではありませんが、ずっと自分に対してプラスになると思います。
 そうして積み重ねる土台があった上で、人間は舞い降りたチャンスをものにすることが出来て劇的に変わることはあると思います。先ほどの劉備の例だと、何度も負けるなり苦労はしたものの、関羽、張飛、趙雲といった武勇の将がついてくるだけの人格を養っていたという土台があったからこそ、最後の1ピースである軍師諸葛亮孔明を得て飛躍できたのです。

 よく継続は力なりとはいいますが、子供の頃から聞いてたのに20年以上生きてきてなんとなくですがその意味を少しわかってきた気がします。私が実際にそれを体験したのはやはり一年間の中国留学で、行く前こそあんなに習得の難しい中国語を覚えられるのかと不安に思っていたのですが、きちんと一年間現地で一日も休まず授業に通い続けたおかげで、あの頃の自分が目標としていたレベルには見事に達することが出来ました。

 そしてもう一つ、当初でこそ三日坊主で終わらなければいいなと言って始めたこのブログですが、今日を持ちましてようやく満一周年で、ひとまずの「一年間は書き続ける」という目標は見事に達成できました。
 記事の内容も改めていくつか読み返すと、甘かった内容のものもあれば納得して人に見せられる内容もあり、割合にこのブログには私は現状でも満足しています。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 外部に何かを求めようとしても、得られないものってたくさんありますよね。だから、僕は自分で作るものしか求めないようにしています。 たとえそれがすぐに求められなくても、どうしたら手に入るかと考えるのがまた楽しいです。 自分の頭の中だけは誰も侵害する事のできない自分だけの世界なので、その自分だけの世界を良くしていくことが僕にとっての自分を変えたいことです。

花園祐 さんのコメント...

 結局のところ、自らが求めて行動しなければ得るものなど何もないと私も考えています。

 しかし自分だけの世界を良くしていく、と考えるのはやや視野が狭い考え方のように思えます。というのも、自分が何もしなくとも外部から何かがもらえるというのはありえないことですが、時には必要ですが自分だけの世界で完結しても、やはりこちらでも得られるものは少ないと思います。
 一番重要なのは自らの行動で外部に働きかけ、大きなものを得るということです。それは時には何かの大会に挑戦することだったり、誰かに教えを請う事だったりしますが、内にこもりすぎても外に頼り切ってもなを過ぎたるは及ばざるが如しです。

 まぁここまで内にこもるという意味で言っているわけじゃないことはわかってますから、働きかけられる対象として自分が教えられることは何でも教えますよ(^_^)

匿名 さんのコメント...

この前、大学生の女の子がフランスに短期留学できていたのに会ったのですが、「フランスなら自分のやりたいことが出来る気がする。日本では何にも出来ないのが不満だ」と言っていました。まるでフランスは何でも出来る桃源郷のような場所なのように感じているようでした。

そんな夢のような場所は無いと言うのは簡単ですが、彼女ぐらい若いと勘違いして突っ走ったほうが面白いかなと思って、特に指摘しませんでしたね。フランスのことを面白いと思っているのに、わざわざ水をかけることも無いかと思いました。まあ、期待が大きい分、失望も大きいのが世の常ですけどね。

花園祐 さんのコメント...

 まさにそこが難しいところなんですよね。
 何かに期待するというのは言い換えると「希望を持つ」ということになり、それはそれで人間に活力や意欲を与えるのですが、今の日本人全体にとってはSophieさんの言う通りに持つ期待が大き過ぎて、大抵大きな失望という結果になりやすいと私は見ています。
 またこの過剰な期待が増える一方でこの記事で私が主張したような、「こつこつと継続する」という概念が減ってきているように思え、敢えてバランスを取る形でこの記事では強めに主張しました。