先月に「罪悪感とは 前編、後編」の記事を公開しましたが、この記事の中では罪悪感とは何か、先天的なのか後天的なのかというメタな議論で終わってしまい、本当に私が書きたかった内容はすっかり書き忘れてしまっていました。書き終わった後でそのことに気がつき猛省したわけですが、一番肝心な内容なだけに今日はここでその話を紹介しようと思います。
まず前回の前後編の記事において私は罪悪感は先天的か後天的かという議論を行いました。それはさておきこの罪悪感ですが、冷静に考えてみると日常における人間の行動に最も強い影響を与えている要素の一つなのではないのかというのが私がまず着目したきっかけでした。
例えば前回の記事でも書いているように、人間がその所属する社会内で犯罪とされる行為や望ましくないとされる行為を何故行わないのかといえば、一つは犯罪行為の実行後に待ち受けている周囲からの制裁への恐怖と、もう一つは「なんか悪いことをやっちゃいけないような……」というような罪悪感を抱いてしまうような感情がそうした行為を踏みとどまらせているのだと思います。
こうしたことをちょっと専門的な言葉で言えば、人間の行動を制御する要素として罪悪感はその比重が非常に大きいのではないかと考えるわけです。
単純に話をまとめると、まず人間は本能に基づいた欲求から摂食なり運動なりといった行動を行おうと思い立ちます。しかし何でもかんでも本能の赴くままに行動していれば集団生活など出来るわけがなく、ある程度は周囲と協調して身を引くような行動を取らないと人間どこでもやってけません。では何を以って個人はやっていい行動とやってはいけない行動を分けるのかといえば、一言で言えば理性によるブレーキが分けていると言っていいでしょう。
ではその理性のブレーキの正体は何者かとくればそれはいくつもの要素があり、強そうな相手にケンカを売らないというような本能的な恐怖感や、周囲に恩を売って後で返してもらうという打算であったりいくつもありますが、その中で特に大きいと私と友人が考えたのが、一つは成長と共に獲得していく自尊心ことプライドと、ここで出している罪悪感です。
ちょっと皆さんに日常生活を想像してもらいたいのですが、お墓の前のお供え物を食べなかったり、賽銭箱の中身を泥棒しなかったり、人の家の壁に落書きをしなかったりと、別に誰か見ているわけでもないのにこういった行動を何故起こさないのかと考えれば、多分まともな人なら「そんなことしたら誰かが迷惑するかもしれない」とか「悪いことをやっても後で後悔するだろう」といった理由からだと思います。私はこういった考えも罪悪感の一種、もしくは延長系で、人間集団をまとめるために強く意識こそしていないながらも大きな働きをしている共通認識だと思うわけです。
ではここで私がその上に何を言いたいのかというと、より社会を安定させていいものにするために、この罪悪感をもっと有効に活用する方法はないのだろうかということです。言うなれば罪悪感は人間の行動を制御する要素なのだから、それをいい方向、社会上望ましくない行為を等しく社会の構成員にさせない方向にもっと働かせられないかと思い立ったわけです。
この罪悪感による人間の行動制御がどの点で優れているかといえば、それはコストフリーだということに尽きます。例えば法律などの刑罰による制御であれば警察などといった刑罰の実行者や監視者を用意する必要があります。しかし罪悪感は個人の中で起こって個人で完結するので、先ほどの例のように誰も見ていないところでも働いてくれます。しかもわざわざ成文法にする必要もなく、状況において調節も聞きやすく、広く浅い制御においてはこれ以上ないツールです。
実際にこの罪悪感が社会内で有効に働いた例を紹介すると、これは昔ネットの掲示板で見た話ですが、なんでも大した怪我にはならなかったものの自動車に接触事故を起こされて逃げられた方が、その事故現場に毎日花を自分で置いていたら接触事故の犯人が罪悪感に悩まされてわざわざ自首してきたそうです。
またこれは最近全国の自治体に広がっている方法なのですが、道路の真ん中でよく弁当箱などがポイ捨てされる現場に鳥居に似せた小さな組木を置いてみると、みんななんだかよくないと思うのか驚くほどにポイ捨てが減ってゴミ回収費用の削減に役立っているようです。
上記二つの例は望ましくないとされる行為の行為者の罪悪感に働きかけて自首、ポイ捨ての禁止という行動を見事に誘導させた例です。このように使い方によっては罪悪感(とされるような感情)というのは少ないコストで大きな成果を挙げる可能性があり、また教育においても罪悪感を強く認識させることでいじめや非行、果てには犯罪といった行為への予防策となりうるのではと、先月辺りに電車に乗っているときにぱっと思いつきました。
心理学でこの罪悪感がどのように扱われているのかはわかりませんが、先ほどの鳥居に似せた組木の利用法などいろいろと応用できる範囲はあるのではないかと思うので、もっと罪悪感に着目して社会の中で細かい仕掛けを作っていくのもありなんじゃないかというのが、私がこの一連の記事で言いたかったことです。
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