戦国時代の大名や豪族を最も悩ませたものは何かといえば、それは間違いなく家臣への恩賞だったと思います。というのも当時は現物経済で実質的な生産手段が土地の耕作しかなく、土地をどれだけもてるかがその一家の隆盛に深く結びついていたからです。そのため武士の成り立ちは基本的にはこの土地管理の保護と追認を仲立ちにして起こり、御恩と奉公というように中学校などで習っているとは思いますがそれだけに当時は土地が大事だったのです。
しかし戦国時代になると、主君たる大名や豪族に従う家臣らはただ単に自分らの所領の安堵してもらうだけではもはや従わなくなってきました。彼らの目的は戦争の際に功績を立てることで新たな所領を恩賞としてもらうことが主眼になり、その目的が達成されないのであれば実際によくあった様に主君を裏切ることも数多くありました。しかし大名たちからすると、功績を挙げる傍から家臣に新たに土地の支配権を認めていくとどんどんと自分の取り分が減って行きます。家臣にあげる量以上に他国から土地を切り取れればまだマシですが、それでもあげていく事で家臣としてもどんどんと力を蓄え、ほっとくと主君以上の実力を持つことすらあります。
主君にとってベストなのは言うまでもなく土地を出来るだけ家臣にあげずに彼らを手なずける事ですが、そんな世の中なんでもかんでも甘くなくケチな大名には誰もついてきません。とはいえ、そういった現物経済のあの時代でこの二律背反とも取れる恩賞問題で面白い試みをした大名も幾人かいました。
まず一人目は越後の龍こと上杉謙信で、彼の代に上杉家は「血染めの感謝状」こと、上杉家当主の血判が押された感謝状を功績のあった家臣に発行しております。上杉家はこれ以外にも他家との信用を守ることを第一に軍事行動を行っていたのもあり、ライバルの武田家に比べれば裏切り者を出すことは少なかったように思えます。
この上杉謙信に対しもう一人目の織田信長は更にトリッキーな手段を考案しており、家中に茶道を流行させることでこの恩賞での支配地の流出を最小限に食い止めています。一体どういう意味かというと、信長は京都に上洛するとすぐに千利休などの茶人を保護し、自ら率先して茶道を行うようになって行きました。そうすると彼の家臣らもならって茶道を行うようになり、言ってしまえば茶道に対して特別な意識を持っていきました。そうなると信長にしてはしめたもので、自分が使っていた茶碗や茶器など、他には保護した茶人から無理やりふんだくった道具などを家臣にあげる事で彼らの功績に報いることになり、家臣としても茶道をやっている手前そういったものをありがたいと思って受け取ってしまいます。
恐らく打算的な信長の性格を考えると、彼はこうした目的の元に茶道を保護したのだと私は思います。とはいえこの方法は言い換えるならプライドを家臣に売るというようなやり方で、コスト的には非常に優秀な掌握術だったように思えます。
このプライドを売るという言葉、最近ちょっと注目しているので次回はこれが現代にどう作用するのかを解説します。
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