たまには一応専門だった社会学の話でもします。
さて社会学の専門用語には「情報社会」という言葉があります。この言葉は現代の人間関係を説明する際に使う言葉です。
卑近な例を出すと、大体50年位前であれば自分が生まれた時に産湯をつける産婆というのは近所に住んでいる方で、また自分が死んだ際にその死体を弔うのも生前に知り合いであった近所の方らでした。
しかし現在はというと、誰とも知らない病院の医師によって取り出され、誰とも知らない葬儀屋によって最後弔われます。このように、昔は自分と同じ町内などの生活圏の距離的な長さによって人間関係が作られていきましたが、現在では機能ごとに人間関係が作られていくというのがこの情報社会の言い表す関係です。
それこそ、昔であれば小学生からおっさんになるまで近所の人間同士で同じ生活圏で生活していて、昔の友達は年をとった後もずっと友達で夏祭りなどの近所の行事でも、お互いに顔をあわせてなんやかんや言い合って執り行う関係でした。しかし現在はというと、ネット上で顔も知らないが同じ趣味を持つもの同士で友人関係が結ばれたり、誰が公開しているかもわからない動画などをみて楽しみ、それにコメントをつけるように、人と人との関係性はピンポイントに結ばれていきます。
それはもちろん最初の例のサービスの事例のように、昔は顔の見える人間から農作物といった食料を調達していたのが、いつの間にやら見も知らぬ、ってか中国から渡ってきた野菜を日本人は食べるようにもなりました。
これまでの話を簡単にまとめると、昔の人間関係は小さく濃密であったのに対し、現在では広く薄く、といったような人間関係へと変わっているということです。ちょっと長くなりますが、そういう風に変わっていった経過を順を追って説明します。
まず、今ほど交通の発達していない昔、日本だとそれこそ六十年くらい前でしたら、基本的にその一生の生活圏は大きく変わることはありませんでした。たとえば、私の生まれ故郷である鹿児島県の出水市で生まれた人は出水で教育を受け、出水で働いて、出水で嫁さんをとって、最後は出水で死んでなくなるように、生まれてから死ぬまで出水で過ごしていました。もちろん全く移動することがないわけでもなく、鹿児島県から出たり東京へ行くこともあったでしょうが、それでも当時少ない大学進学者などを除くと一般の方の生活圏は基本的に生まれてから大きく変わることはありません。
しかし集団就職によって地方から都市部へと多くの人々が移動し始める時代(1960年代)に至ると、こういったライフスタイルが大きく変わります。まず教育を受け終わった時点で生まれ故郷を離れた職場へと移動します。そしてこれはあまりレポートなどが出ていませんが、集団就職をした方の大半はその職場の付近で、中には同じ集団就職者同士で結婚相手を見つけています。さらに年齢がいって職場を変えたりしたら、そこでさらにまた移動が起こります。
このように、日本では60年代くらいからまず生まれ故郷と職場が切り離されました。しかし、これはまだほんの序章に過ぎません。その後、東京への一極集中が始まりますと、東京都内には住居が不足し始め、ドーナツ化現象によって神奈川、埼玉、千葉といった周辺地域が東京へ通勤する勤労者のベッドタウンへと貸していきました。この時点で、今度は職場と住居(生活圏)が切り離されます。
そして現在になると、今度は転勤などによる単身赴任もざらになり、家族とまで切り離される方まで出てきました。また職場環境でも親会社から子会社、直接雇用と派遣雇用などというように、同じ会社内でもその位置や雇用形態によって本筋の人から切り離される人も出てきました。また仕事の内容でも、昔では距離的に近い者同士しか交流できなかったのがITや輸送手段の発達によって、瞬時に全国、果てには海外とも取引できるようにもなりました。
確か、イソップ童話の「都市のねずみと田舎のねずみ」という話で、田舎のねずみが上京しますが都市の殺伐とした空気が合わなくて、生活は便利といえども最後には田舎に帰ってしまうという話があります。基本的に、それは今でも大きく変わっていないのかと思います。
少なくとも現時点で中世のヨーロッパよりは現代人は「都市の空気」への耐性はついているとは思いますが、それでも田舎での生活が今でもノスタルジックに語られる点を考えると、今後はどうなっていくかはわかりませんが、人間というのは基本的に情報社会になじまないのだと思います。やはり距離的に短い関係の方が、人間にとっては安心しやすい関係なのではないかと私は思います。逆に、生活圏を構成する家族、住居、故郷、職場、人間関係、仕事、趣味といった要素がばらばらにされていけばいくほど、人間というのは不安を感じていくのではないかと思います。
特に私が20世紀後半の急激な変化で致命的だったと思えるのが、職場と住居の切り離しです。昔はそれこそ地元の農家が作った野菜を地元の野菜屋が売り、地元の料理人がそれを料理して、地元の人間がそれを食べるというように完結していたのが、すでに述べたように今じゃこれが全部バラバラです。中国から来た野菜を、東京に本社のある商社が売り、食品メーカーが工場で食材を大量に調理し、トラックで配送されたイオンでそれを買う人が最後にそれを食べる、とでも言うのですかね今は。
人間、まだ顔の見える相手にならなかなか悪いことはできません。それこそ地元の人向けに売る餃子に毒なんてなかなか混ぜないでしょう。そして職場と住居が一致することにより、同じ地域の人間同士で交流が生まれ、それによって地元への貢献心が強くもなります。その貢献心によって消防団活動や地元のレクリエーション活動、親戚が近くに住むもの同士での結婚というような行動に結びついてくるのだと思います。今、日本で起こっているモラルパニックの一因となっているのは、私はこの職場と住居の切り離しにあるのではないかと考えています。
なんか今日はあまり上手い表現じゃないな……。明日頑張ろう。
4 件のコメント:
花園君の言うように、人は他人との密接な関係を築きたいと願うんだとおもう。一人でいることを好む人でも、他人との関係を一切断ち切って一生を過ごせる人はごくわずかだろうね。
人のこのような願望は、昔の日本では社会システムによって保証されていた。たとえ、人づきあいが苦手な内気な人であっても、先祖代々から付き合いがある近所の人達にその存在を認知され、密接な人間関係を築くことは容易であった。
しかし、情報社会ではそうもいかない。私的に密接な人間関係を築こうとすれば、コミュニケーション能力を駆使して自発的に動く必要がある。外向的な人はそれでも問題ないが、内向的な人にとっては、人間関係を築くのに苦労することも多いだろう。
てなわけで、情報社会では、心理的に満たされない人が出やすいんだろうなー。
情報社会の到来は、社会の効率化を追求した結果だと思うけど、人間の幸せ・不幸せは心のありように依るんだから、心を無視して社会が発展するってのはおかしいよね。効率化のための社会発展じゃなくて、人間のための社会発展であってほしい。
相変わらずきれいなコメントをしてくれてありがとうございます。
継ぐ者さんの言うとおり、社交的かつ自ら人間関係を築ける人にとっては何も問題はないのですが、そんな人間、実際にはそれほど多くはいないと私は考えています。
そうじゃない人間にはこれまで親の世代からの付き合い、小学校からの付き合いというものが人間関係を補填したのに、それを経済効率が完膚なきまでに破壊したというのが現実です。
そろそろ書こうと思っていましたけど、東京大学の神野直彦教授などはこうした現実を指摘し、経済環境を人間に即した形へと変えていくべきだと主張しています。この人は経済学の教授ですが、割とこの辺りは社会学と価値観を同じくする分野な気がします。
僕も、一人でいるよりは他人と関係を持ちたいと思うことがあります。そして関係を持つことが困難だとも思います。大学での友人などではやはり今まで生活してきた環境が違いすぎるのが原因であまり話があわなかったりします。しかし、自分と違う考えをもつ人の意見を聞くことが目的ならそれもいいかなと思います。それでも、僕は地元の友人と今までの出来事などを話したりする時間が一番安らぎます。結局人は幼少時代と本質は変わらないから自分の幼少時代を知る人は自分のことをよく分かってくれる大切な友人なのだと思います。
逆に言えば、自分の幼少期を知らない人は自分の発言に対して誤解して自分が本当に言いたいことの本質を受け取ってもらえないことが多くなるのだろうと思います。
だから僕もモラル・パニックは、故郷を離れて違う土地で生活する人が増えてきたためにおきやすくなっているのだろうと思います。
逆に言うと、猫みたいに孤独でも気にせずに生活できるようになればすべて解決するのかもしれませんね。なんだかんだいって、人間って誰かと一緒にいないと落ち着きませんし。
なんでも、猫ひろしはそういった、孤独でも耐えられる猫こそが究極の生物なのだから、わざわざ芸名に入れたと言っていました。あながち、その考えは間違ってない気もします。
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