「尊敬する人は?」という質問が来た際、私はいつも、「水木しげると今村均です」と答えています。水木しげる氏についてはその思いのたけをこのブログでも何度も書いていますが、今村均氏については多分今回が初めてだと思います。
今村氏は新潟県出身の旧日本陸軍の大将です。同じ出身だということで、山本五十六海軍司令官とも仲がよかったそうです。この今村氏は戦闘での華々しい大勝利という経験こそなかったものの、その決断と指揮については硫黄島での栗林忠道中将と並び旧日本陸軍でも随一と呼ばれています。
今村氏が主な戦場としていたのは太平洋戦争最大の激戦地と呼ばれた東南アジアに位置するラバウルです。この場所はオーストラリア軍、アメリカ軍からの最前線にもなるというのに本国からの補給が難しい場所にあったのですが、そんな難しい地点の防衛を任された今村氏は早くに敵軍によって補給路が遮断されると読み、諸葛孔明の五丈原での対陣かのようにあらかじめ部下を使って畑を耕すなどして持久戦に備えていました。
アメリカ軍は当初、マッカーサーの強い意向もあり進路を完全制覇しながら進んでいこうと考えていましたがこのラバウルでの激しい抵抗を受け、補給路を寸断して日干しにしていくという「飛び石作戦」に切り替え、今村氏の読み通りに戦争の途中でラバウルは日本との補給路を遮断されました。しかしすでに述べたとおりに今村氏はこのような状況にあらかじめ備えており、結局アメリカ軍は最後までラバウルを陥落させる事が出来ず終戦まで日本側が保持し続けることができました。
この戦略眼一つとっても今村氏は大した人間と言えそうなのですが、このエピソード以上に終戦後には今村氏のその人格の高さを伺える素晴らしいエピソードが残されています。
終戦後、ラバウルに残っていた将兵たちはこれからどうなるのかと当初は不安に思っていたそうです。実際に満州など中国東北部に駐留していた部隊はその後ロシア軍から攻撃を受けて捕縛され、厳しいシベリア抑留を受ける羽目となっており、ラバウルの部隊でも米英軍の捕虜になって日本に帰ることはできないのではないかと言われていたそうです。しかし玉音放送の後に今村氏は、
「諸君らからなんとしても日本に帰還させる。だから安心してほしい」
と言い切り、ある兵士はこれを聞いて、「なんとなく、生きて帰れるような気がした」と語っています。
その後現地で武装解除したラバウルの将兵は無事日本に帰還できたのですが、今村氏は戦争指導者として戦犯裁判にかけらることになり、禁固十年の刑を言い渡されてほかの戦犯同様に巣鴨プリズンへと送られることとなりました。しかしその際に今村氏はマッカーサーに対し、こんな手紙を出しています。
「B、C級戦犯となった私の元部下らは巣鴨よりずっと環境の悪いパプアニューギニアのマヌス島の刑務所に入れられているのに、私一人がここでこんな待遇を受け続けることはできない。願わくば、部下たちと同じ刑務所に移送してくれないだろうか」
この手紙を受け取ったマッカーサーは、「まだ日本には武士が残っていた」と言い、すぐさま今村氏の願いを聞き届けてマヌス島へと移送したそうです。一説によると、自分の刑期は終えたにもかかわらず部下が最後の一人が釈放されるまで今村氏は留まったとまで言われています。こうしたエピソードが、今村氏をこの記事の題のように「聖将」と呼ばしめる要因となったのです。
その後今村氏は刑期を満了して日本に帰国してその命を全うしましたが、こうした戦中戦後のエピソードに限らず、ほかにもなかなか面白いエピソードをいくつか持っています。
なんでも、子供の頃から夜に熟睡することができず、将軍となった後でもいろんな場所でしばしば居眠りをしていたそうです。ある日の会議でも居眠りをしていてそれを見咎めた議長が起きろと怒ったところ、今村氏は飛び起きるやその会議での発言を一語一句逃さずに最初から最後まで復唱して見せて、議長に何も言えなくさせたそうです。
こんなエピソードのようにその秀才ぶりは凄まじく、陸軍大学校も首席で卒業しています(同期卒業に東条英機がいる)。その上占領地の軍政も非常に心得ており、今でも現地の教科書などで紹介されるほどらしいです。
そんな今村氏ですが、ラバウルにてある日一人の兵士を見て、「やけに太っているな、こいつ」と言ったそうです。その言われた兵士というのも、私が尊敬するもう一人の人物である水木しげる氏です。先ほどの生きて帰れると思ったということを話したのも水木しげる氏ですが、変な話というか、私の尊敬する人は二人ともラバウル帰りなのです。
2 件のコメント:
今村均氏は、知略と義理を兼ね備えたまさに聖将と呼ぶにふさわしい人物だったんですね。ラバウルは激戦区だったらしいですね。ラバウルをモチーフにした歌もありますし、日本人にとって忘れられない土地なんでしょうね。
記事ではさらっと書いていますが、ラバウルはでもおびただしい死傷者が出ており、しかもその白骨化したした死体の大半は未だに放置されているそうです。
これについて登山家の野口健氏は数年前からこの遺骨を回収する作業を続けているそうです。
これは誰が言っていたのかは忘れましたが、彼らは勝てるはずのない戦場へ捨てられ、その上死んでからも国に二度も捨てられてしまったと言われていますが、私も彼ら兵士に同情する気持ちを感じます。
そういった意味でこのラバウルというのは、日本人は忘れてはならない場所だと私も考えています。
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