うあー……藤川が打たれた。もうこりゃ中日の勝ちかなぁ。
と、阪神対中日の九回の表を見ながらこの記事を書いてます。ぶっちゃけ、かなりテンション落ちたけど。
本店の方のコメント欄で、脳の中で認識する世界と、万物にとって平等な外界世界についてのコメントがあったので、ちょっと今日はそれに関係するかもしれない話を紹介します。
さて、早速ですがプラトンという哲学者は皆さんご存知でしょうか。あのアリストテレスの師匠で、ソクラテスの弟子でもあるギリシャ哲学の三巨頭の一人ですが、ただ日本では割とアリストテレスが好まれ、その後でソクラテス続くので私が見ている限りこのプラトンはちょっと影が薄い気がします。
しかし私の留学時代の相部屋のパートナーだったルーマニア人はこのプラトンが大好きで、自らもプラトンの主張したイデア主義者だと自称してやみませんでした。
それで彼が主張したこのイデア主義ですが、これは間の意識に関する考え方の一つのモデルです。まずはたとえ話からはじめます。
ある日Aという人がBという人に、昨日食べたりんごがとてもおいしかったと話をしました。この時Aの頭の中には昨日食べたりんごが浮かんでいるのですが、話を聞くBはもちろんその実物のりんごを見たことがあるわけありません。しかし話を聞くBの頭の中には全くりんごが浮かんでいないわけではなく、Bの中にも別のりんごのイメージが出てきます。そのりんごのイメージは明らかにAが食べたりんごとは間違いなく一致しないはずです。ですがそんなイメージでもBは、「すっぱいりんごだったの?」と言い返しては、会話を成り立たせることが出来ます。
何故、このように実物を目の前にしていないにもかかわらず、両者の意識の中では概念的に同じりんごが浮かび、またそのイメージがお互いの「りんご」という情報に一致するのでしょうか。ものの捉え方や見方というのは人それぞれですが会話の中に出てくる今回のりんごはもとより、今こうして私がスコップと言えば読者の方にはスコップのイメージが現れると思いますが、何故皆そんなあやふやな共通するイメージで互いの情報を一致させたり、認識を合わせることが出来るのでしょうか。
この疑問についてプラトンは先ほどのりんごの例だと、まず前提として「完全な形のりんご」があるに違いないとおきました。人間はその「完全な形のりんご」、つまり「Ideal apple」を誰もが一度は見ているため、誰がりんごといってもみな即時に認知を同じくすることが出来るのだと説明しました。
それではその完全な形を人はどこで見たのかと言うとプラトンは、人間がこの世に肉体を受けて生まれる前の魂の状態はちょうど一つの洞窟にみんなで入っているような状態だとして、そこではあらゆる情報が共通化されており、そこで完全な形を見てから洞窟を出るような具合でこの世に生を受けるという風に主張しました。
この考えはちょっと応用するなら心理学者のユングが、人間には生物として共通した心理があるため、世界のあらゆる文化の神話がどことなく似たような話になるのは自然なことだとして、そんな心理を「始的心理」と呼んだ話に近いような気もします。また生まれる前の人間の魂が一箇所に集まる集合意識の海のような場所があり、生まれる人間の魂だけがそこからひょいと引き抜かれるというインド哲学のなんかの話にも通じています。
どちらにしろこの説は人間の意識にはそれぞれ独立した「魂」が、攻殻機動隊でいうなら「ゴースト」あることが前提なので、私はあまりこの説に沿う考えをしていません。私なんて人間には魂がないという、人間の意識はすべて脳の電気信号反応だという説の大の主張者でもありますし。
ただもし本当に「ゴースト」があるというのなら、生まれる前の魂はどこにあるかというと、この「集合意識の海」という言葉にすごい惹かれます。具体的な理由がないまま惹かれるので、これまたあっちの言葉を使うなら「私のゴーストが囁くのよ!」といったところでしょうか。でもって、阪神はやっぱり負けちゃいました。
2 件のコメント:
ゴーストですか。あるんでしょうかね?本当に。でも、あると思ったら面白い気がします。最近だと、義足の選手が健常者を陸上で追い越したというニュースを見ました。どんどん攻殻の時代に近づいてますね。人間には共通意識は存在するんでしょうかね。本当に考えれば考えるほど面白い世界観を提供してくれてますよね。士朗氏は。
義足の進歩には確かに目を見張りますね。士郎正宗氏が活躍した時代、大体90年前後は逆襲のシャアの影響もあってか非常にサイバーSFが流行した時代でもあり、良質な未来予測が漫画などでなされていたのですが、このところは逆に不振です。その辺でも記事がかけるので、今度まとめてみようと思います。
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