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2009年9月8日火曜日

社会における時間の速度~激動、現代編

 一日時間が空きましたが、一昨日に書いた「社会における時間の速度~ゆっくり江戸時代編」に続いて社会における時間について今日は解説します。
 前回で私は、江戸時代というのは身分が固定されているなど社会変動が極限なまでに制限された社会であり、それこそ当時生活していた日本人たちにすれば毎日が同じ日々の繰り返しのようで、意識的に感じる時間の感覚というのは現代に比べて非常にゆっくりと流れていたのではないかと主張しました。なお前回の記事で書きそびれましたが、江戸幕府草創期の南光坊天海や本田正信らが、そのような社会変動が小さい社会体制を布いたことが世界史的にも稀有な、その後約250年間も戦争らしい戦争なく日本国内の平和を保ったことにつながったと私は考えていますが、自分が生きていくとなると身分が固定されていた江戸時代の社会はさすがに勘弁なのでこれが理想の社会だとは見ておりません。平和に特化した社会であると言うのは認めますが。

 それに対し現代はというと、自民党の落選議員じゃないですが昨日までブイブイ言わしていた人物があっという間に奈落の底に落ちたり、身分的にみるなら非常に流転が激しい社会であるのは間違いないでしょう。今日にネットのニュースで見ましたが、元グッドウィルの会長の折口氏の自己資産管理会社が破産したそうで、この人は前から私は大嫌いではありましたが、折口氏が転落するきっかけとなったグッドウィルの人材派遣法の抵触までの顛末にはやや腑に落ちない点があるので現在においては同情する気持ちも持ち合わせております。

 ここでちょっと話が二転三転しますが私が現代社会における時間速度に着目するきっかけとなったあるエピソードを紹介します。
 この話をしてくれたのは親父の従兄弟にあたる自分のやや遠い親戚のおじさんなのですが、そのおじさんは元々家電メーカーに勤めていた人だったのですがある日こんな話をしてくれました。

「今、家電メーカーでかつてブラウン管のテレビを作っていた技術者は本当に悲惨な状況だ。バブル期までは家電の花形だったブラウン管テレビも現在は液晶やプラズマに取って代わられ、日本国内で出回っているブラウン管はもう全部中国か韓国製だけだ。かといって20代の社員ならともかく、そこそこ歳いった技術者は今更他分野に自分の技術を生かせる事もできなければ移ることも出来ず、会社内で出世も望めず飼い殺しの状態にいる」

 言われてみるとまだ十年位前までは電気屋で一番スペースも取って大規模に販売されていたブラウン管テレビが現在では見る影もなく、同じテレビはテレビでも使われている技術が大きく違っている別のテレビに取って代わられています。かといってそのように店頭に置かれているテレビの種類が変わったとしても、かつてブラウン管テレビを作っていた人までみんないなくなったわけではなく、そう考えると技術革新というのは未来を作る一方で大量の失業者を生みかねないものだとこの時に気がつかされました。

 このテレビに限らず、近年はこういった電子機器から情報技術まで様々な分野で驚くべきほどの技術革新が毎年のように行われており、自分みたいなローテク(これも死語だな)な消費者からすると新しい製品についていくのすら大変なくらいです。HDレコーダーなんて、未だにどうやって使えばいいのかさっぱりわかんないし。
 しかしこれがまだ消費者であれば新たな製品や技術を使わなければいいだけです。しかし技術者となると自分の培った技術が使われなること即仕事がなくなるということなので、そんな消費者みたいな楽観視はできないでしょう。

 仮にこの技術革新がもっとゆっくり進んでいればどうだったのでしょうか。それこそブラウン管から液晶やプラズマへ移行するまでもう少し時間がかかっていれば、技術者の移行や育成は円滑に行えたのではないかと思います。逆を言えば今以上に技術革新の速度が速まると、学生が大学で学ぶ技術が社会人になる頃にはすでに過去のものとなって使われなくなっているかもしれません。
 先ほどから理系の技術面に関してばかり説明していますが、なにも技術だけでなく文化的な流行や形式も変化が早すぎるといろいろと困ったことになります。それこそこれが礼儀だと教わってきたやり方がいつの間にかひっくり返ってたり、かわるがわる流行に合わせてひっきりなしに振舞い方も変えていかねばならなくなります。

 こうして考えてみると、現代というのは非常に変化が激しく、かつ新しいものがすぐに過去のものになってしまうほど時間の早い社会だという気がします。先ほど私は変化があまりにも少ない江戸時代は嫌だと言いましたが、かといってこれほど変化が激しい現代も決していいものだとは思えません。では現代の時間の速度を今より遅くすればいいんじゃないかという話になりますが、それが出来たら出来たでいいのですが、仮にそのような社会にするために技術革新を少なくして保守的にやってこうものなら、日本の技術や経済はあっと言う間に他国に追い抜かれて貧乏になり、また必死でみんなで働いて社会全体が忙しくなって元の木阿弥と至る気がします。そうなると、社会の速度を上げている主原因はグローバル化ということになるのですが。

 以上のように、いわば現代は加速のついたジェットコースターから降りたいものの、もうすでに降りることが出来なくなっているような状態に社会はあるのではないかと私は見ております。降りることが出来ないからといってコースターの加速は止まっているわけではなく、このまま速度が上がり続ければいつかはレールから外れる恐れもあるかもしれません。まぁ私の友人に言わせれば、「それも人が作ったエゴの結果だよ」と締めくくられるかもしれませんが。なにせ達観し過ぎている友人なもので……。

 最後に、現代の日本人は江戸時代の日本人に比べて30年以上も平均肉体寿命は伸びてはいますが、私は脳や意識が生前に感じる時間的な長さにあたる精神寿命でみると、実はそれほど変わっていないのではないか、むしろ江戸時代の日本人より短くなっているのではないかという気がします。
 そんなわけで次回より、これまでマクロだった社会的な時間の概念からミクロな個人的な時間の概念についていろいろ取り上げていくことにします。多分私の思い付きが羅列されるだけになりますが、こればっかりは自分でも整理してうまく説明できる自信がないのでご容赦してください。

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