久々に今日はあまり書きたい内容が浮かんでこないので、軽くインストラクション程度に日本古代史の謎をいくつかピックアップします。
まず日本が公の歴史に始めて現れるのは縄文時代です。この時代に奴国の使者が中国に赴き、当時の王朝の後漢から金印を授けられたことが記載されており、実際にその金印も江戸時代に見つかっているのでほぼ確実視していいと思います。
その次の弥生時代にはこちらも同じく中国の今度は三国志でいう魏国に卑弥呼が治めていた邪馬台国が使いを出したことが記載されていますが、この辺りからいろいろと事実関係がややこしくなってきます。
というのもその後の中国は五胡十六国時代といって、漢民族とは別の異民族が華北を制圧して非常に混乱した時代となり、隋の時代が来るまで日本のことが中国の歴史書に書かれなくなったからです。そのため邪馬台国以降の時代については日本が独自に製作した「古事記」と「日本書紀」にしか記述がないのですが、ぶっちゃけた話、この両歴史書は事実面での信頼性では非常に低い資料と言わざるを得ません。
古事記については歴史書というよりは神話文書としてみるべきで、もう一方の日本書紀は奈良時代の天皇政権の支配の正当化を説明するような内容となっているからです。
特にこの古代史において一番謎な時代というのは、推古天皇から天武天皇に至るまでの期間です。
推古天皇というのはわざわざ説明するまでもなく日本初の女性天皇で、先ほど述べた中国が隋の時代に使者を送ったのもこの推古朝です。この時代の主役と来れば聖徳太子と蘇我馬子の両名なのですが、皮肉なことに両者の一族は中大兄皇子こと天智天皇と後の藤原氏の祖となる中臣鎌足の両名による大化の改新の時代にはほとんど係累を絶たれております。蘇我氏は蘇我石川麻呂がまだいたけど。
日本書紀によると、天皇による中央集権体制を蘇我氏が阻んで自らの一族の専横を図ろうとしたため、中大兄皇子らがクーデターを起こして、その後政権を正しく導いたというような説明がなされているのですが、推古朝の蘇我馬子は明らかに天皇による中央集権体制派であり、いくらその子孫だからといってそうまで方針転換が行われるのかはなはだ疑問です。
また蘇我氏が討たれた理由の一つとして、聖徳太子の息子の山背大兄王を馬子の息子の蝦夷と孫の入鹿が殺害したことがあげられていますが、仮にも天皇の一族である聖徳太子の息子を一豪族の蘇我氏が討って何もお咎めがなかったとは俄かには信じられません。
結論を言うと、私以外にもこの説を唱える人もいるそうなのですが、私は推古朝というのは実際にはなく、当時の天皇は蘇我馬子だったのではないかと考えています。その馬子を滅ぼして自らが帝位についたというのが中大兄皇子こと天智天皇で、その後のごたごたをまとめて安定した時代を築いたのがその弟の天武天皇ではないかと見ています。
なにせ資料も何もない時代ですからいくらでも推量することが出来ますが、あれこれ話を立てて考えてみると面白い時代ではあります。
ちなみにこの蘇我氏天皇論を語る上で一番立ち位置が分からなくなるのが、日本史において最大の謎の人物とされる聖徳太子です。確かに冷静に考えるなら聖徳太子はむしろ架空の人物としてみた方がいろいろと話の筋道が通りやすいのですが、世界最古の木造建築物である法隆寺がいまだ現存していることから、やっぱり聖徳太子に当たる人物はいると私は考えております。そこら辺の込み入った話はまた暇なときにでも解説します。
2 件のコメント:
日本古代史については、僕も関心がある分野です。最近、古代史『古代史 封印されたミステリー』というPHP研究所の本をぱらぱらっと読んでいたら、中臣鎌足は百済の王子豊章だったという説が書かれていたりして、真偽はともかく、そのような類の説には引き込まれます。聖徳太子についても、幼名はうまやど(←漢字が出てきません)の王子と言い、その出生の過程がキリストのそれと類似しており、この本の中では、聖書から話を引用したと断定しています。 手塚治虫の『火の鳥』というライフワークとも言うべき作品があります。この火の鳥の中でも、卑弥呼の時代や壬申の乱などの歴史的事実をベースに物語が展開されています。漫画ではありますが、手塚治虫の歴史観が要所にちりばめられており、日本古代史を考える上でのインスパイアになったりします。この作品だけでなく、手塚漫画には、素晴らしい作品が多いのでお奨めです。そういえば、『三つ目がとおる』という作品は、考古学的な話題も含められていた記憶が。 古代史について書いていたら、漫画の話になってしまいました。
最近は不景気でこういった考古学の発掘とかも減っているのか、あまりこういった内容も取り上げられなくなってきている気がします。糸井重里氏も、徳川埋蔵金を掘らなくなったしなぁ。
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