2010年3月28日日曜日

時間の止まった風景について

 私が京都にいた頃、大部分の期間を昔から京都駅前でやっていた喫茶店にてアルバイトをしていました。最初は京都市から離れた場所に下宿を借りていたので電車通勤でしたが、市内に下宿を移してからは自転車でいけるようになり京都市北区から鴨川沿いを朝早くから自転車で駆け下って通っていた事を割と今でも懐かしく感じます。

 この店は京都駅前にあるとはいえ競合する店が数多く、また近年はスターバックスなどのファーストフード店も数多く増えたためにやってくる客と来れば決まって常連の客ばかりだったのですが、ある冬の日、見慣れない初老の男性客が午後に一人で入ってきた事がありました。なんか珍しい客だなと私が水とお絞りを持っていくと、その男性客は店内をしげしげと眺め回しながらこんな言葉を言いました。

「ここだけは、変わってないなぁ」

 話をしてみると、なんでもその男性客は十年位前にも私のバイト先の喫茶店を訪れた事のある方だったそうで、京都駅前が十年前と比べるといろんな建物が出来たりしてすっかり様変わりしているのに対してこの喫茶店だけは十年前と何も変わっていないことに驚いていたそうです。その方が感慨深げにコーヒーを一杯飲んで帰ると店主は自慢げに、「どや、うちは昔からずっと同じでやねん」と話した上で、あの客が言った様にその喫茶店の周囲である京都駅前は駐車場が出来たりでかいビルが建ったりするなど、その変容振りはずっとここに住んでいても驚くほどだと話しました。

 私は時間というものは基本的に、視覚的にも聴覚的にも、なにか変化を感じ取る事で初めて時間の経過を認知できると考えております。逆を言えば目に見える風景、耳に入る音がなんの変化もなければ時間というものは感じ辛く、何も聞こえない部屋にずっと閉じ込められたりしたらすぐに時間の感覚は狂うんじゃないかと考えております。
 そこで今回のバイト先の喫茶店の話です。店主も言うとおりにその喫茶店は昔からずっと同じ佇まいで同じ内容の商品を提供し続けており、周囲が大きく様変わりしていることに比べるとなにか一人だけ時間から置いていかれたような、十年ぶりにやってきたその客にとってすれば時間が止まった様な空間であったのかと思います。

 この時間が止まったような空間、言い換えるならば変化が見られない空間というものは、目立たないけど個人々々の時間感覚に大きく影響を与えるものなんじゃないかと私は考えております。

 誰にでもある経験でたとえると、かつて卒業した小学校の前などを久しぶりに通ると、「ああ、ここを卒業してもう○○年だなぁ」などと感じる事は皆さんにもあるかと思います。もっともその小学校が取り壊されていたり改築されていたらちょっとしおらしくなっちゃいますが。
 私は時間の止まった空間というのものは、その空間にかつて触れた事のある時間と現在までの時間の経過をその人に強く認識させる格好の材料なのではないかと思います。ただ漠然と五年前、十年前と抽象的に考えるより、先ほどの小学校との例を出せば卒業してから現在までの時間が○○年だなどというように、抽象的な時間の概念と具体的な時間の概念を結ぶ大きな材料になるような気がします。

 またそのように時間概念を結ぶだけでなく、これは私見ですが時間の止まった空間というものは見た者にぐっと往年の心象を呼び起こす材料にもなるかと思います。これまた誰にでもありそうな例でたとえると、学生時代によく行った飲食店に立ち寄る事ですっかりサラリーマン化してしまった思考が一時的に学生時代に戻り、あの頃は若かったなと振り返りつつもしばらくは学生っぽい考え方をするのが続いたりするなどと。
 もちろんこの様になるのは時間の止まった空間だけでなく昔に聞いた音楽や食べた料理、なんだったら懐かしい知人に会っても十分に起こり得るでしょう。ただ知人の場合、その人が以前とすっかり変わってしまっていたら逆の意味で時間の経過を実感する事になるかもしれませんが。

 友人の言によると私は昔から全くキャラクターが変わらない人間らしく、なんかこのところ会う度にいろんな人間から、「花園君は変わらないなぁ」と言われたりします。ただこれは全く意識していないわけでなく、見かけはともかく私は意図的に思考の根っこのところは自分を変えないように日々努力しております。何故そうしているのかという理由はひとまず置いといて、その自分を変えないための一つの手段として用いているのがまさに今回紹介した時間の止まった空間で、別に大した儀式めいた事をしているわけではないのですが自分の人生の節目節目において、その当時の自分を強く想起させるような風景や場所を心中で設定し、記憶に留めるようにしております。

 目下の所、今の自分にとって一番思い入れが深い「時間の止まった空間」に当たるのは京都市伏見区にある伏見稲荷神社で、京都に立ち寄った際には必ずここを一回は通るようにしております。何故伏見稲荷がそのような場所に設定されたのかといえば、まず第一には神社ゆえにこれ以後もめったな変化が起こらないことが予想されることと、割と自分が野心満々だったころに初めて訪れたということからです。

 人間、肉体が老いるということは今の技術ではどうにも抗えません。しかし精神については心がけ次第ではまだどうとでもなる余地があり、自分の精神性がピークに近づいたと感じたのであればゲームのセーブじゃありませんが、時間の止まった空間になにかしらその痕跡を残しておくというのは悪い事じゃないと思います。仮にそれ以後に自分の精神が更なる成長を遂げたとしても、過去のセーブ記録と比較する事で成長を実感したり、その時点で必要なものがわかってくるかもしれません。
 こういうところに妙にこだわるあたり、いつまでも子供っぽいと言われる所以なのでしょうが……。

2 件のコメント:

  1.  おもしろい考え方ですね。少しわからない部分があったので質問させてもらいますね。「時間の止まった空間になにかしらその痕跡を残しておく」というのはどういうことですか?花園さんの話に出てくる喫茶店にメッセージみたいなのを残して、10年後にそのメッセージを見に来るといった感じのことでしょうか?

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  2.  こうしてみると結構紛らわしい事を書いていますが、ただ単純に強く記憶に留めるようにしているだけです。ただ私の記憶の仕方はここでのやり方に限らずやっぱり特殊なようで、今回の場合ですと、「この場所には○○歳の自分がいて、後年訪れた際に××したことを必ず思い出すように」などと、思い出す内容を指定するかのようにして記憶の断片にとどめるというやり方を取っております。

     恐らくここで書いたことは多かれ少なかれ一般の人々も無意識にやっていると思います。一番やりやすいのはやっぱり写真とかをとっておくことですが、私はどうも写真が好きになれないのでこんな方法をとっているわけです。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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