昨日今日と延々データ入力作業をやってて正直しんどい上に、気合のいる記事の執筆なので、ちょっとYoutubeでスパロボの曲とか聞いてます。結構元気になるもんだ。
そんなどうでもいいことはほっといて、早速昨日の続きです。まず最初に私の経験を話します。
これは私の友人の話ですが、彼はインターネットのヘビーユーザーに分類されるくらい毎日ネットをして生活しており、話す話題も大体ネットで流れている情報ばかりです。そんな彼と話をしていたある日、なんかの拍子で現実に存在する某利権団体の話題になった際、その友人は非常に感情的になって激しい言葉でその団体に対する批判をまくし立て始めました。そこで一通り彼の意見を聞き終えた後、私は彼に対してこう尋ねました。
「ところで、君はその団体から直接的な被害を被った事はあるのかい?」
別に隠す必要もないのでその団体名もこの際挙げますが、その友人が批判していたのは音楽著作権管理団体のJASRACです。友人はJASRACが汚い手段で金を儲け、アーティストなどを圧迫させているし多くの一般人を困らせているなどとあれこれ例を挙げて言うのですが、私の目からするとまるで路上で誰かによって突然殴られたかのようなほどの激しい剣幕で怒るのに奇妙さを感じ、改めてこう言いました。
「君がJASRACに怒りを覚えているのはよくわかった。しかし私にそんなことを伝えたところでどうにもならないし、具体的に君がどうしたいのかがいくら聞いても見えてこない」
私がその友人に一番奇妙さを感じたのは、まるでその友人自体がJASRACによって被害を被っているかのように話す点でした。これはその友人に限るわけじゃないのですが、一般的に人間は、何かしらの攻撃に対する抵抗であれば、どんなことをしてもいいという前提があるような気がします。大きな例だと9.11後のアメリカの中東世界への対応、卑近な例だとモンスターペアレントに代表されるクレーマーですが、被害者という立場を得ると人はまるで免罪符を得たかのように途端に攻撃的になる気がします。
今後はどうなるかはまだわかりませんが、少なくとも現段階でそういった感情を持つことは別におかしくはないように私は思いますし、世間も被害を受けての抵抗ならば何をしてもしょうがないというような認識を持っているように思えます。
しかし、それが許されるはあくまで当事者の場合です。今に始まったことではありませんが、当事者でないにも関わらず、社会事件などに激しく批判する人間というのは本質的に邪悪だと私は考えています。
特に一番それが顕著に現れたのが姉歯元建築士による強度偽装事件でした。事件が発覚するや実際に強度が偽装されたマンションに住んでいた方々などは非常に不憫でしたし、事件の関係者に対して怒る気持ちもよくわかるのですが、連日の報道ではまるで知った風な口調でコメンテーターなどが事件の関係者を非難し、またネット上でも激しい暴力的な批判が毎日のように並びたてられました。
しかし、こうした批判が行われた結果はどうだったのでしょうか。そういった世間の批判に答える形で改正された建築基準法によって今度はなかなか建築許可が下りなくなり、土建屋を中心とした経済活動などでは目に見える形で悪影響を受けました。私は土建屋やゼネコンに対して談合問題などがあった背景から批判的ではありますが、この制度改正によって真面目に仕事を行ってきた土建屋の方々はどうなったのかと思うとこれもまた不憫に思います。
そしてなにより、この事件では明らかに連日のパッシングが原因で姉歯元建築士の夫人は自殺に追い込まれています。
これもちょっと以前にコメント欄などで話をしましたが、社会事件などで激しい批判が行われるために、何の罪もない犯人の近親者が学校の転校を迫られたり、仕事を退職せざるを得なくなったりと、いわゆる報道被害というものがよく発生します。特に最近だとインターネットを通して根も葉もない情報から大きな被害を被る方も現れ、問題の重大性が拡大しているようにも思えます。
こうした背景にある心理として、「犯罪者になら何をしても許される」というような前提があるのも一つの要因ではないでしょうか。しかし昔から罪を憎んで人を憎まずという言葉があるように、社会悪などに対して個人的な怒りの感情をぶつけるべきではなく、何をどうすればその問題の対策になるのか、純粋にどの行為に対して怒りを持つのかと、私なりに言えば冷静な怒りが要求されると思います。
そこで最初の話です。人間は一旦自分が被害者だと思うと、非常に攻撃的になります。これは数十年かそこらでは恐らく絶対に変わりっこない前提です。にもかかわらず今じゃ社会事件などに対するテレビの報道などでは明らかに視聴者に対して被害者意識を煽りたてるような報道ばかりします。今の三笠フーズの事件だって、焼酎を飲んで病気になったのはこいつらのせいだと言わんばかりの報道です。
私が言いたいのは、部外者であればあくまで部外者という立場を認識して事態を見つめるべきだということです。決して報道に乗らず、自分も被害者であるように思い込んで問題の本質を外した批判を行うべきではありません。真にそういった社会問題を解決する手段は一時の激昂ではなく、継続した批判であると私は思います。なので今でも解決されない問題を常に忘れないよう、障害者自立支援法やトービン税などの問題を機会あるごとに取り上げていき、周りにも喚起していくつもりです。
人に同情することは別に悪いことではありません。しかしあまりにも同情するあまり、自分も被害者だと思い込むようになったら話は別です。今、アメリカがアフガニスタンとイラクで苦しんでいるのはまさにこれが原因であると思います。
こんなえらそうなことを言ってはいますが、私自身もかつてはそんな人間でありましたし、今でも完璧に切り分けられる自信はありません。しかしできないまでも心に深く刻み、忘れない心がけとして持って、明日もまた社会批判を行っていくつもりです。
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